ケレイが口にした発言で、私は頭を抱えたい気持ちを必死に抑えた。
そして実際、教師の方は本当に、頭を抱えて嘆いてしまっている。
リルも悲しそうだったが、私の説得が利いていたのか、覚悟めいたものは感じられた。
垂れ下がっていた尻尾も、今ではピンと上向いている。
リルの場合、尻尾に感情が出るので分かり易い。
「どうやら、説得も時間の無駄だったな。……まぁ、最初から分かっていた事だ」
半人半獣のこの国で、差別発言を行う愚を理解していないとしたら、それは生粋の差別主義者か単なる馬鹿だ。
子どもの言う事だと許されるのは事実でも、口に出した言葉の責任は取らなければならない。
つまり、大人であれば処罰が下る問題だろうと、子どもならば謝罪の一言で収まる場合もある、という事だ。
そして、非がありつつ謝罪も無いとあっては、決闘に寄る決着は正当なものと見做される。
だが、これは本来、不名誉なことだ。
決闘に寄る正否は、ともすれば非のある方が、勝ってしまう事がある。
明らかに非のある方が勝利を収めてしまえば、納得することもなく、泥沼化する事は多い。
この国は十五年程前から共和制に移行し、それ以降、法治国家へと舵を切った。
古い習慣を捨て去るべき、という風潮もあり、人間至上主義は推奨されない。
教師が止めたかったのは、その風潮を払拭する切っ掛けになり兼ねないから、という部分もあっただろう。
だが今回は、明らかにケレイが悪い。
気付けば周囲の人集りは倍に増え、現在は二十人近くまで膨れている。
事の顛末は伝搬して、ケレイに侮蔑の視線を向けている者も少なくなかった。
まだ子どもとは言え、今からあれでは先が思い遣られる……。
そう言った台詞まで聞こえて来るかの様だ。
だが、ケレイには言葉が届いていないのか、それとも聞く気がないのか、こちらに明らかな敵意を向けて更に言った。
「ヘン! 力のある方が正しい、強い方がエライんだ! お前ら、お父様に言い付けてやるからな!」
「これはまた、頭の痛い台詞が飛び出して来たな……」
「つよいからエラいなんて……、リルはヤ……。ナナもヤだって」
「うん、リルが正しい感性を持っていて、私も嬉しい」
そう言って、私はリルの頭を撫でつつ、教師が差し出す手を振り払うケレイを見た。
父の呼び名からして、実際にこの街において一角の地位を持っているのだろう。
貴族かそれに準じる権力を持ち、財力もそれなりで、誇れる親に違いない。
「だが、今の発言はいただけない。あれは自ら、より強い相手にはへりくだる言葉だ。奴隷根性の染み付いた台詞だな」
「お、おま、おまぇ……ッ! オレのことを、奴隷と言ったな!」
「だって……、より強い者には従うべきなんだろう? お前は自分が強者のつもりかもしれないが、お前より強い相手にはどうするんだ?」
「それは……、それは……!」
「強い者が正しく従う理念は、自ら奴隷と言っているに等しい行為だ。最底辺ではないのかもしれないが、上等な奴隷という枠組みからは外れられない」
ケレイは顔を真っ赤にして、こめかみに血管を浮き上がらせた。
その手を強く握って震わせたかと思うと、道端に落ちていた石を拾って投げ付けてきた。
「わっ……!」
リルが小さく叫び声を上げ身構えた。
しかし、力みが強すぎたせいか、石は足元に落ちて後ろへ転がって行く。
避けるまもなく、私が嘆息して見せると、更に石を投げてきた。
決闘するという話が挙がっていたのに、先制攻撃の上、投石とは……。
礼儀がなっていない、などという以前の話だった。
周囲からもブーイングが飛び、口汚い野次が飛ぶ。
「卑怯者!」
「決闘の意味も分からんのか!」
子どものやる事、子どものケンカの延長線上――。
その程度に思われていたのは確かだが、周囲には獣人が多くいるのだ。
ケレイは完全に悪役で、だから多くの罵詈雑言を浴びせられた。
そうなれば、流石のケレイも形勢が悪いと察する。
手に石を握り込んだものの、更に投げ付けようとはしなかった。
悔しげに顔を歪め、憎々しく睨み付けては声を上げる。
「いいさ、やってやるよ! 目にもの見せてやる!」
「虫の良い発言だが……。投石なんかに頼る坊やに、決闘なんか出来るのか」
「吠え面かくなよ! オレはな……!」
そう言い掛けて、途中で止めた。
どうやら何らかの武術を習っていて、それを自慢しようとしたのだろうが、流石にそれを晒す愚を犯さなかった。
リルが不安そうに見上げて来て、私は大丈夫、と太鼓判を押した。
「でも、いつもつかってる、けんもないし……」
「お母さんが教えているのは剣術だけど、それは格闘技にも応用できるものだからね。問題ない」
「そう……、だったの?」
