民家より少し大きめ程度の学舎へ戻ると、授業は丁度終わる頃だった。
ガヤガヤと騒がしく、椅子を引いて床を擦る音や、別れの挨拶などが聞こえて来る。
私は少し離れた所からリルが出て来るのを待っていたのだが、同じ様に待つ親の姿は周囲に見えなかった。
この街にこうした学舎は他にも数点あり、だから遠方から通う様な事はまずない。
誰もが近所の顔見知りだから、わざわざ迎えに来る事もないのだろう。
それに、この辺りは比較的治安もよく、スラムから離れた区画だ。
別の学舎だと、また違った趣きがあるのかもしれないが、ここはそういう気風の様だ。
そんな事をツラツラと考えていると、生徒の一人が扉を開け放って飛び出して行った。
お腹が空いているのか、それとも用事があるのか、一目散に道の先へと駆けていく。
だが単純に、家の用事、という線も考えられた。
ここに子どもを通わせる家庭は、決して裕福とは言い難い。
早く帰って家の手伝いをしろ、と厳命されているのかもしれなかった。
この学舎に通う生徒は十名程――。
何とかギリギリ通わせている、という家庭も多かろう。
一人、また一人と出て帰宅して行くのを見送っていると、丁度半分の辺りでリルが出て来た。
初めての学校、初めての団体行動。
戸惑う事は多くあったろう。
しかし、良い経験、良い学びを得られる筈……と思っていたのだが、リルの表情は鬱々と曇っていた。
何かあったのだ、とはすぐに察せた。
伏せられていた顔は、私を見つけると悲しげに歪み、それから一目散に駆けてくる。
その後から出て来たミーナやモンティも、そのすぐ後ろに続いた。
リルは私に抱き着くと、身体全体を押し当てて強く握って来る。
今にも泣きそうなのに泣く事はせず、必死に耐えているようでもあった。
そのただならぬ雰囲気に、私は眉を顰めて窺った。
「リル、どうしたんだ? 学校で嫌な事とか……?」
リルは応えない。しかし、その代わりに抱き締める強さが強くなった。
いつもなら大粒の涙を流して大声で泣くだろうに、今はそれがない。
それだけでも大変な思いを胸に秘めていると分かる。
そして、それを簡単に表に出すことを良しとしない、幼いながらに強い意志を感じさせた。
小さな失敗の一つや二つでは、こうはなるまい。
恥を掻かされたのか、とも思えたが、それともまた違う気がした。
「……リル?」
優しく頭を撫でて促しても、一向に返答しない。
埒が明かず、心配そうに見守っていたミーナとモンティへ、少々尋ねてみる事にした。
「学校で何があったか、訊いても良いか?」
「リルちゃんのママ……。うんとね、すごくイジワルされたの」
「意地悪……」
学校には生活も、性格も、そして種族も違う者達が一同に揃うのだ。
そこに大なり小なり、摩擦が生まれるのは当然と言える。
そして、子どもというのは純粋であるからこそ残酷なもので、思ったことをそのまま口に出すケースも少なくない。
あるいは単に、悪いとも思わず悪口を口に出す事もある。
恐らくは、そうした今まで受けた事のない悪意を受け取ってしまい、リルは自分がどう反応して良いか分からなくなったのだろう。
「リルは何かされたのか? 小突かれたとか、叩かれたとか……」
「うぅん、ドレーの子だって。みんなに自分のなまえ、ごあいさつするとき……。なまえだけだったから、そうなんだろうって……」
「あぁ……」
エルフに支配されていた時代、多くの者は苗字を持てなかった。
親子、兄弟はともかく、親類縁者に渡り横の繋がりを作らせない為、廃止された時代があったのだ。
それは勿論、人間や獣人に限った話ではなかったが、その支配構造から脱し、改めて各種族の支配構造を構築した時、苗字を名乗れるようになった。
だから現代において、苗字を持たない者はまず居ない筈だが、苗字を名乗れなかったのだから、即ち奴隷身分だと揶揄されても仕方がない。
特に獣人族はエルフの支配下が長く続いたせいもあって、その反動からか親族同士の結び付きや、その名に誇りを持つきらいがある。
大事な事なのに、事前に教えなかった、私の落ち度だ。
それに私自身、そうした獣人族関連に対して、どこか避けている所があった。
私は申し訳なく思いながら、リルの頭を優しく撫で付け、それから諭す様に言う。
「リル……。リルは決して、奴隷の子なんかじゃないよ。むしろ、とても良い苗字を持ってる」
「……ホント?」
この時、ようやくリルは抱き締める力を弱め、恐る恐る顔を上げた。
