混沌の魔女と獣人の子   作:鉄鎖亡者

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病の試練と悲しい別れ その2

「リル、消化に良い朝食があるけど、食べられる?」

 

 問いかけると、娘はうっすら目を開け、か細い声で答えた。

 

「……おかあさん……、からだが……おもい……」

 

 そう言って、また咳き込む。

 布団の隙間から覗いた腕の赤い斑点は、更に数を増やした様に思える。

 

 私は胸の奥が冷たく締めつけられるのを感じた。

 ――代われる物なら、代わってやりたい。

 

 しかし、そうもいかず、水差しを手に取り、口を湿らせてやる。

 けれど唇はすぐに乾き、再び熱にうなされ始めた。

 

「今はちょっと無理そうだな。……大丈夫、お母さんがそばにいる。怖がらなくていいんだ」

 

 声を落ち着かせながらも、私の心はざわついていた。

 

 軽めの食事なら――。

 先程の様子から、まだ少しくらい何か胃の中に入れられるはず――。

 

 そう予測していたのに、進行が余りに早い。

 ……良くない兆候だった。

 

 多くの病がそうである様に、症状は個人によって差が出る。

 リルは病に罹らない丈夫な子だと思っていたが、それは全くの逆で、単に環境が良かったせいかもしれない。

 

 病は他人から伝染(うつ)される事が多いものだ。

 リルは極端に人との接触が少なかった為、それで今まで健康でいられただけかもしれない。

 

 街には何度も行っているが、最近は収穫祭もあり、内外から雑多な人々が集う。

 そこで悪いものを貰って来た可能性もあった。

 

「……いや、今は原因を考えている場合ではないか……」

 

 リルを街に通わせるつもりだった以上、遅かれ早かれ、こういう事態になっていただろう。

 

 ただの風邪や、何かしらもっと別の感染症ならば、薬を作ることも出来たものを……。

 

 私は荒い呼吸を繰り返すリルを見る。

 顔を赤くさせ、燃えるような熱に苦しむ姿に、何かしなくてはならない衝動に駆られた。

 

 ――ともかく、少しでも和らげる薬を……。

 

 重ねていた手をそっと離し、錬金小屋から薬を取って来ようとしたのだが、リルはその些細な変化に気が付いた。

 

 薄らと目を開けて、再び手を握ろうと手を彷徨わせた。

 

「おかあさん……、いかないで……。そばにいて……っ」

 

「大丈夫、薬を取ってくるだけだ。すぐ治してくれる薬じゃないけど……、少しは楽になるから」

 

「おかあさん……」

 

「すぐ戻るよ、約束する。(つら)いのが続くのは、リルも嫌だろう?」

 

 声のない返事で、ただ頷くだけの応答があった。

 私は額の布を今一度水に浸して、きつく絞ってから戻す。

 

「良い子にしておいで。すぐだから」

 

 またも、こくん、と頷く返事をして、リルは苦しそうに目を閉じた。

 

 それを合図に、トレイを持って部屋を飛び出す。

 今だけは魔術を使って宙に浮き、滑るように階下へ下りる。

 

「シルケ、すまない。リルは今、何も喉を通らないようだ。落ち着いて来たら食べさせてやりたいから、いつでも温め直せるようにしてくれ」

 

 シルケはトレイを大事そうに受け取り、それなら何度も頷いて台所に戻って行った。

 

 それを視界の端で確認しつつ、外に出る。

 錬金小屋の中に入ると、必要な物を手早く選んで、すぐに踵を返した。

 

 二階に上がる時も宙を飛び、足音で不快な思いをさせないよう気を付ける。

 

 静かに扉を開けると、手近な棚の上に薬草の瓶をいくつも並べた。

 回復を早める葉、熱を和らげる根……その他諸々。

 

 魔女として培った知識を総動員しながら、私はリルの容態を確認する。

 

 現在はまぶたをきつく閉じており、浅い息を繰り返している。

 既に顔にまで赤い斑紋が広がっているものの、その色はまだ淡く、けれど確実に悪化の一過を辿りつつあった。

 

 ――まだまだ、これからが試練の始まりなのだ。

 私はそう悟り、少しでも良くなる様に祈りながら、荒い息を吐くリルの頬に手の甲を当てた。

 

 

  ※※※

 

 

 昼が近付く頃、家の中の空気は一層重苦しいものになっていた。

 

 窓から差し込む光は柔らかいはずなのに、熱に浮かされるリルには、鋭い刃のように感じられるのだろう。

 

 布団の中で小さな身体が何度ももぞりと動き、苦しげに息を漏らす。

 

「はぁ……っ、あつい……あついよ……」

 

