時は過ぎ、あの長い病の夜を越えてからというもの、七日が経った。
森はそれまでも、日に日に秋へと色付きが変わっていたものだが、今ではすっかり紅色に変わってしまっていた。
森の動物たちも冬篭もりの準備が始まり、どこか慌ただしく感じさせる。
そうして、リルの身体からは、病の影もすっかり消え去っていた。
熱はなく、肌に残っていた朱砂の紋様も、いまやほんの淡い痕としてしか見えない。
声には張りがあり、歩みはしっかりとし、何より瞳に再び輝きが戻っていた。
その朝、私は台所で野菜を刻んでいた。
シルケと共同の準備で、最近よく手作りをせがまれるようになったので、こうして一緒に作っている。
すると背後から、ぱたぱたと軽やかな足音が近づいて来た。
「お母さん!」
振り返ると、そこにはアロガを従え、両手に摘んだばかりの花を抱えたリルが立っていた。
頬は健康的な赤みに染まり、息も上がってはいない。
「にわにね、さいてたの。リルが見つけたんだよ」
そう言って、花束を私に差し出した。
それを見て、思わず言葉を失ってしまう。
ほんの少し前まで、布団に伏せて息をすることすら苦しかった小さな体が、こうして庭を駆け回り、花を摘んで戻ってきている。
その姿は、私が待ち望み、祈り続けた回復の証そのものだった。
「あぁ……、きれいだね」
私は花を受け取り、そっとリルの髪を撫でた。
くすぐったそうに笑うと、その笑みと陽気が部屋いっぱいに広がる。
実のところ、その花は薬草であり、根には解熱効果の元になるものだった。
偶然見付けたという口振りだったが、それは私が植えたものだ。
薬草園やハーブ畑の物は勝手に触れてはならない、と知っているリルだが、他の部分については好きにして良いと知っている。
だから、これについては周知させておかなかった私が悪い。
リルが寝込んでいた時、すぐに補充出来るよう植え替えていたのも、リルの勘違いを後押しする原因となったろう。
私は後で改めて植え直す事を考えながら、テーブルに座って待っているよう伝えた。
※※※
昼には、久しぶりに庭で食卓を囲むことにした。
樹木の下に布を広げ、籠に詰めたパンや果実を並べる。
アロガやナナも居て、家族の団欒が広げられていた。
こちらの楽しげな様子を見て取って、妖精達まで集まり、更に賑やかになる。
裏庭近くに陣取ったお陰で、シルケも一緒に居られ、食べられない彼女は専ら給仕に勤しんでいた。
風は柔らかく、木漏れ日がちらちらと揺れて、まるで祝福の光のようだ。
「わぁ……! おそとでたべるの、ひさしぶり! うみのときが、さいごかも!」
「あぁ、そうだったかもね」
あの夏の日々は、殆ど毎日の様に海へ行き、砂浜で食事を取っていたものだ。
「ねっ! また、いきたい!」
「今年はもう無理だから、また来年だ」
「うんっ!」
リルは嬉しそうに声を上げて、パンに手を伸ばすと、もぐもぐと頬張った。
その食欲旺盛な様子は、病に伏していた頃からは想像もできないものだ。
私はそんな娘を見ながら、胸の奥からじわじわと熱いものが込み上げてくるのを覚えた。
ただ食べ、笑い、話し、走り回る――その当たり前のことが、どれほど尊いものか。
あの夜、蝋燭の炎が揺れるたびに祈った未来が、いま目の前にある。
食後、リルはアロガとナナを引き連れて、庭を駆け回り始めた。
風に髪をなびかせ、途中で追い駆けて来た妖精もアロガと共に走り、そうして切り株の上をぴょんと飛び越える。
私はその一つひとつの動作に目を奪われた。
病を経てからのリルの動きは、どこか以前よりもしなやかで、力強ささえ宿しているように見えた。
その時、ふと、リルが立ち止まり、振り返る。
「お母さんっ!」
そう呼ぶ声は、澄み切った空気に高く響いた。
私は手を振り返しながら、その成長を全身で感じていた。
――この子は病を越えて、一回り大きくなった。
ただ身体が元に戻っただけではない。
夜を乗り越えた瞳には、幼いながらも確かな芯のようなものが宿っていた。
苦しみの最中に見せた弱さと、その後に芽生えた強さ――それら全てが、この子を新たに形づくっている。
夕方になり、私たちは家に戻った。
リルは少し疲れた様子だったが、それでも笑みを絶やさず、私の手をしっかりと握っていた。
その温もりは、あの高熱に焼かれた手とはまるで別物のように、穏やかで柔らかい。
夜、リルを寝かしつけた後、私は一人で炉辺に座った。
薪の炎がぱちぱちと音を立て、部屋を暖かく照らしている。
私は膝の上に両手を置き、静かに息を吐いた。
――時折、あの夜の事を思い出す。
荒い呼吸、汗に濡れた額、掴まれた小さな手の震え……。
何度も、命の糸が切れてしまうのではないかと恐れた。
だが、今は間違いなく、生き生きとした温もりを灯している。
リルは病を経て、確かに成長した。
そして、私自身もまた、母として成長したのだと思う。
命の重さ、日常の尊さ、我が子への愛――その全てを、私はあの試練を通し、改めて学んだ気がする。
窓の外を見上げると、澄んだ夜空に星が瞬いていた。
