夏の入学日 その1
「あぁ〜ん……っ! アロガが、ボールとったぁ……!」
街から帰って来た翌日の事、早速ボール遊びをしようとしたリルに災難が襲った。
お気に入りになったボールで遊ぼうとしたのだが、それより更に気に入ったのがアロガだった。
噛み付いて持ち上げたり、殴り付けて転がしたり、骨付き肉より夢中と思わせる程だ。
リルが自分の物だとアピールしても、転がしながら逃げていく。
必死に後を追い、取り返そうと躍起になるのだが、どうにもアロガの方に分があった。
まだボールに触れて間もないというのに、器用に転がしながら逃げていく。
リルに取られまいと、フェイントを入れつつ逃げる徹底ぶりだ。
密かな才能が開花しているのを見つつ、私は薄く笑う。
こうなる事は、殆ど予想済み、みたいなものだ。
結局、取り返す事が出来ず、トボトボと帰って来たリルに、後ろ手で隠していたボールを前に差し出す。
突然、眼の前に現れたボールを見て、リルのしょぼしょぼになった顔が、みるみる内に晴れやかになった。
「あっ、ボール! そっか! もういっこ、あったんだ!」
「そうだよ。買っておいて良かっただろう?」
「うんっ!」
猫や犬は、ボール遊びが好きなものだ。
アロガはどちらでもないし、魔獣ですらあるのだが、普段の彼を見ていると、いっそ身体の大きな犬と思える時がある。
だから、ボールを見たら放って置かないんじゃないか、と思ったのだが……。
やはりと言うべきか、案の定だった。
私から嬉しそうにボールを受け取り、早速遊ぼうとしたリルだったが、その様子にアロガが気付いた。
颯爽と駆け寄り、そのボールさえ、リルから奪おうとする。
「やッ! ダメっ! これ、リルの!」
リルは身体を丸め、腕で囲ってお腹の中にボールを隠そうとするが、アロガも簡単には諦めなかった。
リルを剣牙で傷付けない様にしつつも、鼻面を突っ込み、ボールを強奪しようとしている。
その熱意は事更に強く、徐々に腕がこじ開けられそうになった時、リルは立ち上がって逃げ出した。
「もう、やッ! お母さん、なんとかしてぇ……!」
遂に泣きが入り、リルから救援の声が出た。
助けるのは無論簡単だが、さてどうしたものか、と頭を悩ませる。
アロガの口は一つしかないから、最初にリルから奪ったボールは、地面に放置されたままになっている。
だから、ひょいと手を動かし、ボールを手元へ引き寄せ、奪われた端からリルに与えてやっても良いだろう。
だが、それでは結局、ボールを奪っては奪い返される、いたちごっこになりそうだった。
空気中に漂うナナは、リルとアロガの攻防を他人事の様に見つめており、これに参加するつもりはないらしい。
リルの味方で守護者のナナでも、姉弟同士のじゃれ合いでは、傍観者に徹するつもりみたいだった。
「ナナ、何か知らないか?」
「何かって?」
宙で腹這いになり、パタパタと膝を曲げて見つめるナナに、私は問い掛けた。
私はリルの泣き声からしか、この事態を見ていないが、彼女ならば一部始終を目撃していた筈だ。
「リルは何か、アロガの気に障るような事でもしたかどうか、って話だ。最初は単純にボールで遊びたいだけ、と思ったんだが……。あの執心っぷりを見せられるとな……」
「ん〜……、確証はないんだけど……」
そう前置きして、顎の下で組んだ腕に、その顎を乗せながら言った。
「最初はアロガもリルの傍で、大人しくしてたのよね。転がるボールを一緒に追い掛けて、一緒に蹴り合う様な事もしてた。でも……」
「あぁ、何となく分かってきた。もしかしてリルは、アロガを無視して、ボールばかりと遊んでいなかったか? つまり、ボールを独占しようとしてたとか……」
「あぁ、そうそう。そんな感じね」
やはりか、という気持ちを息にして吐き出す。
つまり、アロガは単純に嫉妬したのだ。
自分を差し置いて、ボールがリルばかりと遊んでいると、感じてしまった。
リルの方もボールにばかりご執心で、アロガを気にもしない。
それが面白くなかったのだろう。
「リルは何と言うか……。アロガとは生まれた時から、殆ど一緒に時間を過ごして来たから、遠慮というものがないんだよな……」
「一心同体と言えば聞こえが良いけど、あれは自分の手足の如く扱う感じよね。つまり、腕がパンを口に運んだからって、そこに感謝しないのと一緒……みたいな」
「だから、自分一人が楽しい事は、それ一つで完結してしまいがちだ。アロガがどう思うかまで気にしないんだよな。そこは少し、直してやらないといけないか……」