 額に触れた私の手は、思わず引くほどの熱を感じた。

 まるで内に宿る炎が、肌を透かして立ちのぼっているようだ。

 

 明らかに午前中より悪化している。

 湿らせた布を次々に取り換えても、すぐに乾き、熱に追いつけない。

 

 私は調合した薬草茶を匙で口元に運ぶ。

 しかし、リルは弱々しく首を振り、わずかに飲んだだけでむせてしまった。

 

 小さな咳の度に、赤い紋様が更に濃く浮かび上がり、それを目にして胸が締めつけられる。

 

「……リル、しっかり。今はつらいけれど、必ず越えられる。リルはお母さんの娘だ、強い子だろう?」

 

 言葉に自分をも縋らせるように告げる。

 私は魔女として数多の魔術を体得しているが、そんなものはこの“朱砂の試練”の前には全くの無力だ。

 

 私に出来る事は、ただ寄り添い、支え、信じることしかない。

 

 昼の光に照らされて、リルの額や首筋に玉のような汗が浮かぶ。

 その汗を拭いながら、私は窓辺に小さな護符を吊した。

 

 星を模した銀の印。幼子が試練を越えるよう、古より母たちが託してきた護りだ。

 

 蝋燭を灯し、部屋に淡い光を満たす。

 リルの視界に、暗い影が差さぬように――孤独に呑まれぬように。

 

 リルの手が無意識に布を探り、やがて私の指を掴んだ。

 その熱に焼かれるような掌を握り返しながら、私は胸の内で何度も祈る。

 

 ――どうか、この熱がリルを焼き尽くす前に、試練を乗り越えさせてくれ……。

 

 外では鳥たちが、昼の歌を奏でていた。

 だがこの部屋にあるのは、熱に揺らぐ息遣いと、私の祈りだけだった。

 

 

  ※※※

 

 

 夕刻が過ぎ、夜の帳が降りると共に、リルの熱は更に勢いを増した。

 昼の内はまだ、かすかな意識の光がリルの瞳に残っていた。

 

 だが夜が深まると、その光は遠退き、赤い紋様ばかりが肌に浮き上がっていく。

 

「……っ、はぁ……あぁ……っ……」

 

 小さな胸が苦しげに上下する。

 喉を絞るような咳と、途切れ途切れのうわ言だけが、リルの口から洩れた。

 

 布団の上で手足をよじり、見えぬものに怯えるように身を震わせる姿に、私は心をえぐられる思いがした。

 

「リル、ここにいる。お母さんはここにいるぞ……」

 

 幾度も呼びかけ、その額を濡れ布で撫でる。

 だがやはり布はすぐに乾いてしまう。

 

 薬草も、即席で調合した薬も、リルの苦しみを止めることはできず、私の手は無力に震えるばかりだった。

 

 ――魔女としての知識は、何の役にも立たない。

 ――母としてできるのは、ただ傍に座り、手を握り続けることだけ。

 

 その現実が、夜の闇より重く胸を覆う。

 

 だからせめて、蝋燭に新たな火を灯し、光を絶やさぬようにした。

 暗闇は病に潜む魔を呼ぶ、という古い言い伝えがあるからだが、それよりも不安を少しでも払拭したいのが理由だ。

 

 それは私自身もそうだし、リルにとっても同じだ。

 少しでも意識が回復した時、暗闇にいると心細く感じる。

 

 それを少しでも払拭出来たなら、と思っての事だった。

 私はリルの手を握りながら、体力とスタミナを回復させる魔術を行使する。

 

「安らかに……、少しでも安らかに眠れるように……」

 

 魔術での回復は一時的なものだ。

 本当の回復を期待するなら、口から食べ物を摂取した方がいい。

 

 だが、今のリルにはそれが出来ないし、病に打ち克つ為にはその体力こそが肝要だった。

 一切の薬に効果がない以上、後はリル自身の力で乗り越えるしかない。

 

 しかし、そうやって魔術を行使しつつも、私自身の心は揺らぎ続けていた。

 

 もし、この炎が娘の身を焼き尽くしてしまったら。

 もし、“朱砂の試練”が、彼女にとって越えられぬ峠だったら――。

 

 不安の影は尽きず、言葉を重ねても追い払えない。

 母であるはずの私が、こんなにも弱い。

 

 窓の外では夜空の星々が凍えるように瞬いていた。

 その冷ややかな光を仰ぎ、私は唇を噛む。

 

「どうか……、リルの命を連れ去らないでくれ……」

 

 熱に浮かされる娘の手を握り締めながら、私は祈るしかなかった。

 その夜、部屋の中には、赤い斑点に照らされた小さな苦悶と、私の絶え間ない祈りだけが満ちていた。

 

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