「――うみっ!」
リルは唐突に上半身を起こし、慌てた様に顔を動かした。
アロガも両前足を枕にして寝ていて、リルの激しい動きに顔を上げる。
そして、当のリルは眠気眼で、どうやら寝ぼけているらしいと分かった。
私はリルの頭を優しく撫で、起こした身体をゆったりと戻してやる。
「まだ横になってなさい。寝起きにすぐ、水に飛び込むのを許す訳にはいかないから」
「んぅ……」
リルは抵抗することなくアロガの腹に頭を起き、そして私は跳ね除けられたタオルをまた掛けてやる。
そうしてお腹の辺りをポンポン、と二度優しく撫でると、やり掛けていた自分の作業に戻った。
リルはそれを横目で見て、不思議そうに声を上げる。
「お母さん、それなに……?」
「これかい? 浮き板だよ」
リルが寝ている間、浜辺から少し離れた所に自生していた木を切り、そこから一枚板を作り出した。
大きさはリルの胸の幅に合わせていて、縦幅も顎から股下辺りまでだ。
腹這いになって乗っかれる事を想定していて、だから僅かに湾曲している。
リルが寝ている間、魔力を用いて表面を削って均し、怪我しないように丸みも作った。
我が家に帰れば、もっと綺麗に仕上げられるし、形も整えられるのだが、急拵えとしてはまぁまぁの出来だろう。
「これがあると、海の上でも少しは泳ぎ易いと思う。それに、上に乗ったまま波に揺られるのも楽しいだろうさ」
「ほんとっ!? それ、たのしそう!」
またも身体を起こしたので、私は苦笑混じりに元の体勢へと戻してやる。
しかし、今度は素直に横にならず、すぐに身体を起こしてしまった。
「リル、うみにはいりたいっ!」
「もうちょっと我慢なさい。それに、少し水分を取っておいた方がいい」
そう言って、水筒からお茶を注ぎ、リルに手渡す。
勢いよく飲もうとするリルを嗜め、ゆっくり飲むよう指示しながら、私は浮き板の仕上げに掛かった。
樹から削り出した物だから、どれだけ磨いても粗がある。
本来、その上からニスを塗布するとかして、表面をコーティングしなければ、リルの肌を傷付けてしまうだろう。
私は念入りに目視し、表面の木肌をチェックして、更に掌の感触で問題ないか確認する。
少しでも妙な感触があれば修正し、そうして満足する頃には、リルの我慢も限界そうだった。
「よし、それじゃあ海、行っていいぞ。――ただし!」
早速立ち上がり、駆け出そうとするリルに待ったを掛ける。
「準備運動してからね」
「えぇ〜……? またぁ?」
「一度ゆっくり身体を休めたから、筋肉も弛緩してしまっている。だからまた、しっかり伸縮させて運動に備えなさい」
「んんんぅ……!」
リルは非常に不満げで、納得してはいなかったが、私からの言い付けを破るほど向こう見ずでもなかった。
当然、私も一緒になって準備体操をするので、それに倣って手足を伸ばす。
「リルはまだ分からないだろうけど、海中で足を攣るっていうのは、本当に命の危機なんだよ」
「でも、お母さん、たすけてくれるでしょ?」
「勿論だ。必ず助けるけど、だからって心構えや備えが必要ない、っていうのは間違いだ。事前に避けられる危険はね、出来るだけ排除するべきなんだよ」
「んぅ……」
分かってはいても、眼の前の娯楽に飛び付けないのがもどかしい――。
リルの表情は、そう物語っていた。
しかし、準備運動は始めてしまえば、終わるのもすぐだ。
きっかり十分の運動を終えると、私は浮き板を渡して海を指差す。
「さぁ、行っておいで」
「きゃっふぅ〜っ!」
浮き板を頭の上で担ぎ、リルは颯爽と砂を蹴る。
その後にアロガとナナも続き、少し遅れて私も後を追った。
リルは腰の深さまで足を止めることなく進むと、そこから浮き板を水面に置いて、お腹をその上に乗せる。
そうしてバシャバシャと足を動かすのだが、波があって上手く進まない。
単に波のせいでもなく、上手く水面を蹴られていないことも理由の一つで、押し返されて私の元に来てしまった。
「あれ、お母さん! もう、おいついたの?」
「リルが戻って来たんだよ。もっと足の付根から、効率よく足を動かさないと波に負けてしまうよ」
「んぇぇ……? いっしょーけんめー、けったのに!」
「実際、蹴る力だけは大したものだったけど……」
跳ねる水飛沫は大きく、普段の鍛練も相まって、同年代から見るとあり得ない規模だったろう。
だが、ただ蹴れば良い訳ではないから、きちんと泳ぐのは難しい。
リルは今日初めて、本格的に泳ぎを覚えた始めたばかりだ。
