家に帰ってからも、リルの興奮は収まらなかった。
リルの中では、既に明日の予定は海となっているらしく、今から何して遊ぶのか、その話題で持ち切りだった。
「ねぇ、お母さん! もっかい、もっかい、うきいた、つくって! うみのうえ、すべりたい!」
「お母さん、今日はもう疲れてしまったよ。明日には間に合わないし、それに……約束したろう? ちゃんと、お勉強もするんだ」
「わかってる!」
口ではそう言いつつ気も
それより、帰って来たら早速お風呂に入らないといけない。
海水の染み込んだ服も洗わないといけないし、それに敷布の洗濯もある。
リルは遊んでいても良いが、私はそうもいかなかった。
「リル、今からお湯を張るから、先に身体を洗っておきなさい」
「いいよ、リルきれいだよっ!」
「綺麗なものか。海で泳いでいたんだから」
「なんで? うみでからだ、きれいきれいになったんじゃないの?」
何を勘違いしたものか。
リルの中では、海で泳ぐことはお風呂に入るのと同様のことに思えたらしい。
からだ全体が水に浸された、という部分しか共通部分はないのだが、リルにとってはその共通だけで十分な様だ。
子どもの浅知恵とはまた違う、自分の都合良く解釈してしまうものが出たのだろうか。
「海はしょっぱい。つまり、あの水には塩がいっぱい入っているんだ。今もね……」
言いながら、リルの髪に手櫛で指を通そうとするが、髪同士がくっ付き合って、ギシギシと音を立てる。
「こんな感じで、海水が悪さをしてるよ。身体中がそんなだから、ちゃんと洗わないと痒くなったりする」
「んえぇ〜……」
リルは眉を八の字に下げて、自分の頭を触る。
そうして、やはりいつもち違う感触を知り、こくんと頷いた。
「リル、おふろはいる……」
「入るだけじゃなくて、きちんと洗おうな。――アロガもだぞ」
その場を密かに離れようとしていたアロガを、私は魔力で拘束しながら告げる。
「今日ばかりは、洗うのが嫌だとか聞いてやれない。観念するんだな」
アロガは足をバタつかせるが、既に身体は宙に浮いていた。
逃げようにも逃げられず、アロガは素直に観念して頭を下げた。
「やれやれ……って、顔に書いてるわよ。子どもの前では、笑顔なんでしょ? え・が・お」
ナナがふわりと浮いて出て、リルの近くに留まる。
妖精達との間で言っていたことを、何処かで彼女も聞いていたらしい。
なんとも小癪な笑みを浮かべていて、神経を逆撫でしてくれる。
だが、疲れている時だからこそ、安易に乱されてはならなかった。
「努力するさ。でも、子どもの遊ぶ時の体力は、本当に無限だからな……」
そうは言いつつ、あからさまな不機嫌顔や疲れた顔を晒すほど、母親を辞めてもいなかった。
せめて困った笑顔程度に留め、まずは母屋に入ってバスケットをシルケに預ける。
「ごちそうさま、シルケ。今日のサンドイッチは、リルにも大好評だったぞ」
「うん、おいしかった! しぅけ、ありがとー!」
「変な呼び方しないで、ちゃんとしなさい」
「んひひ……!」
だが、シルケ本人が悪い気をしてなくて、むしろ笑顔で応じる。
家事に対するお礼に、コップ一杯のミルクで満足する彼女だが、リルの輝かんばかりの笑顔と共に言われる礼は、また別の感慨を生むらしい。
今も受け取ったバスケットを小脇に抱えて、リルの頭を撫で回している。
「さ、それよりお風呂だ。さっさと済まそう。リルが疲れを自覚する前に」
「んぅ……!」
まだまだ元気だと、リルは不服そうだ。
だが、リルの主張よりもまず、一日の終わりを締め括るお風呂の方が大事だった。
家の裏手から外に出て、お風呂場に向かう。
リルの服を脱がしてやる時も、妙に布地が固まってしまっていて、パラパラと何かが地面に落ちた。
乾いた海水から出た塩だろう。
私も脱ぐと、リルの頭を洗ってやりつつ、アロガも同時に洗う。
リルは私の手洗いだが、アロガは巨体だから魔力任せだ。
流石にリルのと同じことをアロガにやっていたら、腕が疲れて洗うどころではない。
リルの頭と身体を洗い終わる頃には、アロガの方もほぼ終わっていて、水で大雑把に流して乾かす。
これはナナに任せて、その間に私は、自分の髪と身体を洗った。
そうしてアロガの乾燥が終わる頃、あら、とナナは声を上げた。
「結構、良い毛の艶してるじゃない。触り心地も、結構良さそうよ」
「ほんと? リルもさわる! アロガ、こっちきて!」
既に湯船に浸かり、身体半分出していたリルに、アロガは素直に近寄る。
しかし、濡れた手ではよく分からず、指に引っ掛かるばかりで不満そうにした。
