「姉ちゃん、お腹すいた……」
「あぁ、ごめんよ。ジャムス……」
痩せ細った弟を抱きしめて、アタシはその小さな背中をそっと撫でた。
隙間風と砂埃が入り放題の、廃材で作られた粗末なあばら家……そこが今の我が家だった。
去年までは、裕福とまでは言えないながら、まだしもまともな生活が出来ていた。
しかし、父親が病で倒れてから、転落はあっという間だった。
ただ少し体調を崩しただけだと思っていたのに、熱が出て、寝込んでいる内に死んでしまった。
本当に呆気なく、何かの冗談かと思う程だった。
庶民にとって薬は高く、多少の熱なら我慢するのが普通だ。
昔ながらの手法で、身体に良いとされる葉を煎じ、青臭い液体を飲み込んで寝る。
それで二、三日安静にしていれば、少しずつ快復する筈だった。
しかし、その日に限っては全くの逆で、何の効果も発揮もせず……。
実な何か、重大な病だったのではないか、と大人たちは言っていた。
癒者に診せていればと嘆いていたが、そんなこと、今更言われても意味のないことだ。
どうであれ、葬儀は執り行わなければならず、そしてそのせいで蓄えの殆どがなくなった。
父の収入頼りだった我が家は、母が働くしかなくなったが、生まれてこの方、家事と育児しかして来なかった母にとって、それはとても難しい事だった。
半年程度で身体を壊し、朝から夜まで働き通しのが原因で、過労だと周囲から言われた。
収入が失くなれば、いま棲んでいる所にも居られない。
頼れる親戚の類いもなく、だから最終的にスラムへと流れた。
そこで見た最初の光景に、絶句したのを覚えている。
不衛生で悪臭のする路地、薄汚れた格好の人たち、喧嘩して暴れる住人……。
以前住んでいた所も、決して立派な場所ではなかったが、ここまで酷くはなかった。
掃き溜め、という言葉が脳裏をよぎり、そして今日からその一員なのだと、ひどく落胆した。
――食いっぱぐれたら、エルトークスを頼れ。
その言葉に縋って来たけれど、保障されたのは最低限の生活だけで、十分な生活が出来る訳ではなかった。
心の何処かで、以前と同じ生活が出来る、と思いこんでいたのだと知る。
それが甘い考えだとは、着いてから気付いた。
だが実際、エルトークスは炊き出しをしてくれる。
数日に一度、昼のみの食事だが、食べられるだけでもマシだ。
母はそういう考えだったし、アタシもそう思おうとしたが、お腹を空かせて泣く弟を見るのだけは辛かった。
だが育ち盛りの弟は、どれだけ食べても、食べ足りる事はない。
だと言うのに、たったあれだけの食事で足りる筈もなかった。
――今、働けるのは、アタシだけだ。
家族を支えられるのは、アタシだけ……。
その思いで働き先を探したが、朝日が昇ってから日が沈むまで働いて、得られるお金は、パン一つ分にしかならなかった。
子どもで……しかも女となれば、その程度のものらしい。
アタシが特別安く見られたのではなく、そういうものだと、スラムの誰もが口を揃えて言った。
これでは生きていけない。
母も日に日にやつれていき、寝床から起きられる日が少なくなっていった。
貧困のどん底で、差し伸べてくれる手などなく、一度エルトークスは拾ってくれたが、それ以上の施しもなかった。
――自分でどうにかするしかない。
その時、アタシは初めて犯罪に手を染めよう、と覚悟した。
――やらなければ、生きていけない。
差し伸べる、救いの手など何処にもありはしない。
必死の思いと、飢えて泣く弟を見て、アタシは決意した。
だが同時に、それが犯罪で得たお金で生き繋ぐのだと、自覚せねばならなかった。
――父は善良で、誇りある人だった。
頼りない所もある人だったけど、善意が服を着ているかのようで、罪を憎んで人を憎まず、を地で行く様な人だった。
アタシはそんな父が好きだったし、自分もそうあるべきだと思っていた。
――だけど、それだけは生きていけない。
善意と誇りは、このスラムで生きて行くには、全く向かなかった。
だから、父の誇りに背を向けて生きる。
でも……、勝手な思いだけど……。
弟だけは、その父の誇りを持ち続けて欲しかった。
汚れるのは自分だけで良い。
でもせめて、可愛い弟だけは……。
