「リル、消化に良い朝食があるけど、食べられる?」
問いかけると、娘はうっすら目を開け、か細い声で答えた。
「……おかあさん……、からだが……おもい……」
そう言って、また咳き込む。
布団の隙間から覗いた腕の赤い斑点は、更に数を増やした様に思える。
私は胸の奥が冷たく締めつけられるのを感じた。
――代われる物なら、代わってやりたい。
しかし、そうもいかず、水差しを手に取り、口を湿らせてやる。
けれど唇はすぐに乾き、再び熱にうなされ始めた。
「今はちょっと無理そうだな。……大丈夫、お母さんがそばにいる。怖がらなくていいんだ」
声を落ち着かせながらも、私の心はざわついていた。
軽めの食事なら――。
先程の様子から、まだ少しくらい何か胃の中に入れられるはず――。
そう予測していたのに、進行が余りに早い。
……良くない兆候だった。
多くの病がそうである様に、症状は個人によって差が出る。
リルは病に罹らない丈夫な子だと思っていたが、それは全くの逆で、単に環境が良かったせいかもしれない。
病は他人から
リルは極端に人との接触が少なかった為、それで今まで健康でいられただけかもしれない。
街には何度も行っているが、最近は収穫祭もあり、内外から雑多な人々が集う。
そこで悪いものを貰って来た可能性もあった。
「……いや、今は原因を考えている場合ではないか……」
リルを街に通わせるつもりだった以上、遅かれ早かれ、こういう事態になっていただろう。
ただの風邪や、何かしらもっと別の感染症ならば、薬を作ることも出来たものを……。
私は荒い呼吸を繰り返すリルを見る。
顔を赤くさせ、燃えるような熱に苦しむ姿に、何かしなくてはならない衝動に駆られた。
――ともかく、少しでも和らげる薬を……。
重ねていた手をそっと離し、錬金小屋から薬を取って来ようとしたのだが、リルはその些細な変化に気が付いた。
薄らと目を開けて、再び手を握ろうと手を彷徨わせた。
「おかあさん……、いかないで……。そばにいて……っ」
「大丈夫、薬を取ってくるだけだ。すぐ治してくれる薬じゃないけど……、少しは楽になるから」
「おかあさん……」
「すぐ戻るよ、約束する。
声のない返事で、ただ頷くだけの応答があった。
私は額の布を今一度水に浸して、きつく絞ってから戻す。
「良い子にしておいで。すぐだから」
またも、こくん、と頷く返事をして、リルは苦しそうに目を閉じた。
それを合図に、トレイを持って部屋を飛び出す。
今だけは魔術を使って宙に浮き、滑るように階下へ下りる。
「シルケ、すまない。リルは今、何も喉を通らないようだ。落ち着いて来たら食べさせてやりたいから、いつでも温め直せるようにしてくれ」
シルケはトレイを大事そうに受け取り、それなら何度も頷いて台所に戻って行った。
それを視界の端で確認しつつ、外に出る。
錬金小屋の中に入ると、必要な物を手早く選んで、すぐに踵を返した。
二階に上がる時も宙を飛び、足音で不快な思いをさせないよう気を付ける。
静かに扉を開けると、手近な棚の上に薬草の瓶をいくつも並べた。
回復を早める葉、熱を和らげる根……その他諸々。
魔女として培った知識を総動員しながら、私はリルの容態を確認する。
現在はまぶたをきつく閉じており、浅い息を繰り返している。
既に顔にまで赤い斑紋が広がっているものの、その色はまだ淡く、けれど確実に悪化の一過を辿りつつあった。
――まだまだ、これからが試練の始まりなのだ。
私はそう悟り、少しでも良くなる様に祈りながら、荒い息を吐くリルの頬に手の甲を当てた。
※※※
昼が近付く頃、家の中の空気は一層重苦しいものになっていた。
窓から差し込む光は柔らかいはずなのに、熱に浮かされるリルには、鋭い刃のように感じられるのだろう。
布団の中で小さな身体が何度ももぞりと動き、苦しげに息を漏らす。
「はぁ……っ、あつい……あついよ……」
額に触れた私の手は、思わず引くほどの熱を感じた。
