あの長い夜を越えてからというもの、家の空気は少しずつ変わっていった。
未だ病は完全に退いたわけではなく、熱はまだしばらく残ったままだ。
身体も弱っていて、赤い紋様は肌に淡く痕をとどめていた。
それでも、夜半の荒れ狂うような熱に比べれば、朝以降の時間は確かに“回復へと向かう流れ”にあった。
だが、今の私の胸を満たしているのは、安堵よりも慎重さだ。
――試練の峠を越えたとはいえ、まだ安心はできない。
わずかな油断が命を危うくすることを、私はその長く生きた知識から知っている。
だからこそ、リルの体温の変化、呼吸の深さ、唇の色――その一つひとつを注意深く観察する。
最初の二日は、リルはほとんど眠り続けていた。
眠りは深くなく、時折、小さくうなされる。
だが、以前のように身を仰け反らせて苦しむことはなくなった。
私はその度に額を拭き、乾いた唇に薬水を含ませ、布団を整えた。
昼も夜も関わりなく繰り返される看病の作業は、単調でありながら決して気を抜けない。
だが、リルの呼吸が一つ落ち着く度、私の心にも安らぎが広がっていった。
そうして、三日目の朝。
リルがようやく、自らの意思で目を開いた。
その瞳はまだ霞んでおり、声も弱々しかったが、はっきりと私を認めて呼んだ。
「おかあ、さん……」
その一言が、どれほど私の胸を震わせたか。
「ここにいる。ここにいるよ……」
そう答えた瞬間、涙が頬を伝っていた。
アロガは寝台の端に顔だけを乗せ、小さく鳴き声を上げる。
リルは震える手を上げ、その鼻頭をそっと撫でた。
その度にアロガは甘えた声を出し、指先を幾度となく舐めた。
「リル、大分良くなったみたいだな!」
「元気になったんだねぇ」
「良かった、良かった……!」
口々にそう言ったのは、窓辺に腰掛ける妖精達だ。
やはり十名前後の人数で、リルの様子を窺っている。
いつもの様に群がっていかないのは、流石に病床のリルを気遣う事を覚えたから、だろう。
その容態は確かに良くなったリルだが、食欲はまだ戻っていない。
だから、私は薬草と穀粉を溶かした粥を用意し、匙で少しずつ口に運んだ。
最初は数口だけで疲れてしまったが、翌日には半分ほどを食べ切ることができた。
小さな一歩に過ぎないが、それは生の力が戻り始めている証だった。
日々が重なるごとに、変化は少しずつ、しかし確実に現れた。
咳は軽くなり、肌に残っていた赤い紋様も徐々に薄れていく。
夜の眠りは深まり、朝の目覚めも安定してくる。
弱り切っていた声に再び力が戻り、言葉の端々に幼い笑みが混じるようになって来ると、いよいよ快復も近いと思われた。
※※※
ある朝、私は水差しを取りに立って戻ってくると、リルが布団の上で起き上がろうとしていた。
細い腕にまだ力はなく、すぐに支えを必要としたが、それでもリルは言った。
「……すこしだけ、……おそとがみたい」
私は胸を衝かれる思いで娘を抱き、窓辺まで連れていく。
カーテンを少し開けると、秋の陽射しが差し込み、リルの顔を柔らかく照らした。
眩しそうに目を細めながら、リルはしばらく空を見上げ……そして、私はその姿に言葉を失った。
――この子は確かに、生きてここにいる。
回復の日々は、試練の名残を感じさせるものでもあった。
肌に残る淡い痕は、まるで朱砂を溶かしたように赤みを帯び、光の下で微かに輝いて見える。
古い伝承では、『朱砂の試練』を越えた者の身体に、星の印が刻まれると言われる。
それは一種の加護、精霊の愛し子の証とされた。
勿論、私はそれが伝承の中で生まれたもので、人々が生還した子を特別扱いした結果だと知っている。
だから、母としてはただ、その痕がこれ以上娘を苦しめないことを祈るばかりだったが……。
無事に子の生還を得た親は、きっと誰もが同じく思うのだろう。
私もまた、我が子が試練を果たしたり結果だと、胸の奥に誇らしさが芽生えるのを否めなかった。
そうしてまた幾日が過ぎ、やがて、リルは自分の足で床を歩けるようになった。
最初の数歩はふらつき、すぐに私に抱きとめられたが、日に日に歩幅はしっかりしていく。
