混沌の魔女と獣人の子   作:鉄鎖亡者

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病の試練と悲しい別れ その4

 あの長い夜を越えてからというもの、家の空気は少しずつ変わっていった。

 

 未だ病は完全に退いたわけではなく、熱はまだしばらく残ったままだ。

 身体も弱っていて、赤い紋様は肌に淡く痕をとどめていた。

 

 それでも、夜半の荒れ狂うような熱に比べれば、朝以降の時間は確かに“回復へと向かう流れ”にあった。

 

 だが、今の私の胸を満たしているのは、安堵よりも慎重さだ。

 ――試練の峠を越えたとはいえ、まだ安心はできない。

 

 わずかな油断が命を危うくすることを、私はその長く生きた知識から知っている。

 

 だからこそ、リルの体温の変化、呼吸の深さ、唇の色――その一つひとつを注意深く観察する。

 

 最初の二日は、リルはほとんど眠り続けていた。

 眠りは深くなく、時折、小さくうなされる。

 

 だが、以前のように身を仰け反らせて苦しむことはなくなった。

 私はその度に額を拭き、乾いた唇に薬水を含ませ、布団を整えた。

 

 昼も夜も関わりなく繰り返される看病の作業は、単調でありながら決して気を抜けない。

 

 だが、リルの呼吸が一つ落ち着く度、私の心にも安らぎが広がっていった。

 

 そうして、三日目の朝。

 リルがようやく、自らの意思で目を開いた。

 

 その瞳はまだ霞んでおり、声も弱々しかったが、はっきりと私を認めて呼んだ。

 

「おかあ、さん……」

 

 その一言が、どれほど私の胸を震わせたか。

 

「ここにいる。ここにいるよ……」

 

 そう答えた瞬間、涙が頬を伝っていた。

 アロガは寝台の端に顔だけを乗せ、小さく鳴き声を上げる。

 

 リルは震える手を上げ、その鼻頭をそっと撫でた。

 その度にアロガは甘えた声を出し、指先を幾度となく舐めた。

 

「リル、大分良くなったみたいだな!」

 

「元気になったんだねぇ」

 

「良かった、良かった……!」

 

 口々にそう言ったのは、窓辺に腰掛ける妖精達だ。

 やはり十名前後の人数で、リルの様子を窺っている。

 

 いつもの様に群がっていかないのは、流石に病床のリルを気遣う事を覚えたから、だろう。

 

 その容態は確かに良くなったリルだが、食欲はまだ戻っていない。

 だから、私は薬草と穀粉を溶かした粥を用意し、匙で少しずつ口に運んだ。

 

 最初は数口だけで疲れてしまったが、翌日には半分ほどを食べ切ることができた。

 小さな一歩に過ぎないが、それは生の力が戻り始めている証だった。

 

 日々が重なるごとに、変化は少しずつ、しかし確実に現れた。

 咳は軽くなり、肌に残っていた赤い紋様も徐々に薄れていく。

 

 夜の眠りは深まり、朝の目覚めも安定してくる。

 

 弱り切っていた声に再び力が戻り、言葉の端々に幼い笑みが混じるようになって来ると、いよいよ快復も近いと思われた。

 

 

  ※※※

 

 

 ある朝、私は水差しを取りに立って戻ってくると、リルが布団の上で起き上がろうとしていた。

 細い腕にまだ力はなく、すぐに支えを必要としたが、それでもリルは言った。

 

「……すこしだけ、……おそとがみたい」

 

 私は胸を衝かれる思いで娘を抱き、窓辺まで連れていく。

 カーテンを少し開けると、秋の陽射しが差し込み、リルの顔を柔らかく照らした。

 

 眩しそうに目を細めながら、リルはしばらく空を見上げ……そして、私はその姿に言葉を失った。

 

 ――この子は確かに、生きてここにいる。

 

 回復の日々は、試練の名残を感じさせるものでもあった。

 肌に残る淡い痕は、まるで朱砂を溶かしたように赤みを帯び、光の下で微かに輝いて見える。

 

 古い伝承では、『朱砂の試練』を越えた者の身体に、星の印が刻まれると言われる。

 それは一種の加護、精霊の愛し子の証とされた。

 

 勿論、私はそれが伝承の中で生まれたもので、人々が生還した子を特別扱いした結果だと知っている。

 

 だから、母としてはただ、その痕がこれ以上娘を苦しめないことを祈るばかりだったが……。

 

 無事に子の生還を得た親は、きっと誰もが同じく思うのだろう。

 私もまた、我が子が試練を果たしたり結果だと、胸の奥に誇らしさが芽生えるのを否めなかった。

 

 

 

 そうしてまた幾日が過ぎ、やがて、リルは自分の足で床を歩けるようになった。

 