「本当だよ。お母さんは、こんな事でウソを言わない」
「じゃあ……、なんていうの?」
「シャミラ・リムシット。リルがこれから正式に名乗る時は、リル・シャミラ・リムシット……そう、名乗りなさい」
「うわぁ……!」
「おきぞくさまみたい……!」
ミーナが胸の前で手を合わせ、パッと顔を華やがせた。
「リルちゃんのママ、ホントはおきぞくさまじゃないの? じつは、おしのびで……とか?」
「いいや、前にも言ったけど、私はそんな良い生まれじゃないな」
「じゃあ、パパがそうなんだ!」
そうなの、とでも言いたげに、リルは目をまん丸に開けて見上げて来る。
私は曖昧に笑んで、答えを拒否した。
リルの母――ニコレーナから話を聞いた限り、父親となる男の身分は、そう高くなさそうだった。
事実かどうかは知らないし、確認もしていないが、むしろ貴族なのは母の方だ。
獣人の氏族の出――そう聞いているし、苗字に二つの名を持つのが、その証拠だろう。
実家がどういう家で、どういう規模かまで知らないから、実は名ばかりで農民とさほど暮らしが変わらない、という事もあり得る。
人間社会の貴族でも、男爵を叙勲しているにもかかわらず、下手な商人より貧乏というのは決して珍しくない。
ニコレーナの生家も、そうした貧乏氏族かもしれなかった。
ともかく、自分の苗字が立派だと分かって、リルは嬉しそうに飛び跳ねた。
「リルのなまえ、すごくカッコイイ……! んと……シャミラ・リル……」
「違う違う、自分の名前と混同してしまっているよ。リムシット、シャミラ・リムシット。帰ったら綴りも教えてあげようね」
「キレーな名まえ……。リルちゃんのママにぴったり……!」
ミーナは我がことの様に喜んでいたが、その時、また学舎から出て来た別の子どもが、こちらに気付いてやって来た。
それにいち早く気付いたモンティの表情を見るに、どうやらそれがリルに悪意をぶつけた子どもらしい。
「あっ、奴隷の子だ! 奴隷は一人じゃ帰れないか!」
リルより身長も高く、歳も上に見える。
恐らく学舎での最年長で、尊大な人間族の少年だった。
後ろには取り巻きらしい子どもが二人いて、同様の視線を向けている。
言葉遣いからも品性下劣で、元より獣人を下に見ている節が垣間見えた。
この国にとって、獣人の人口は半数に登るから、そうした迂闊な発言は自分の首を締めるだけなのだが……親の教育なのか、その事に気付いてすらいない。
そして当然ながら、獣人を奴隷と侮蔑する事は、子どもだからと許される発言ではなかった。
その上、私達の姿を見て、格好の攻撃材料を見つけたと思ったのだろうか。
醜悪な笑みを浮かべて、指差してきた。
「それがお前のご主人様か? すっげー美人だけど、お前とはぜんぜん似てないもんな!」
「グルル……!」
リルの喉奥から、今まで聞いたことのない唸り声が上がった。
鼻先にシワを寄せ、威嚇する仕草で咄嗟に言い返す。
「お母さんだもん! リルのお母さんだもん!」
「そうかぁ……? そう思ってるの、お前だけなんじゃねぇ?」
リルがぐぅっ、と唸り、強く強く私を抱き締める。
ミーナとモンティからは、その下劣な言葉を非難する視線が飛んでいたが、声までは発せていなかった。
年齢差と単純な体格差、そして垣間見える暴力性が、二の足を踏ませているのだ。
ミーナは友達を傷付けられ、震えて涙さえ浮かべている。
私は深々と溜め息をついて、抱き締めて来るリルの背中を優しく撫でた。
「リルは将来、きっと美人になるよ。
「ホント……?」
「だからあぁいう、下らない発言は気にしなくていい。それにね……」
私はリルに向けて下ろしていた視線を、前方へと向ける。
鋭く射抜く視線に気後れしたのか、うめき声みたいなものを浮かべ、一歩後退した。
「リルはよく耐えたね。ぐっと我慢して、きっと言い返さなかったんだろう?」
「うん……」
「優しさは美徳だ。他人を思い遣り、誰とでも友達になろうとするリルを、お母さんは嬉しく思う」
恐らく、リルの事だから、友達になろうとして袖にされても、気にしていなかったろう。
また次の機会に、とでも思っていたに違いない。
それを奴らは、明確な悪意をもって否定した。
距離を取るのではなく、攻撃し、排斥する事を選んだ。
そのツケを、奴らは払わなければならない。
私はリルの背中を軽く叩き、少年たちへと身体を向けさせる。
「――教訓だ。しっかり見ておきなさい」
「うんっ!」
リルの声を聞くのと同時、私は片手を前に突き出した。