庭に出るのを許した日は、リルは秋の涼やかな風に頬を撫でられて、目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「かぜのにおいがする……」
そう呟く声は、かつて病に伏した日々を思えば奇跡そのものだった。
私はその背をそっと見守りながら、内心で幾度も感謝を繰り返す。
――こうした日は必ず迎えられると、そう思っていた。
――いや、そうあるべき、と思い込んでいただけだ。
アロガはリルの傍に寄り添い、もし倒れることがあろうと、即座に受け止める姿勢を取っている。
それだけリルが心配で、そして私同様、再び一緒に出歩けることを嬉しがっているようだ。
妖精達もまた周囲を飛び回り、その動向を見守っている。
いつもそうしていた様に、不躾に頭や肩に乗ろうとはしない。
遠慮というものを覚えた妖精達は、むしろ自分達が原因で、また体調を崩すのを怖がっているようにも見えた。
そうして――。
日々が過ぎる度に、リルは少しずつ元の姿を取り戻し……いや、以前よりも一層、力強さを増していった。
表情には光が宿り、声には張りが生まれ、歩みは確かさを帯びる。
病に伏していた時期がまるで幻であったかの様に、今では力強さに満ちている。
リルは再び笑い、歌い、私の袖を引いては何かしらの物語をせがむようになった。
それでも私の心からは、あの夜の記憶が消える事はない。
燃えるような熱、荒い息、掴まれた小さな手の震え――。
だからこそ、今の一瞬一瞬が、かけがえのない宝のように感じられるのだった。
※※※
ある夜、すっかり元気を取り戻したリルが眠りについた後、私は窓辺に立って星空を仰いだ。
静かな闇に、銀の光が無数に瞬いて見える。
私は掌を胸にあて、深く息を吸った。
「良かった……。リルが乗り越えられて……」
長年生きていようと、魔女として多くの知識を蓄えていようと、抗えないことは実際――多々ある。
だが、もしリルを失う様なことがあれば、きっと私はあらゆる手段を許容しただろう。
私は首に書けていたチェーンを指先で引っ掛け、ティアドロップ型の宝石を眺めた。
四つのそれらは一つひとつ色が違い、特別な輝きを放っている。
これ一つずつに強大な力が秘められており、その力を発揮すれば、私でさえ扱え切れない事態を招く。
しかし、同時にこれ一つでは、大それた事は為せない。
最低でも三つ、安定させるには四つ、そして望む手段を手繰り寄せるのに、五つ必要だ。
本来、一つ所にあるべきではなく、何処か別々の場所に保管させるべきものでもある。
誰か信用のおける者に託したい――。
そう思って自らが守護者を気取っていたが、これまで、そうと思える者はいなかった。
私は後ろを振り向き、リルの――今や安らかに眠っている、その寝顔を見やる。
「この子なら大丈夫だ。きっと私の期待を裏切らない」
その資質がある様に思えるし、それに見合うだけの器量と人徳を身に付けてくれるだろう。
私の教育次第でもあるから、駄目だったら、その目が節穴だとして、託すことを諦めるだけだ。
私は引っ掛けたチェーンを持ち上げ、視線の高さまで持ってくる。
「師匠が残した負債の一つだ……。不満にも、不安にも思ったものだが……」
決して使わない、最後の手段だと思っていたから負担だった。
しかし、リルに
師匠は何を考えているか分からない人だったが、無駄なことだけはしない。
だから、託されたことに意味があると思いたかったが、今回の様なケースを想定していたならゾッとしない話だ。
「ともかくも……、使わずに済んで良かった……」
私は再びネックレスを胸元に戻すと、窓を閉めて寝台に戻る。
安らかな寝息を立てるリルの頭に、そっとキスをして、私も眠りに就いた。
※※※
こうして日々は流れ、病の試練は過去となりつつあった。
だが、私の心には確信がある。
リルはこの朱砂の試練を通して、命の尊さを刻み込み、やがて強き存在へと育っていくだろう。
そして母であり、師である私は、その歩みを支え続ける。
――快復に向かう日々は、ただ元に戻るための時間ではない。
それは確かに、“新たな始まり”を感じさせるものだった。