夜は恐ろしく長いものだ。
とりわけ、病に苦しむ幼子を抱えた母にとっては、ひと呼吸の間すら永遠のように感じられる。
私は寝台の傍らに座り続け、娘の額に布を当てて、乾けばまた水に浸し、それを何度も何度も繰り返していた。
その間、蝋燭の炎は幾度となく短くなり、溶け落ちる蝋の跡が机に白い層を作った。
時間の感覚はとうに失われ、ただリルの荒い呼吸と熱に浮かされた呻き声だけが、私を現実へと繋ぎ止めていた。
リルの小さな体は布団の中で何度も震え、赤い紋様が肌に広がるたび、私は胸を締めつけられるような思いに沈む。
『朱砂の試練』――そう呼ばれる病が、いかに容赦なく幼子を苛むか、古い伝承で……そして伝聞によって、幾度も耳にしてきた。
魔女として多く、そして深く知識を蓄えてきた私でさえ、有効と言える打つ手はない。
薬草も魔術も、せいぜい苦しみを和らげる程度で、試練そのものを退けることは出来なかった。
「……お母さんはここにいるから、リル……」
その小さな手を握って、何度も繰り返す言葉は、娘に向けてだけではなく、自分自身を保つためでもあった。
リルから貰った珠草のブレスレットに、そっと指を這わせる。
この子の優しさと、かけがえのなさを感じられる贈り物だ。
このブレスレットが、私とリルを強く結び付けている。
その結び付きの強さを信じて祈る。
――祈り続けるしかなかった。
そして、傍に付いているのは、何も私だけではなかった。
アロガも当然、心配そうに寄り添い、時折寝台の上に顔を上げ、リルの様子を窺っている。
アロガは正確にリルの様子を理解している訳ではなかったが、深刻そうな私を見て察し、昼前には態度を改めていた。
少し長めに寝ているだけ、またすぐ目覚めて走り回る――。
当然と思っていたことが、当然起きることではない、と悟っていた。
他にも、この部屋に出入りする者はいて、その一人がシルケだ。
彼女もリルを心配して、頻繁にタライの水を交換してくれたり、あるいは食事を用意してくれたりした。
リルの分ではなく、私が食べる分だ。
しかし、苦しむリルを前にして、食事は喉を通らず、これまで何も口にしていなかった。
それでもシルケは、拒否されると分かっても作ってくる。
今回もこれまで同様、断ろうと思っていたのだが、しかし今度ばかりはシルケも頑なだった。
手を横に振っても、構わず食事の乗ったトレイを突き付けてくる。
そうすると、鼻腔をくすぐる良い香りがして来て、忘れていた空腹が顔を出してきた。
「やめてくれ、シルケ……。リルが頑張っているのに、私だけ……」
「……ッ! ……ッッ!」
言い掛けている間にも、シルケには珍しく怒った様子で、何度もトレイを突き出してきた。
「言いたい事は分かる。分かるんだが……」
看病する事はともかく、自分を蔑ろにするな、と言いたいのだろう。
私も長く生きてきて、そうした話は幾度も聞いてきた。
心配する余り、看病する者も喉が通らず、そして身体を崩し面倒を見る者がいなくなる、という話だ。
それも分かるが、私は魔女なのだ。
少々の不調は、魔術なり薬でどうにか出来る。
「……! ……っ!」
だが、それでもシルケは譲らなかった。
私が何度も断ろうとも、構わずトレイを突き付けてくる。
どちらが折れねば終わらないのだろうが、シルケに折れる気は全くなさそうだ。
「……だが、私が手を握っていてやらないと……」
病気の時は、気分が落ち込む。気が弱くなる。
それを励ますには、近くで言葉を掛けるだけでは足りない。
手を握ることは、励ますだけでなく安心感を与える。
今のリルに必要なのは、その安心感だった。