まるで内に宿る炎が、肌を透かして立ちのぼっているようだ。
明らかに午前中より悪化している。
湿らせた布を次々に取り換えても、すぐに乾き、熱に追いつけない。
私は調合した薬草茶を匙で口元に運ぶ。
しかし、リルは弱々しく首を振り、わずかに飲んだだけでむせてしまった。
小さな咳の度に、赤い紋様が更に濃く浮かび上がり、それを目にして胸が締めつけられる。
「……リル、しっかり。今はつらいけれど、必ず越えられる。リルはお母さんの娘だ、強い子だろう?」
言葉に自分をも縋らせるように告げる。
私は魔女として数多の魔術を体得しているが、そんなものはこの“朱砂の試練”の前には全くの無力だ。
私に出来る事は、ただ寄り添い、支え、信じることしかない。
昼の光に照らされて、リルの額や首筋に玉のような汗が浮かぶ。
その汗を拭いながら、私は窓辺に小さな護符を吊した。
星を模した銀の印。幼子が試練を越えるよう、古より母たちが託してきた護りだ。
蝋燭を灯し、部屋に淡い光を満たす。
リルの視界に、暗い影が差さぬように――孤独に呑まれぬように。
リルの手が無意識に布を探り、やがて私の指を掴んだ。
その熱に焼かれるような掌を握り返しながら、私は胸の内で何度も祈る。
――どうか、この熱がリルを焼き尽くす前に、試練を乗り越えさせてくれ……。
外では鳥たちが、昼の歌を奏でていた。
だがこの部屋にあるのは、熱に揺らぐ息遣いと、私の祈りだけだった。
※※※
夕刻が過ぎ、夜の帳が降りると共に、リルの熱は更に勢いを増した。
昼の内はまだ、かすかな意識の光がリルの瞳に残っていた。
だが夜が深まると、その光は遠退き、赤い紋様ばかりが肌に浮き上がっていく。
「……っ、はぁ……あぁ……っ……」
小さな胸が苦しげに上下する。
喉を絞るような咳と、途切れ途切れのうわ言だけが、リルの口から洩れた。
布団の上で手足をよじり、見えぬものに怯えるように身を震わせる姿に、私は心をえぐられる思いがした。
「リル、ここにいる。お母さんはここにいるぞ……」
幾度も呼びかけ、その額を濡れ布で撫でる。
だがやはり布はすぐに乾いてしまう。
薬草も、即席で調合した薬も、リルの苦しみを止めることはできず、私の手は無力に震えるばかりだった。
――魔女としての知識は、何の役にも立たない。
――母としてできるのは、ただ傍に座り、手を握り続けることだけ。
その現実が、夜の闇より重く胸を覆う。
だからせめて、蝋燭に新たな火を灯し、光を絶やさぬようにした。
暗闇は病に潜む魔を呼ぶ、という古い言い伝えがあるからだが、それよりも不安を少しでも払拭したいのが理由だ。
それは私自身もそうだし、リルにとっても同じだ。
少しでも意識が回復した時、暗闇にいると心細く感じる。
それを少しでも払拭出来たなら、と思っての事だった。
私はリルの手を握りながら、体力とスタミナを回復させる魔術を行使する。
「安らかに……、少しでも安らかに眠れるように……」
魔術での回復は一時的なものだ。
本当の回復を期待するなら、口から食べ物を摂取した方がいい。
だが、今のリルにはそれが出来ないし、病に打ち克つ為にはその体力こそが肝要だった。
一切の薬に効果がない以上、後はリル自身の力で乗り越えるしかない。
しかし、そうやって魔術を行使しつつも、私自身の心は揺らぎ続けていた。
もし、この炎が娘の身を焼き尽くしてしまったら。
もし、“朱砂の試練”が、彼女にとって越えられぬ峠だったら――。
不安の影は尽きず、言葉を重ねても追い払えない。
母であるはずの私が、こんなにも弱い。
窓の外では夜空の星々が凍えるように瞬いていた。
その冷ややかな光を仰ぎ、私は唇を噛む。
「どうか……、リルの命を連れ去らないでくれ……」
熱に浮かされる娘の手を握り締めながら、私は祈るしかなかった。
その夜、部屋の中には、赤い斑点に照らされた小さな苦悶と、私の絶え間ない祈りだけが満ちていた。