混沌の魔女と獣人の子   作:鉄鎖亡者

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病の試練と悲しい別れ その3

 夜は恐ろしく長いものだ。

 とりわけ、病に苦しむ幼子を抱えた母にとっては、ひと呼吸の間すら永遠のように感じられる。

 

 私は寝台の傍らに座り続け、娘の額に布を当てて、乾けばまた水に浸し、それを何度も何度も繰り返していた。

 

 その間、蝋燭の炎は幾度となく短くなり、溶け落ちる蝋の跡が机に白い層を作った。

 

 時間の感覚はとうに失われ、ただリルの荒い呼吸と熱に浮かされた呻き声だけが、私を現実へと繋ぎ止めていた。

 

 リルの小さな体は布団の中で何度も震え、赤い紋様が肌に広がるたび、私は胸を締めつけられるような思いに沈む。

 

 『朱砂の試練』――そう呼ばれる病が、いかに容赦なく幼子を苛むか、古い伝承で……そして伝聞によって、幾度も耳にしてきた。

 

 魔女として多く、そして深く知識を蓄えてきた私でさえ、有効と言える打つ手はない。

 

 薬草も魔術も、せいぜい苦しみを和らげる程度で、試練そのものを退けることは出来なかった。

 

「……お母さんはここにいるから、リル……」

 

 その小さな手を握って、何度も繰り返す言葉は、娘に向けてだけではなく、自分自身を保つためでもあった。

 

 リルから貰った珠草のブレスレットに、そっと指を這わせる。

 この子の優しさと、かけがえのなさを感じられる贈り物だ。

 

 このブレスレットが、私とリルを強く結び付けている。

 その結び付きの強さを信じて祈る。

 

 ――祈り続けるしかなかった。

 そして、傍に付いているのは、何も私だけではなかった。

 

 アロガも当然、心配そうに寄り添い、時折寝台の上に顔を上げ、リルの様子を窺っている。

 

 アロガは正確にリルの様子を理解している訳ではなかったが、深刻そうな私を見て察し、昼前には態度を改めていた。

 

 少し長めに寝ているだけ、またすぐ目覚めて走り回る――。

 当然と思っていたことが、当然起きることではない、と悟っていた。

 

 他にも、この部屋に出入りする者はいて、その一人がシルケだ。

 

 彼女もリルを心配して、頻繁にタライの水を交換してくれたり、あるいは食事を用意してくれたりした。

 

 リルの分ではなく、私が食べる分だ。

 しかし、苦しむリルを前にして、食事は喉を通らず、これまで何も口にしていなかった。

 

 それでもシルケは、拒否されると分かっても作ってくる。

 今回もこれまで同様、断ろうと思っていたのだが、しかし今度ばかりはシルケも頑なだった。

 

 手を横に振っても、構わず食事の乗ったトレイを突き付けてくる。

 そうすると、鼻腔をくすぐる良い香りがして来て、忘れていた空腹が顔を出してきた。

 

「やめてくれ、シルケ……。リルが頑張っているのに、私だけ……」

 

「……ッ! ……ッッ!」

 

 言い掛けている間にも、シルケには珍しく怒った様子で、何度もトレイを突き出してきた。

 

「言いたい事は分かる。分かるんだが……」

 

 看病する事はともかく、自分を蔑ろにするな、と言いたいのだろう。

 私も長く生きてきて、そうした話は幾度も聞いてきた。

 

 心配する余り、看病する者も喉が通らず、そして身体を崩し面倒を見る者がいなくなる、という話だ。

 

 それも分かるが、私は魔女なのだ。

 少々の不調は、魔術なり薬でどうにか出来る。

 

「……! ……っ!」

 

 だが、それでもシルケは譲らなかった。

 私が何度も断ろうとも、構わずトレイを突き付けてくる。

 

 どちらが折れねば終わらないのだろうが、シルケに折れる気は全くなさそうだ。

 

「……だが、私が手を握っていてやらないと……」

 

 病気の時は、気分が落ち込む。気が弱くなる。

 それを励ますには、近くで言葉を掛けるだけでは足りない。

 

 手を握ることは、励ますだけでなく安心感を与える。

 今のリルに必要なのは、その安心感だった。

 

「あんまり、何もかも自分独りで背負い込むなよ」

 