「ほんとに、いいの?」
「見たら分かるじゃない。普段よりふんわりしてるし、見た目も結構、綺麗よ」
「……うん、ホントだ。いつもとちがう」
普段から一緒にいるリルだから、その見た目の変化は流石に気付く。
毛艶の良さだけでなく、その一本一本まで外に広がるかの様で、全体的に丸く見えた。
「でも、なんかチガウなぁ……。アロガ、ふとった?」
「……ブシッ!」
返事の代わりに、アロガはくしゃみをする。
石鹸の匂いがそぐわず、しきりに鼻をムズ痒っている。
アロガが風呂を嫌う理由の一つだ。
私も髪と身体を洗い終わると、ようやく湯船に入る。
これまで海水に浸かっていたからか、お風呂のじんわりとしたお湯は、また一つ違う。
身体の奥深くから息を吐いて、肩まで浸かるように身体を低くした。
「はふぅ~……」
「お母さん、ホントにつかれたみたい」
「うん、楽しかったけどね」
「ねっ! たのしかった! なみのり、またゼッタイしたい!」
「リルは、ソリ遊びも好きだものなぁ……」
「ねっ! ソリも、またやりたい!」
「やりたいこと尽くしだなぁ」
湯船の中ではしゃぐリルは、私と反対に元気満点だ。
肩まで浸からせたいのに、すぐに泳ごうとして、少しもジッとしてくれない。
湯船は私が足を伸ばしてなお余るくらいだが、泳ぐには全く距離が足りないから、リルがバタ足をすると私の顔面が濡れ鼠になった。
「こらこら、お風呂で泳ぐんじゃありません。ほら、座って」
顔の水分を手で払い、リルの脇に手を入れると、自分の太腿に座らせる。
そうして首筋などを良く見ると、既に日焼けの兆候が見えた。
「リル、お風呂から上がったら、少し肌の手入れをした方がいいな。後でお薬、塗ってあげよう」
「いーよ。リル、いらない」
「でも、やらないと明日、ヒリヒリして酷いことになる。悪いこと言わないから、言う通りになさい」
強く言っても、リルはいやいやと首を振るばかりだ。
口で言っても仕方ないのなら、やることは一つだ。
「こらから百を数えて、そうしたら上がろう。すぐに夕食だから、寝ないようにね」
意識を数字と食事に向かわせ、素知らぬ顔で錬金小屋へと手を翳す。
実際、母屋の方からは良い香りが漂っていて、リルの意識を向けさせるには十分な威力だった。
案の定、リルは香りの方に顔を向けていて、こちらの様子には気付いていない。
数を数えて三十を超えた辺りでは、既に薬の入った瓶が手元に置かれていた。
「……きゅうじゅうきゅう、ひゃ~くっ!」
しっかり最後まで言い終わると、私は良く褒めてからお風呂から上げたやった。
水気をしっかり拭ってから、今度は薬を掌に塗り、薄く伸ばしながらリルの首から手を添わせる。
「んひぃ! んひ、んひひ……! お母さん、なにこれ、くすぐったい……!」
「さっき言った、お薬だ。塗らないと痛いんだから、少しの間、我慢なさい」
自信の塗り薬だから、肌の伸びも良い。
しかしそれが、リルの鎖骨周りなどを塗る際には、くすぐったがって身を捩ってしまう原因になった。
「んひひ、んひひひ……!」
「こら、暴れるんじゃありません」
「だって……! くすぐったいんだもん!」
「もう少しだから」
「んひひ! んふふ、ひひひ……!」
シャツを着ていたから、身体全体に及ばないのがせめてもの救いだ。
しかし、少し赤くなり始めた手や足まで塗ると、結構長く掛かった。
暴れるリルを宥めすかすのは大変で、風呂上がりに余計な汗を掻いてしまった。
「下手に触って、薬が取れないように気を付けなさい。そういう訳で、アロガにくっつくのも、アロガに舐められるのも、今日の間は無しだ」
「はぁ〜い」
リルは全く不満そうではなく、嫌な声を上げたのはアロガだけだ。
元より夏の間は、暑くて抱きつこうとはしない。
でも今は、改めてアロガの毛艶を確かめて、愉快そうな顔付きをしていた。
私は両手を腰に当て、大きく息を吐きながら母屋を指差す。
「後は大人しく座って待ってなさい。お母さんもすぐ行くから」
「はぁ~い!」
ナナとアロガを引き連れて、リルは母屋に入って行く。
私はというと、今日出した洗濯の準備だ。
明日にすると、塩でバリバリになった服を洗わなければならなくなる。
いつだって、子どもは遊ぶだけ遊び、親がその裏でしている苦労など知らないのだ。
「ま……、手早く終わらせよう」
だが、その苦労を知らせたい訳ではない。
まだ幼いならば、尚の事だ。
私は魔力を操作して、残りを持ち上げると球体に形成し直し、そこに洗濯物を投げ入れ始めた。