詰め込み過ぎて良い、ということはないから、今日の所は私の魔力を浮き板に沿わせてやった。
「波に押されて移動するっていうのも、結構楽しいものだぞ。お母さんが沖の方に押してあげるから、流されて来てごらん」
「うん、やってやって!」
リルの返事を聞いて、私は沿わせた魔力で浮き板を動かす。
最初はゆっくりと、しかし徐々に速度を上げて行く。
波を正面から受けるリルは、その度に盛大に波飛沫を上げた。
振り落とされないよう、浮き板をしっかり握り、顔を下に向けている。
殆ど反射的――ともすれば、本能的な動きだろうに、理に適った姿勢だった。
「わっふぅ〜……!」
運ぶ勢いは速すぎはしない。
しかし、後を追おうとするアロガでは、追い付けない速度ではあった。
結界の内側ギリギリまで沖へと運ぶと、私は魔力の制御を手放す。
すると今度はゆっくりと、だが確実に、波に押されてリルが帰って来ようとした。
沖へ運ぶ時と比べ、速度は実に落ち着いたものだ。
リルは物足りないのか、足を動かして速度を増やそうとする。
その内にアロガが追い付いて、今度はアロガも並走するように泳ぎ出した。
ナナもアロガの上で、リルと同じ様な体勢で真似している。
それが楽しさを盛り上げたらしく、二人できゃっきゃと笑いながら帰って来た。
「おかえり、リル」
「ただいま! もっかい、もっかいやって!」
「そう言うと思った」
私は笑って頷き、再び魔力を浮き板へ流す。
だが、それを見たナナが声を上げて止めた。
「ねぇ、待って。どうせなら、こっちでやらせてくれない?」
「うん? 沖の方に運ぶのを?」
「そう。どうせなら、リルの訓練に使うっていうのも、面白いかなって思うけど?」
「んぇぇぇぇ……?」
リルは今にも吐き出しそうな顔で難色を示したが、それは確かに良い案だった。
本日は遊ぶ日だと割り切っていたが、遊びながら鍛練出来るなら、それはそれで有益だ。
何もかも鍛練に結び付けるのは、リルにとって確かに酷だが、楽しい内はそれでも進んでやるだろう。
「よし、じゃあ沖に行くのは、リルが自分でやってごらん。ただし、地面を蹴るのと同じ様にやってはいけないよ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「ん〜……、そうねぇ……」
ナナが首を傾げながら言う。
「そこはあたしが上手くやるから、リルはマナ練り込んでサポートして頂戴。リルが使うんじゃなくて、あたしに使わせる練習と行きましょうよ」
周囲からマナを取り込み、自身の中に蓄積するのは、基本のことだ。
その取り込んだマナを、どう使うかが肝となる。
精霊魔法の使い手であるリルは、その先への使い途は二つあった。
精霊の力を借りて、自ら魔法へと変換する魔力を作るか、もしくは精霊に譲渡するマナを錬成するかだ。
どちらも重要で、そして両方を体内に作り出し、備えておくのが理想だ。
そして、どういった比率で備えるのかも、ここは個性が出る所だった。
ただし、今のリルはそこまで考えて何かをするには、まだ早い。
とりあえず今は、ナナが魔法を行使する為に、マナを取り込む方が優先だ。
「さぁ、リル。いつもよりここはマナが希薄だから、ちょっと大変だ。でも、お母さんも助けてあげるから、やってご覧なさい」
「んぅ……、わかった」
一度命じられると、リルは素直に開始する。
程なくしてマナを取り込み始めると、私が舌を巻く程の結果を出して見せた。
「常日頃の努力が見えるな。リル、凄いぞ」
「んへへ〜!」
リルは自慢気に笑い、海面をパシャパシャと叩く。
しかし実際、大したものだった。
普段と違う環境は、只でさえ感覚が狂う。
だというのに、リルはあっさりとやってのけた。
普段は濃すぎるマナから身を守るため、防護膜を張らねばならないから森でやるのは大変だが、逆に濃いからこそ集めるマナに苦労しない。
防護がない代わりに、薄いマナを集めるのが得意なのは、そうした反動から生まれたものだとすると、リルは大きな財産を得たと言えるだろう。
「今後が楽しみだ」
「本当にそうね」
ナナも同意して微笑む。
十分なマナを受け取り、リルの代わりに魔法を使うと、風をスクリュー状に吐き出してリルを運んだ。
今度は波に逆らうだけではなく、縦横無尽に海の上を走った。
「きゃっほーい!」
リルも大満足でご満悦の様子だ。
私は置いてけぼりのアロガを慰めつつ、海の上を跳ねる様にして移動するリルを目で追った。