 いつの間にやら、十人近くの妖精達が窓辺近くに浮いていた。

 

「魔女に倒れられて困るのは、オイラ達だって同じだ。頼ってくれて良いんだぜ」

 

 リルの病を知って、これまでも時折、様子を見に来ていたのは視界の端に映っていた。

 しかし、自らが全くの無力であることも、またよく自覚していたから、これまでは遠巻きに様子を窺うだけだった。

 

 しかし、どうやら見ていたのは、リルだけではなかったらしい。

 

「ちゃちゃっと食っちまえよ。本当なら、そのまま少し休めって言いたい所だけどさ、そんなの承知しねぇってのも分かるし……」

 

「だが……」

 

「貴女、いま自分の顔がどうなってるか分かってないでしょ? リルが目覚めた時、真っ先に見るのがそれじゃ、ちょっと可哀想だと思うわ」

 

「そんなにか……?」

 

 私は自分の頬に手を当てながら、訝しみつつ首を傾げた。

 また別の妖精が、大いに頷いて見せてから、話を続ける。

 

「可哀想は大袈裟にしてもさ、その顔見たら、きっと心配するぜ? 自分のことをさて置いて、どうしたんだって思わない筈ないさ」

 

「そう、ホントそう」

 

「憔悴顔の見本って感じ」

 

「ね、飾っておきたいくらい」

 

 口々にそう言われたら、私にも思うところが出て来る。

 惜しみに惜しみ、そっとリルから手を離した。

 

 意識がなくとも、それが伝わったのか、リルの眉間に皺が寄った。

 そこへ妖精達が一斉に飛び掛かり、その小さな手に殺到する。

 

 しかし、その小さな手より、より一層輪を掛けて小さいのが妖精の手だ。

 だから、数でカバーしようとしたのだろうが、果たして効果があるものだろうか。

 

 そう疑問に思ったが、どうやらそれも杞憂だったようだ。

 妖精が一人握り込まれるアクシデントはあったものの、リルの顔から険が取れる。

 

 未だに苦しそうにしているのは変わらないが、それでも幾分マシになった。

 

「じゃあ、今のうちに食事を頂くか」

 

「ま゙……ま゙でよ。ご……、こっちの方は……」

 

 握り込まれた妖精が、必死の様子で助けを求めたが、私は無常に首を振る。

 

「リルには必要なことだ。我慢してくれ、ちょっとの間だ」

 

「お゙、おま゙……っ!」

 

 それでリルが少しでも安心感を得られるなら、それを支持しない理由がない。

 それに、言い方は悪いが、どうせ妖精は死なないのだ。

 

 もし強く握り締める事があっても、嫌な思いをするのはその妖精のみだった。

 

「では、頼むぞ」

 

 一言そう言い残して、シルケからトレイを受け取る。

 抗議の声は黙殺し、食べ易いように用意されたサンドイッチを一口食べた。

 

 すると、シルケは途端に嬉しそうに微笑んだ。

 

 お茶の方も用意されていて、疲れた時に良いハーブティーがカップに注がれる。

 私は視線で礼を言うと、急ぎ過ぎないように注意しながら、食事を口に運んで行った。

 

 

  ※※※

 

 

 夜半を過ぎた頃、リルは一際(ひときわ)強い熱に襲われ、全身をよじらせた。

 

 声にならぬ呻きの合間に、意味のない言葉を呟き、何かを見て怯えているようでもあった。

 私は両腕でその小さな体を抱き締め、耳元で囁き続ける。

 

「大丈夫、大丈夫……」

 

 だが、その声は果たして届いたのか……。

 リルはただ荒い呼吸を続けるばかりだった。

 

 ――このまま、夜が明けなければいい。

 一瞬、そんな弱気が胸をよぎった。

 

 夜が終われば、娘の命の炎も尽きてしまうのではないか……。

 私はそう恐れた。

 

 この掌にある温もりが、二度と戻らないものになってしまうのではないか。

 その恐怖を拭えない。

 

 私はいつも胸元に飾るペンダントを握る。

 ティアドロップ型の淡い色を称えた、四つの宝石……。

 

 ()()()の事があれば、これを使用してやり直しを図れる。

 すべきではない、と理性は語る。

 

 しかし、もしもリルを喪うくらいならば、最悪の手段に手を伸ばす事も本気で考えていた。

 