ある日、アタシはジャムスに言った。
いや、告白や懺悔の方が、むしろ言い方としては近いのかもしれない。
自分がする事が犯罪で、悪しき事だと自覚し、自戒したいから口にした事だった。
「良いかい、ジャムス。姉ちゃんが必ず、お金を持って帰って来る。だから泣くんじゃない。強く生きるんだ。誇り高かった父さんみたいに」
「うん……。でも、姉ちゃんは? 姉ちゃんもでしょ?」
「いいや、姉ちゃんは……父さんの誇りに背く。生きて行くにはもう、それしかないんだ」
ジャムスはくしゃり、と顔を歪ませて泣きそうになった。
「でもね、ジャムス。お前は誇り高く生きるんだ。誰にも後ろ指さされない生き方を。父さんみたいに……。姉ちゃんが必ず、そうさせてみせるから」
「やだやだ! 姉ちゃんもいっしょがいい! 姉ちゃんも……! 父さんがおこるよ!」
「きっと許してくれるさ。それにね、こうして飢えるまま見殺しにする方が、きっと怒るだろうさ。ジャムス、お前は誇り高く生きるんだ」
泣き付いて、剥がれようとしないジャムスを振り切って、アタシは走った。
足の速さや身軽さには自信があって、大人でも追い付けないのが、アタシの密かな自慢だった。
だから、隙があればそこを突いて奪い、逃げ出すくらい訳はないと思った。
それに、スラムで暮らし始めて地理も覚えた。
入り組んだ道は迷路そのもので、馴染みのない者が追いつくなど不可能だ。
だから、失敗はあまり考えていなかった。
――あとは、誰を……何を狙うかだ。
誰でも良いと言っても、身なりが良すぎる相手は良くない。
貴族を狙うのは以ての外だ。
反撃があるかもしれないし、スラムに逃げ込めば、スラムそのものを攻撃して来るかもしれない。
だから、理想を言うならば、何も知らなそうなお上りさんが良いのだが……。
そう考えて路地の陰から隙を窺っている時、小綺麗に着飾った獣人の子が目に入った。
子ども数人を引き連れて、美味そうな臭いのする肉を頬張っている。
実に幸せそうな顔だった。
去年までなら、あそこに居たのはきっと自分だった。
月に一度、父さんが屋台の肉を買ってくれて、一緒に食べるのが大好きだった。
アタシの手から零れ落ちた物を、何一つ苦労することなく受け取っている奴がいる。
――妬ましい。
自分の奥底から、昏い心の声を聞く。
だから、だろう。
自慢気に取り出した革袋。
恐らく金が入っていると思われる、その革袋を見た瞬間、心が決まった。
もしかしたら、良い所のお嬢さんかもしれない、という考えは、頭の中から綺麗さっぱい消えていた。
――やるぞ。
気配を殺し、息を呑み、身体を屈める。
脳天気な顔を見る程に、力が漲って来る気がした。
隙だらけの子ども相手だ、失敗する可能性など頭の隅にも浮かばなかった。
物陰から飛び出し、一瞬の隙を突いて盗み出す。
後は全速力で駆けるだけだ。
びゅうびゅうと風が耳を叩き、景色が後ろに流れていく。
興奮と緊張で、心臓がバクバクと言っていた。
表通りからすぐに裏路地へと入り、入り組んだ道を走る。
それだけで、相手は泣き寝入るすると思っていた。
だが、そうではなかったと、直後に知る。
恐ろしい勢いで――アタシ以上の速度で追い掛けて来たからだった。
無我夢中で走り、自分が何処を進んでいるかも分からず、とにかくスラム目掛けて走った。
そこまで行けば、逃げ切れる。
誰も好んでスラムには入ろうと思わない。
そう思っていたのに、いつの間にか獣人の子だけではなく、更にもう一人増えていて、二人掛かりで後を追われた。
しかし、スラムの中ならば地の利がある。
その上、スラムの住人は外の人間を嫌うから、勝手に喧嘩を始めてくれるという打算もあった。
それを期待して、まさにその通りの展開になったのに、奴らは全く歯牙にも掛けず猛追してきた。
屋根の上に逃げれば、と必死に爪を掻いて登ったが、これも殆ど意味がなかった。
結局捕まり、どうしようもなくなった。
アタシは項垂れて口の端を噛む。
――こんな事なら、誇りのままに死ねば良かった。
結局アタシは、ジャムスを腹一杯食わせてやれないまま、牢に入れられてしまうのだ。
病に伏せた母、まだ幼い弟……。
家族はどうやって生きて行けば良い……?