「あんまり、何もかも自分独りで背負い込むなよ」
いつの間にやら、十人近くの妖精達が窓辺近くに浮いていた。
「魔女に倒れられて困るのは、オイラ達だって同じだ。頼ってくれて良いんだぜ」
リルの病を知って、これまでも時折、様子を見に来ていたのは視界の端に映っていた。
しかし、自らが全くの無力であることも、またよく自覚していたから、これまでは遠巻きに様子を窺うだけだった。
しかし、どうやら見ていたのは、リルだけではなかったらしい。
「ちゃちゃっと食っちまえよ。本当なら、そのまま少し休めって言いたい所だけどさ、そんなの承知しねぇってのも分かるし……」
「だが……」
「貴女、いま自分の顔がどうなってるか分かってないでしょ? リルが目覚めた時、真っ先に見るのがそれじゃ、ちょっと可哀想だと思うわ」
「そんなにか……?」
私は自分の頬に手を当てながら、訝しみつつ首を傾げた。
また別の妖精が、大いに頷いて見せてから、話を続ける。
「可哀想は大袈裟にしてもさ、その顔見たら、きっと心配するぜ? 自分のことをさて置いて、どうしたんだって思わない筈ないさ」
「そう、ホントそう」
「憔悴顔の見本って感じ」
「ね、飾っておきたいくらい」
口々にそう言われたら、私にも思うところが出て来る。
惜しみに惜しみ、そっとリルから手を離した。
意識がなくとも、それが伝わったのか、リルの眉間に皺が寄った。
そこへ妖精達が一斉に飛び掛かり、その小さな手に殺到する。
しかし、その小さな手より、より一層輪を掛けて小さいのが妖精の手だ。
だから、数でカバーしようとしたのだろうが、果たして効果があるものだろうか。
そう疑問に思ったが、どうやらそれも杞憂だったようだ。
妖精が一人握り込まれるアクシデントはあったものの、リルの顔から険が取れる。
未だに苦しそうにしているのは変わらないが、それでも幾分マシになった。
「じゃあ、今のうちに食事を頂くか」
「ま゙……ま゙でよ。ご……、こっちの方は……」
握り込まれた妖精が、必死の様子で助けを求めたが、私は無常に首を振る。
「リルには必要なことだ。我慢してくれ、ちょっとの間だ」
「お゙、おま゙……っ!」
それでリルが少しでも安心感を得られるなら、それを支持しない理由がない。
それに、言い方は悪いが、どうせ妖精は死なないのだ。
もし強く握り締める事があっても、嫌な思いをするのはその妖精のみだった。
「では、頼むぞ」
一言そう言い残して、シルケからトレイを受け取る。
抗議の声は黙殺し、食べ易いように用意されたサンドイッチを一口食べた。
すると、シルケは途端に嬉しそうに微笑んだ。
お茶の方も用意されていて、疲れた時に良いハーブティーがカップに注がれる。
私は視線で礼を言うと、急ぎ過ぎないように注意しながら、食事を口に運んで行った。
※※※
夜半を過ぎた頃、リルは
声にならぬ呻きの合間に、意味のない言葉を呟き、何かを見て怯えているようでもあった。
私は両腕でその小さな体を抱き締め、耳元で囁き続ける。
「大丈夫、大丈夫……」
だが、その声は果たして届いたのか……。
リルはただ荒い呼吸を続けるばかりだった。
――このまま、夜が明けなければいい。
一瞬、そんな弱気が胸をよぎった。
夜が終われば、娘の命の炎も尽きてしまうのではないか……。
私はそう恐れた。
この掌にある温もりが、二度と戻らないものになってしまうのではないか。
その恐怖を拭えない。
私はいつも胸元に飾るペンダントを握る。
ティアドロップ型の淡い色を称えた、四つの宝石……。
すべきではない、と理性は語る。
しかし、もしもリルを喪うくらいならば、最悪の手段に手を伸ばす事も本気で考えていた。