「そうとも。武器を弾かれて落としたり、破損する場合は往々にしてある。その時、戦えません、では話にならないからね」
剣術に限った話ではなく、多くの武術には型がある。
その型は長い時間を掛けて、少しずつ洗練されて今の形へと昇華したものだ。
「そして、そこには必ず、その様な型になった理由……合理がある」
「ごーり……。まえに、お母さんいってた」
「全ての動き、全ての型が素手に通ずる、という意味でもないけれど……。特に三の型は、素手に応用の利く型だ。それを意識してやってごらん」
「う、うんっ……!」
これは実戦ではないが、練習でもない。
他人と戦った事のないリルが、緊張するのは当然だ。
しかし、ケレイの方には余裕が透けて見えていて、もしかするとこういう事は、初めてではないのかもしれない。
あるいは何処かに師事していて、同門の弟子と打ち合う機会が多いとか、そういう理由がありそうだ。
もしそうなら、三歳も年下のリルなど相手にならない、と考えていても不思議ではない。
この位の年代の一年は、非常に大きい。
体格差もあり、名誉の為とはいえ、挑むには大き過ぎる格差だ。
だが、体格の差と言うなら、リルが普段打ち合うのは私かアロガしかおらず、どちらもリルより大分大きい。
そこから考えると、リルにとってはむしろ、相手が小さく見えているだろう。
私はリルの肩に手を置いて、耳元に口を寄せる。
「最初が肝心だ。ガツンと行きなさい、ガツンと」
「う、うんっ……! ガツンと……、ガツンと……!」
リルは繰り返し同じ単語を繰り返し、ぶつぶつと呟いている。
相手が前に出たのを切っ掛けに、私もごく軽く肩を押した。
もう止め様がないと教師も理解しており、周囲が囃し立てているのも相まって、完全に諦めた様子だ。
しかし、決闘ならば立会人が必要で、だから教師は逃げ出せないジレンマに苦しんでいる。
リルとケレイが道の中央、手を伸ばせば届く位置で立ち止まる。
上から見下ろす格好のケレイが、憤りを隠しもせず言った。
「今から謝るなら許してやる。オレの靴をなめて、許してくださいって言え」
「いわないっ! これはめーよの、たたかいだもん! お母さん、とってもおこってた。リルもおこらないと、いけないんだって!」
「へっ……! ガキが……!」
ケレイが握った拳を、胸元辺りまで上げて構える。
なるほど確かに、あの動きを見ると、何かしらの武術を嗜んでいるのは確かな様だ。
力こそ正義、正しい者こそが正しいという言は、自分の実力も含んでの事だったに違いない。
しかしそこで、ケレイの拳が不自然に膨らんでいる事に気付いた。
先ほど投石しようとして握り込んだ石……。
あれを握り込んで隠しているのだ。
指摘しようと一瞬考え……、しかし止めた。
どうせ後悔する事になるのは、ケレイの方だ。
そう思いつつ、立会人の必要を思い付いた。
立会人はあくまで試合を見届ける者であって、審判ではない。
誰か二人と関係ない者がやるべきなのだが、都合よく居ないのなら、周囲の野次馬から選抜するしかなかった。
自分がやりたい、と言い出した一人に頷き、合図を出させる。
腕を振り上げ、自らも一歩、二歩と後ろに下がり、改めて腕を振り下ろす。
「はじめ!」
その掛け声と同時に、ケレイの拳――石を握った拳が突き出される。
リルもまた、掛け声と同時に型を取り、そして教えた通りに腰を落として一歩踏み出す。
「――ガツン!」
リルの、いっそ間の抜けた掛け声と、突き出した拳が、ケレイのみぞおちに突き刺さったのは、それと同時だった。
リルはケレイの拳を、首を傾ける動きだけで躱し、そのままの勢いで殴り込んだのだ。
――そして、勝負はその一発で終わった。
「お、お、ぐ……ぐぇ」
リルの小さな拳は、ケレイの
ケレイはたたらを踏んで後退り、遂には倒れて吐瀉した。
その手に握っていた石が転がり落ち、周囲から更なるヤジが飛ぶ。
「なんて、ふてェ野郎だ!」
「どこまで卑怯なんだ!」
「恥の意味も知らんガキが!」
教師が慌てて近寄り、背中を撫でたりして介抱するため、傍で膝を付いた。
しかし、それを心配する声など一つもない。
全くの皆無だ。
しかし、野次もそこそこに、リルの勝利が間違いないものと悟ると、周囲からは爆発的な歓声が上がった。
「よくやったぞ、嬢ちゃん!」
「小さな体で、良くやったね!」
「スッキリしたぜ、俺ァ!」
小さな身体の小さな女の子が、体格も全く違う人間の男の子を打ち負かしたのだ。
指笛や褒め称える声が響き渡り、リルは困惑している。
しかし、何より困惑しているのは、自分自身に対してだった。
打ち込んだ拳を見つめ、勝利に喜ぶ顔を全く見せない。
私は歓声の中を切って進み、リルを優しく抱き留めた。