私は信仰する対象を持たないが、今だけは何かに感謝を捧げたい気持ちだった。
「……今更、何かに縋るのは、虫が良すぎると我ながら思うけど……」
だが、それでも自分がそうしたくて、窓の外――星々へ顔を向け、胸に手を当てる。
その祈りにも似た思いは、静かな部屋に溶け、やがて心の奥に安らぎとなって満ちていった。
翌朝、リルは元気に目を覚まし、笑顔で私に駆け寄ってきた。
その笑顔を見た瞬間、私ははっきりと実感した。
――リルは、もう完全に回復した。
そしてこの子は、病を越え、一層強く輝きを増して歩んでゆくのだ、と。
私はリルを抱きしめ、頬に口づけを落とした。
その小さな体から伝わる生命の力を、胸いっぱいに感じながら。
それは、母としての私にとって、この上ない祝福の瞬間だった。
※※※
病の影が完全に消えてから、更に七日の月日が流れたが、我が家の日々は、あの試練を経る前とまったく同じには戻らなかった。
それは悪い意味ではなく、むしろ小さな変化が、暮らしに新しい色合いを与えていた。
リルは以前よりも、少し早起きになった。
病に伏していた日々、朝の光を見ることすらままならなかった記憶が、幼い心に深く刻まれているのだろうか。
今では、東の窓から差し込む光を、真っ先に見つけて私を起こす程だ。
まだ寝ぼけ眼の私を揺さぶりながら、リルは笑い、すぐに庭に飛び出したがる。
朝露に濡れる草の匂いを嗅ぎ、鳥の囀りに耳を澄ませるその姿は、まるで新しい命の芽吹きを自分の中で確かめているかのようだ。
私もまた、朝の光を以前より大切に思うようになった。
リルがあの夜を生き抜いたことを思えば、一日の始まりがとても尊く感じられる。
だから私は、リルと一緒に朝の空気を吸い込み、そして元気になったと同時に復活した、日課の修練を始めるのだった。
日中のリルは、以前より活発で、とにかく黙っていられない。
元より走り回るのが好きだったが、どうにも力を持て余している様で、木に登ろうとして私に止められることもしばしばだ。
ただしその中に、不思議な落ち着きが垣間見えることもあった。
たとえば、庭の隅に咲く花をじっと見つめたり、空を渡る雲を見て立ち止まったり。
病を経てからというもの、彼女は世界の一瞬一瞬を、愛おしむように目を向けるようになったのだ。
一方で私は、以前よりも過敏になった気がする。
彼女がくしゃみをすれば胸がざわつき、少し疲れた顔を見せれば手を止めて額に触れる。
リルはそんな私を見て、だいじょうぶだよと笑うけれど、その笑顔の裏に潜む幼い強がりを、私は見逃さない。
母としての不安は、消えはしないのだ。
けれど、それは重荷ではなかった。
むしろその不安があるからこそ、私は日常を一層丁寧に味わえるようになったのかもしれない。
夕暮れ時、暖炉前でリルと過ごす時間もまた変わった。
病を経る前は、彼女は眠たくなるまで無邪気におしゃべりを続けたものだった。
だが今は、ふとした拍子に、熱に浮かされていた時の記憶を話し出す。
夢のように霞んでいるが、苦しさの一端は覚えているらしい。
私はその言葉を遮らず、静かに耳を傾ける。
「それでね、リル……もうダメなんじゃないかって、おもったの。もうこれから、おそとであそんだり、そういうのできないんだって……」
「でも、お母さんがそうはさせないよ」
「うん、お母さんの手、やさしくて、うれしかった。ガンバらなきゃ、っておもった」
「もう大丈夫。あの夜は過ぎたんだ」
そう言って抱き寄せると、リルは安心したように目を閉じた。
こういう話は今日だけではなく、何度となく似た内容を話した。
だが、それでも良い。
その繰り返しが――私からの返答が、少しずつリルの心の傷を癒していくのだと思うから。
※※※
街の友達もまた、リルの変化に気付いていた。
「リルちゃん、なんか前より元気になったね」
「熱出して寝込んでたんだろ? 学校来なくて心配してたけど……。いや、大変だったな」
「もう、ゼンゼンへーき!」
リルは照れくさそうに笑いながら、子どもたちと駆け回る。
彼女の笑顔が周囲に光を与えるのを見ると、私は改めて気づくのだ。
――病を越えたことは、この子の内に強さを宿しただけでなく、周囲に温もりを広げているのだと。
夜、彼女が眠ったあと、私は机に向かって魔術書を開くことがある。
病の最中に祈りと共に施した護符、薬水などの調合――。
あの時の自分の行為を振り返ると、母としての必死さと同時に、魔女としての未熟さを痛感した。
だからこそ、私は改めて学びを重ねようと思った。
再び娘が苦難に遭った時、今度はもっと強く守れるように……。
リルの寝息が聞こえる部屋は、以前よりも静かで、穏やかで、温かい。
その音を聞きながら、私は思う。
――日常は確かに戻った。だが、同じものではない。
病を経た私たちの暮らしは、少しだけ姿を変え、以前よりも深みを増している。
母の心配と、娘の強さ。
その二つが交わり合い、新しい絆となって日常を形作ろうとしている気がした。