 使えばどうなるか、私にも分からない。

 だから、その決断を下さなくても済む様、いっそ時間が止まれば良い、とさえ思った。

 

 けれど、星は巡る。時は止まらない。

 窓の外では、漆黒の闇が僅かに色を変え始めていた。

 

 最初は、ほんの微かな青。

 次第にその色は濃くなり、夜空を溶かしていく。

 

 私は気づかぬ内に椅子の背にもたれており、身体は重く、瞼も鉛のように下がっていた。

 

 しかし、リルの小さな咳が、再び私を現実へと呼び戻す。

 

「……リル?」

 

 私は姿勢を正し、そっと寝台を覗き込む。

 息はまだ荒い。だが、夜中のように暴れ狂うものではなくなっていた。

 

 小さな胸の上下が、わずかに……けれど、確かに落ち着きを取り戻している。

 

 慌てて額に手を当てた。

 熱い。けれど――昨夜ほどではない。

 

 燃え盛る炎が、ようやく鎮まり始めたのだ。

 

「……あぁ……」

 

 喉から洩れた声は、安堵の吐息とも、涙の呻きともつかないものだった。

 私は濡れ布を新たに当て、リルの頬を拭い、乾いた唇に匙で薬水を運ぶ。

 

 最初は無反応だったが、やがて喉が小さく動き、ほんの一口だけを飲み下した。

 

 その瞬間、胸の奥に張りつめていた糸が切れ、涙が込み上げた。

 

「良かった……。よく頑張った……、リル……」

 

 声が震え、言葉にならない。

 私は愛する娘の手を握り、ただその小さな温もりを確かめ続けた。

 

 それまで眠りこくっていた妖精達は、こちらの様子に気付いて顔を上げる。

 私の表情を見て取って、喝采を上げようとし――しかし、まだ常識を保っていた妖精に、小声で怒鳴るという方法で止められた。

 

「大声だすな、馬鹿……!」

 

「わ、わりぃ……」

 

「それにしても、リル良かったなぁ……っ」

 

「偉かったな、よく耐えたぞ……!」

 

 囁くような声で、労いの言葉が幾つも飛ぶ。

 

 リルは意識を失ったまま眠りに沈んでいるけれど、その寝顔は夜中の苦悶に歪んだ表情ではなく、少しだけ安らぎを帯びていた。

 

 眉間の皺が和らぎ、唇も弱々しいながら静かに閉じている。

 まるで、長い戦いを終えて、休息を許された戦士のようだ。

 

 窓の外では、鳥が囀り始めた。

 夜を覆っていた星々は消え、代わりに淡い朝日が庭を染める。

 

 その光が窓辺の護符を照らし、銀色の星形がきらりと輝いた。

 

 感傷だが――。

 それは試練を乗り越えようとする、娘を祝福しているかのように思えた。

 

 私は蝋燭へ目を向ける。

 夜通し灯してきた炎は、もう小さく揺れ、役目を終えようとしていた。

 

 私はそっと息を吹きかけ、炎を消す。

 代わりに、部屋に差し込むのは、朝の自然な光だ。

 

 それは同時に、長い暗闇を越えたことを告げる光でもあった。

 

 ――峠は越えた。

 

 ただし、まだ油断はできない。

 熱がぶり返すこともあるし、体力が戻るには日々を要する。

 

 けれど確かに、命の炎は消えなかった。

 母として、この瞬間を迎えられたことが、どれほど安堵と喜びを得たことか……。

 

 私はもう一度、リルの寝顔を覗き込む。

 熱に濡れた頬が、朝日を受けて淡く輝いていた。

 

 その光景に、私は確信する。

 ――リルは生き延びる。

 ――この試練を越え、必ず強くなる。

 

 胸の奥に残る恐怖は、まだ消えていない。けれどそれ以上に、静かな希望が芽生えていた。

 

 私は椅子に深く座り直し、リルの手を握ったまま、ようやく小さく息を整える。

 その瞬間、窓の外で一羽の鳥が力強く鳴き、朝の訪れを高らかに告げた。

 

 夜明け。

 それはただの新しい一日ではなく、私にとっては“死の影を退け、命をつなぎ止めた証”そのものだった。

 

 そして、私は知っている。

 この朝を共に迎えられたことが、どれほど尊く、何よりの奇跡であるかを。

 

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