暗澹たる、とは正にこの事だと思った。
しかし、ジャムスが私を庇いに出て来た事で、風向きが変わる。
獣人の母である恐ろしい――本当の意味で恐ろしい――母は、事も無げに言ったものだ。
「リルの頼みだ、何とかしてみよう。少しの間、辛抱していろ」
そう言い残して、二人は去って行った。
そして、その翌日の事だ。
エルトークスから人がやって来て、炊き出しが行われた。
それは日常の光景だったが、いつもより早い時間……早朝に近い時間帯だったのが、違うと言えば違っていた。
「お前らに報せがある! 食いモン受け取っても、しばらくこの場に残れ!」
いつもならば、他の誰かに奪われないよう、逃げる様に帰るものだ。
呑気にその場で食べていたら、腹を空かせた誰かが、足りないと喚いて来る危険がある。
言うこと聞かずに逃げてしまおうか――。
一瞬、そうも考えていたが、直後に残っていて正解だと思った。
「今日から炊き出しの回数は毎日三回になる! 朝、昼、夕の三回だ!」
周囲から、どよめきが起こった。
アタシも我知らず、声に出していたと思う。
これで少しはジャムスの腹を満たしてやれる。泣く機会も減るだろう。
そう思っていた矢先、更に驚く発言が耳に飛び込んで来た。
「また、新規事業の開拓により、人手を募集してる! 働きたい奴は、後で別に人がやって来るから、そこで申し込みしろ!」
「何か……話が上手すぎやしないか? 餌で釣って、キッツい重労働でもさせようってんじゃ……」
何処かの誰かが言い出して、群衆もにわかに騒ぎ出す。
稼ぎもどうだとか、不満と不安が、そこかしこで声を出した。
「ウチのボスが、直々に取り扱う仕事だ! そう悪い事にはならねぇ! 早いモン勝ちだぞ!」
その頃には、もしかして、という思いが胸を支配していた。
あの美しくも恐ろしい獣人の母……。
あの人が何かして、それでこんな事になっているのではないか、という予想が……。
「あのっ! 子どもでも、その仕事できますか!」
気付けば、手を挙げて声を出していた。
周囲から視線が集中する。
思わず視線を浴びて、身体を縮こませていると、エルトークスの人は大きく頷いた。
「子でも出来る仕事だと聞いてる! 親のいないヤツ、いても子どもが稼がなきゃ行けないヤツは、優先して雇うぞ! お前らも良く考えとけ!」
そう言って、男の報せは終わった。
生きるには……犯罪以外で糧を稼ぐには、アタシに選択肢は殆どない。
そして、もしかしたら、これが最後の救いの手かもしれなかった。
そう考えたら、最早悩む必要など、何処にもなかった。
※※※
それから暫くして――。
「それじゃ、姉ちゃんは仕事、行って来るからね!」
「うん、早く帰って来てね!」
「いつもありがとうね、マジェンダ」
ジャムスと母さんが見送ってくれる。
あれから受けた仕事は簡単な作業で、しかも稼ぎが抜群に良かった。
食事に困る事はなくなり、母の薬まで買えて、既に快方に向かっていた。
寝たきりで筋肉の落ちた身体では、まだ満足に働けず、仕事はしていないものの、今は少しずつ良くなって来ている。
「母さんも、もう少ししたら働くからね。それまで辛抱しておくれ」
「大丈夫! もうゼンゼン仕事にも慣れて、楽しいくらいだから!」
「姉ちゃん、オレも働くよ! オレぐらいからでも、働けるんでしょ?」
「うぅ~ん……、今は人気の職だから、子どもの手は足りてるんじゃないかな。それに、アンタはそんなコト考えなくて良いの!」
ぐりぐりと頭を撫でてやれば、不満そうにしながらも、ジャムスは笑った。
あばらが浮いていた身体も、今ではすっかり肉付きが良くなり、健康的になった。
まだまだ痩せている方だが、それでも今は腹を空かせて泣く事もない。
炊き出しだけでなく、アタシの稼ぎで肉と野菜を買える様になったから、そういう不満はどこにもなかった。
劇的に……。
余りに劇的に、全てが変わった。
いつから変わったかと言えば、あの時以外にないだろう。
獣人の子と、その母……。
あの時から一度も会ってないし、本当に彼女がしてくれたかも分からないが……。
それでも、あの出会いには感謝していた。
あの出会いが、全ての転換点だったのだと、今になると思う。
外の日差しは強く、近頃は気温が高くなって来ていた。
「あ、いけないっ! 急がないと、遅刻しちゃう!」
「うん、馬車に気を付けなさいね」
「分かってるよ、行ってきます!」
「姉ちゃん、行ってらっしゃい!」
あばら家を飛び出し、路地裏を駆ける。
走りには自信があるのだ。
スラムの中にある工場には、開始前に着ける。
強い日差しが、スラムの路地にも注ぎ、行く道を明るく照らしている。
風が吹き、背中を押されて、更に足を速めた。
夏の到来が、どうやらそろそろ近そうだった。