「ちょっと、魔女……! ど、どうするのよ……?」
危機を感じているのはリルよりもナナで、だからそう訊いて来たのもナナだった。
彼女自身に命の危険はないが、だからこそ、リルの心配で顔が強張っている。
「勢いの失った波は、さほどの衝撃でもないさ。でも、リルにはまだ少し早いと思うから、頭全体を包むようにして、空気の膜を作ってくれ」
「いや、でも……それじゃあ十秒程度で、中の空気使い切っちゃうわよ?」
「その十秒で十分だ」
「お母さん、リルどうしたらいい?」
徐々に迫る落水に、いよいよリルも危機感を持ち始めた。
しかし、私は余裕の笑みを浮かべ、リルをより深く掻き抱いて腰を落とした。
「大丈夫、お母さんにくっ付いてなさい。離さないようにね」
「うんっ!」
「――さぁ、息を止めて!」
ナナが即座に空気をコーティングして、リルの頭を包むのと、波が滝となって迫るのは同時だった。
轟音と共に飲み込まれ、上下左右へ激しく揺さぶられる。
自分が上を向いているのか、それとも下を向いているのか判別できなくなった頃、激しい水流もやがて緩やかになった。
私は海中から光の見える方向へと、強く足を動かす。
そうして息苦しく感じ始めた頃、ついに海面から顔を出した。
「――っ、はぁ!」
「ぷぁ……っ!」
リルも大きく呼吸して、それから今はもう綺麗に波の消えた海面を見やる。
その興奮ぶりは凄まじく、腕の中でリルを抑えるのが大変な程だった。
「すごい、すごい! ね、もっかい! もっかい、やって!」
「あれはね、波が来ないと出来ないから。そして、あぁいう大きな波が来るかどうかは、完全な運任せなんだ」
「んぇ〜……」
リルは残念そうに肩を落とし、未練がましく沖を見る。
「じゃあ、またきたら? きたら、できる?」
「いや……、それはどうかな」
「えぇ〜……! どうして!?」
「だって、ほら……」
ぷかりと、傍に浮いたリルの浮き板は、波の衝撃で真っ二つに割れてしまっていた。
所詮、急造でその場しのぎの浮き板だったから、強い衝撃で割れてしまったのだ。
「もっと頑丈な素材じゃないと無理だね。今日のところは、これで泳ぎの練習でもしてなさい」
そう言って、半分に割れた浮き板を渡す。
ナナと遊んでいた時のように、腹這いになることまでは出来ずとも、手に持てば顔上げする補助ぐらいにはなりそうだ。
「ねっ、お母さん! あれ、あれ!」
「うん?」
リルが指差す沖の方では、また大きめの波が生まれ、膨れ上がろうとしていた。
だが、ひと目見て、私は悟る。
「いや、あれは駄目だ。大きくならないパターンだよ。それに、浮き板が駄目になった、と言ったばかりだろう? どっちにしろ乗れないよ」
「でもでも、お母さんなら、どうにかできるでしょっ!?」
それは事実だったし、浮き板の損壊は口実に過ぎなかった。
そんな物がなくても、自力でどうとでもなる。
だが、それを知るとリルのおねだりが激しくなりそうだったので、あえて無理だと思わせたかった。
「それに、あればかりしていたら、お母さんも疲れてしまうよ。アロガを置いてけぼりにしてしまうし、そんなの可哀想だろう?」
「んぅ、そうだけど……」
「ほら……。アロガもリルと、遊びたいとさ」
私が視線を向ける先では、顔を海面から突き出した格好で、リルの傍を泳ぐアロガの姿がある。
今度は置いて行かれまい、と考えている様でもあり、決して傍を離れようとしなかった。
「マナの訓練だってあるだろう? そっちも大事にしないといけないよ」
「んぅ……、んぅ~……、しかたないなぁ……。わかった!」
リルの迷う時間は長かった。
それでも最後には頷き、浮き板を両手で突き出す様に持つと、海面を蹴って離れて行く。
しばらくすると、浮き板を手放し、アロガの上に乗り始めた。
自分で泳ぐより楽で、楽しい遊びを思い付いたらしい。
自分の代わりに泳がせ、腹這いになってくっ付きながら、あっちへ行け、こっちへ行けと指示している。
そうして、それにも飽きて来ると、アロガを浮き板に見立ててナナの力で押し出し、高速移動を始めた。
だが当然、浮き板よりも抵抗が大きいので、海面を切り裂くスピードにまでにはなっていない。
だがそれが、逆に見ている方にとっては安心だった。
「お母さァ〜んっ!」
近くを通り過ぎる際に、リルが満面の笑みで手を振る。
遊びに繋がるマナ鍛練だから、いつものやる気の五割増しだ。
私が手を振り返して見送ると、ターンの際にリルの足が宙に浮いた。
しかし、今度は飛ばされる事もなく、再びアロガにしがみついて、広い結界内の海を自由に動き回っている。
とはいえ、リルの限界もそろそろ近いはずだ。
マナを取り込むこと、自分の力に転換することは、繰り返せば強い疲労に繋がる。