今もボールを奪われまいと、アロガの頭を叩いているリルを見て、更に思いを深くさせる。
「自分の事をお姉ちゃんって思っているなら、弟のことは可愛がるとか、せめて気にしてやるぐらいの気持ちでいて貰わないと……」
「遠慮のない間柄って素敵だけど、あれはそれとも少し違うわよね……。私もこの先、あんな風に扱われちゃうのかしら?」
「流石にそこは線引させるさ」
悪戯っぽく笑うナナに、私は手を振って否定した。
本来、精霊とは敬うものであって、友達感覚で付き合うものではない。
獣人国家では、今なお精霊信仰が盛んで、常に強い敬意を抱いている。
そして、それは魔法使いとしては共通の認識であり、リルの関係が特殊なのだ。
そもそも、獣人国家では魔法使いを不敬な存在だと考えられている。
精霊と契約し、精霊に力を借りて様々な現象を引き起こすのが魔法だが、その行いこそが不遜、という考えだ。
獣人が魔法を使えないとか、力任せで魔法オンチという認識は、そこから来ている部分が大きい。
本来、魔法を扱う適正という意味では、人も獣人も変わりはしない。
その考え方や信仰の違いから、魔法と距離があるだけなのだ。
「まぁ……、ともかくリルには、そろそろ認識の切り替えが必要みたいだ。子どもらしく伸び伸びと……というのが、私の教育方針だが……。同時に、物の道理を覚え始めて良い頃だ」
何しろ、この夏から学校にも通う事になるのだ。
少々、伸び伸びと育て過ぎたから、一般的な感性とは、少し離れている部分もある。
我慢を覚える事も必要だし、それとは逆の理不尽な物事に対して、立ち向かう気構えなども、知る必要があるとは思う。
だが今は、アロガに対する思い遣りを知って欲しかった。
「リル、あんまりアロガを叩くんじゃない。もっと優しくしてやりなさい」
「だってぇ……!」
アロガは
しかし、親密な相手から受ける攻撃が、痛くない筈がない。
「リル、アロガは一緒に遊びたいだけなんだよ。ナナは言ってたぞ、最初は一緒にボールを追い回してたんだろう?」
「んぅ……、そうだけど……」
「一人でボール遊びを始めたから、アロガはきっと拗ねたんだ。もっと労ってやりなさい」
そう言って諭しても、リルはどこか不満そうだ。
それもやはり、アロガを自分の手足と同列に見ているが故だろう。
ごく普通にしているのに、身体を労れと言われても、納得し難いのと同じ理屈だ。
私の言葉を聞き取って、アロガは既にボールを奪おうとはしなくなっている。
そして、リルを見つめる瞳は、何かを期待する様に見えていた。
「グルゥ……」
「そっか……。ごめんね、アロガ。リル、きっとイジワルしてた」
「ウォウ!」
「偉いぞ、リル。ちゃんとお姉ちゃんらしく出来たな」
私が褒めると嬉しそうに笑い、そしてアロガがリルの顔や耳を執拗に舐めた。
顔中ベトベトになって袖で拭いつつ、ボールをアロガの鼻先へ突き出した。
「じゃ、いっしょにあそぶ? でもなぁ……、アロガはボールのなげあいっこ、できないし……」
「じゃあ、取って来て貰うのは? 遠くに投げたボールを、自分の所までね」
「おもしろそう! やってみよ、アロガ!」
貴族など、裕福な家庭で育てている犬は、そういう躾をされる事もある。
そして、猟犬ともなれば、獲った獲物を引きずって来ることさえあるのだ。
アロガは取り分け賢い魔獣だし、簡単にやってのけると思ったのだが……。
リルの投げたボールを興味なさそうに見やり、代わりにリルに纏わり付く。
「ちがうのっ! アロガ、ボールをとってくるの!」
「ウォウ、ウォウフ……!」
しかし、アロガには全く、その意図が伝わっていなかったようだ。
もしかすると、ボールを投げ捨て、放棄した、という風に映ったとか……。
自分だけに構う意思表示と思って、だから興奮気味に身体を擦り付けているのかもしれなかった。
「考えてみれば、そういう訓練もしてないのに、いきなりボールを持って来る筈もなかったな……」
「どうするの? アロガったら、尻尾をブンブン振り回して、リルを押し倒してるけど……」
そして、リルの顔面はヨダレまみれになっている。
「アロガ、ちがうの! ボール! ボールとってきて!」
そう言っても、アロガは舐め回す事を止めない。
ボールより自分が選ばれたと、その喜びを体現しているかのようだ。
リルの悲鳴が響き渡り、妖精の何匹かが、何だ何だと様子見に来るまで、リルとアロガのじゃれ合いは続いた。