使えばどうなるか、私にも分からない。
だから、その決断を下さなくても済む様、いっそ時間が止まれば良い、とさえ思った。
けれど、星は巡る。時は止まらない。
窓の外では、漆黒の闇が僅かに色を変え始めていた。
最初は、ほんの微かな青。
次第にその色は濃くなり、夜空を溶かしていく。
私は気づかぬ内に椅子の背にもたれており、身体は重く、瞼も鉛のように下がっていた。
しかし、リルの小さな咳が、再び私を現実へと呼び戻す。
「……リル?」
私は姿勢を正し、そっと寝台を覗き込む。
息はまだ荒い。だが、夜中のように暴れ狂うものではなくなっていた。
小さな胸の上下が、わずかに……けれど、確かに落ち着きを取り戻している。
慌てて額に手を当てた。
熱い。けれど――昨夜ほどではない。
燃え盛る炎が、ようやく鎮まり始めたのだ。
「……あぁ……」
喉から洩れた声は、安堵の吐息とも、涙の呻きともつかないものだった。
私は濡れ布を新たに当て、リルの頬を拭い、乾いた唇に匙で薬水を運ぶ。
最初は無反応だったが、やがて喉が小さく動き、ほんの一口だけを飲み下した。
その瞬間、胸の奥に張りつめていた糸が切れ、涙が込み上げた。
「良かった……。よく頑張った……、リル……」
声が震え、言葉にならない。
私は愛する娘の手を握り、ただその小さな温もりを確かめ続けた。
それまで眠りこくっていた妖精達は、こちらの様子に気付いて顔を上げる。
私の表情を見て取って、喝采を上げようとし――しかし、まだ常識を保っていた妖精に、小声で怒鳴るという方法で止められた。
「大声だすな、馬鹿……!」
「わ、わりぃ……」
「それにしても、リル良かったなぁ……っ」
「偉かったな、よく耐えたぞ……!」
囁くような声で、労いの言葉が幾つも飛ぶ。
リルは意識を失ったまま眠りに沈んでいるけれど、その寝顔は夜中の苦悶に歪んだ表情ではなく、少しだけ安らぎを帯びていた。
眉間の皺が和らぎ、唇も弱々しいながら静かに閉じている。
まるで、長い戦いを終えて、休息を許された戦士のようだ。
窓の外では、鳥が囀り始めた。
夜を覆っていた星々は消え、代わりに淡い朝日が庭を染める。
その光が窓辺の護符を照らし、銀色の星形がきらりと輝いた。
感傷だが――。
それは試練を乗り越えようとする、娘を祝福しているかのように思えた。
私は蝋燭へ目を向ける。
夜通し灯してきた炎は、もう小さく揺れ、役目を終えようとしていた。
私はそっと息を吹きかけ、炎を消す。
代わりに、部屋に差し込むのは、朝の自然な光だ。
それは同時に、長い暗闇を越えたことを告げる光でもあった。
――峠は越えた。
ただし、まだ油断はできない。
熱がぶり返すこともあるし、体力が戻るには日々を要する。
けれど確かに、命の炎は消えなかった。
母として、この瞬間を迎えられたことが、どれほど安堵と喜びを得たことか……。
私はもう一度、リルの寝顔を覗き込む。
熱に濡れた頬が、朝日を受けて淡く輝いていた。
その光景に、私は確信する。
――リルは生き延びる。
――この試練を越え、必ず強くなる。
胸の奥に残る恐怖は、まだ消えていない。けれどそれ以上に、静かな希望が芽生えていた。
私は椅子に深く座り直し、リルの手を握ったまま、ようやく小さく息を整える。
その瞬間、窓の外で一羽の鳥が力強く鳴き、朝の訪れを高らかに告げた。
夜明け。
それはただの新しい一日ではなく、私にとっては“死の影を退け、命をつなぎ止めた証”そのものだった。
そして、私は知っている。
この朝を共に迎えられたことが、どれほど尊く、何よりの奇跡であるかを。