普段より飛ばしているリルには、いつ限界が来てもおかしくなかった。
それは他ならぬ、ナナもまた良く理解していることだろう。
程なくして戻って来ると、リルは息を切らして笑った。
「ちょっと、つかれちゃった」
「きっと身体は、思っている以上に疲れているよ。最初の方でもあったろう? 少し休憩しよう」
「ん~んっ! まだ、あそぶ!」
初めて尽くしの体験に、リルが興奮状態なのは分かっていた。
だからこそ、母であり、今日の監督役である私が、しっかりと見極めなければならない。
「駄目だよ、駄目。楽しければ楽しいほど、自分の疲れは分かり難い。こっちの方に来て、波の浅い所で遊びなさい」
そう言って、リルの手を引いて砂浜方面へと導いた。
海での遊び方は、何も泳ぐことばかりではない。
波が足元をくすぐる程度の所まで来るとその場に座り、リルも隣に座らせると、手をシャベル代わりに土を掻き出した。
それを少し続けていれば、そこに波がやって来て、またすぐ埋めてしまう。
それを見ていたリルは、私のやり方を見て真似る。
「ぜぇ〜んぜん、あなほれない!」
「これはね、もっと違う目的があって……あ、ほらあった」
私が見つけたのは貝殻だ。
指の爪程度の、小さな白い貝が、半分だけ埋まっていた。
取り出して海水で洗い、光に翳すと虹色に光る。
何の価値もない単なる貝殻だが、リルは初めて見るものだ。
「わぁ、すごい! なにそれ!」
「海にしかない、貝というものだよ。脆くてすぐ砕けてしまうから、扱いには気を付けなさい」
そう言って手渡すと、リルは宝物の様に掲げた。
陽の光を受けて、貝の表面が更に輝く。
「キレーだねぇ〜! もっとほしい!」
「うん、この辺りに沢山埋まっているよ。探してごらん」
「うんっ!」
リルは足を広げて、その間の土を掻き出し始める。
アロガもそれを真似て、凄い勢いで濡れた土を砂浜へと打ち出した。
ナナは見守るだけで手助けすることはせず、リルの背中から覆い被さる様にして、時折助言をしていた。
一つ見つければ場所を変え、また一つ見つけて場所を変える。
そうこうすると熱中し続け、気付けば両手に溢れる程の数になっていた。
太陽も海の稜線に沈みかけており、眩いばかりの茜色を輝かせている。
潮風も冷たくなり、上に何も羽織らないと肌寒く感じた。
「さぁ、そろそろ時間だ。今日はもう、帰ろうか」
「えぇ〜っ! まだ、いいでしょ? もっとあそぶ!」
「もう夕方だ。夕方には、お家に帰らないといけないね?」
「んぅ……」
リルは感情的に否定しようとしたが、それより前にナナが何かを語り掛けた。
口を開けての会話ではない。
しかし、念話で何かを伝えているのだと、その様子から分かる。
そこにアロガも加わり、嗜めるように鼻先でリルを突付いた。
いよいよ観念して、リルは取った多くの貝殻を目の前に広げた。
「でも、これ……! これ、もってかえってもいい?」
「勿論、いいとも。それぐらい、好きになさい」
「やった!」
ようやくリルを説得出来て、私もホッと息を吐く。
砂浜には敷布や、その上のバスケットなどが放置されたままなので、それらをまず回収していく。
海水を吸い込み、砂が大量に付着した敷布は、洗うのが面倒そうだった。
だがとにかく、それら全て回収し終えると、簡単にリルの身体を拭いてやり、その手を繋ぐ。
「それじゃあ、帰るよ」
「んぅ……、ねっ! またこれる?」
「……そうだな、また来ようか」
「いつ!? あした!?」
「また、リルの『明日?』が始まった」
次の機会を期待する時、リルは大抵すぐ、また明日、と考える。
楽しいもの程、またすぐ、と考える気持ちは分かるのだが……。
「また明日かどうかは、天気の問題もあるし……、何より勉強の進行次第かな」
「んぇぇ……」
「その出来が良かったら、お昼からまた海で遊んで良いよ」
「やった! やくそくね、やくそく!」
リルがちゃんと勉強したら、その時は必ず約束を守るつもりだ。
その時、リルがぶるり、と身体を震わせた。
風の勢いも強まって来て、肌寒さも更に増している。
遠くに見える太陽は、水平線に半分、その光を沈めていた。
夕陽の明かりはどこか物寂しく、海での夕陽ともなれば尚更だった。
リルは海を名残惜しく見つめ、手の中の貝を潰さない様に握りしめた。
アロガに傍へ寄る様に命じ、転移の準備をする。
「またね! また、あした〜!」
リルが太陽に手を振って、それから私を見て笑う。
予約を入れたつもりか、それともリルなりの決意表明か。
私は笑い返してその手を握り返すと、魔術を使用して転移した。
疲れはあるが、何よりリルの笑顔が私を癒やす。
転移に掛かる肩の重さを強く感じつつ、帰った後の苦労を今から考えていた。