 最初の数歩はふらつき、すぐに私に抱きとめられたが、日に日に歩幅はしっかりしていく。

 

 庭に出るのを許した日は、リルは秋の涼やかな風に頬を撫でられて、目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

 

「かぜのにおいがする……」

 

 そう呟く声は、かつて病に伏した日々を思えば奇跡そのものだった。

 私はその背をそっと見守りながら、内心で幾度も感謝を繰り返す。

 

 ――こうした日は必ず迎えられると、そう思っていた。

 ――いや、そうあるべき、と思い込んでいただけだ。

 

 アロガはリルの傍に寄り添い、もし倒れることがあろうと、即座に受け止める姿勢を取っている。

 

 それだけリルが心配で、そして私同様、再び一緒に出歩けることを嬉しがっているようだ。

 

 妖精達もまた周囲を飛び回り、その動向を見守っている。

 いつもそうしていた様に、不躾に頭や肩に乗ろうとはしない。

 

 遠慮というものを覚えた妖精達は、むしろ自分達が原因で、また体調を崩すのを怖がっているようにも見えた。

 

 そうして――。

 日々が過ぎる度に、リルは少しずつ元の姿を取り戻し……いや、以前よりも一層、力強さを増していった。

 

 表情には光が宿り、声には張りが生まれ、歩みは確かさを帯びる。

 病に伏していた時期がまるで幻であったかの様に、今では力強さに満ちている。

 

 リルは再び笑い、歌い、私の袖を引いては何かしらの物語をせがむようになった。

 それでも私の心からは、あの夜の記憶が消える事はない。

 

 燃えるような熱、荒い息、掴まれた小さな手の震え――。

 

 だからこそ、今の一瞬一瞬が、かけがえのない宝のように感じられるのだった。

 

 

  ※※※

 

 

 ある夜、すっかり元気を取り戻したリルが眠りについた後、私は窓辺に立って星空を仰いだ。

 

 静かな闇に、銀の光が無数に瞬いて見える。

 私は掌を胸にあて、深く息を吸った。

 

「良かった……。リルが乗り越えられて……」

 

 長年生きていようと、魔女として多くの知識を蓄えていようと、抗えないことは実際――多々ある。

 

 だが、もしリルを失う様なことがあれば、きっと私はあらゆる手段を許容しただろう。

 

 私は首に書けていたチェーンを指先で引っ掛け、ティアドロップ型の宝石を眺めた。

 

 四つのそれらは一つひとつ色が違い、特別な輝きを放っている。

 これ一つずつに強大な力が秘められており、その力を発揮すれば、私でさえ扱え切れない事態を招く。

 

 しかし、同時にこれ一つでは、大それた事は為せない。

 最低でも三つ、安定させるには四つ、そして望む手段を手繰り寄せるのに、五つ必要だ。

 

 本来、一つ所にあるべきではなく、何処か別々の場所に保管させるべきものでもある。

 誰か信用のおける者に託したい――。

 

 そう思って自らが守護者を気取っていたが、これまで、そうと思える者はいなかった。

 

 私は後ろを振り向き、リルの――今や安らかに眠っている、その寝顔を見やる。

 

「この子なら大丈夫だ。きっと私の期待を裏切らない」

 

 その資質がある様に思えるし、それに見合うだけの器量と人徳を身に付けてくれるだろう。

 

 私の教育次第でもあるから、駄目だったら、その目が節穴だとして、託すことを諦めるだけだ。

 

 私は引っ掛けたチェーンを持ち上げ、視線の高さまで持ってくる。

 

「師匠が残した負債の一つだ……。不満にも、不安にも思ったものだが……」

 

 決して使わない、最後の手段だと思っていたから負担だった。

 しかし、リルに()()が起きた時、私は使用する誘惑から逃れられなかっただろう。

 

 師匠は何を考えているか分からない人だったが、無駄なことだけはしない。

 

 だから、託されたことに意味があると思いたかったが、今回の様なケースを想定していたならゾッとしない話だ。

 

「ともかくも……、使わずに済んで良かった……」

 

 私は再びネックレスを胸元に戻すと、窓を閉めて寝台に戻る。

 安らかな寝息を立てるリルの頭に、そっとキスをして、私も眠りに就いた。

 

 

  ※※※

 

 

 こうして日々は流れ、病の試練は過去となりつつあった。

 だが、私の心には確信がある。

 

 リルはこの朱砂の試練を通して、命の尊さを刻み込み、やがて強き存在へと育っていくだろう。

 

 そして母であり、師である私は、その歩みを支え続ける。

 

 ――快復に向かう日々は、ただ元に戻るための時間ではない。

 それは確かに、“新たな始まり”を感じさせるものだった。

 

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