夕餉を終えた後、食器を片付けている間、リルはアロガとナナを近くに置き、暖炉の傍で遊んでいた。
赤く揺れる火の光に、小さな指で影絵を作りながら、一匹と一人に見せ付ける。
「ほら、これ。お母さんに、おしえてもらったの。アロガだよ」
それは単なる犬の影絵だったし、アロガのトレードマークとも言える長い牙はない。
だが、アロガは嬉しそうに吠え立て、ナナも敢えて無粋な言葉を挟まなかった。
そうして、他にも幾つか披露し、主にナナが褒めそやす中、やがて夜は深まる。
外からは、冷たい風が窓を叩くように吹きつけていた。
外は冬の始まり特有の冴えた静けさに包まれ、星が凍りつくように瞬いている。
私は暖炉の小精霊に、マナを与えて火力を整えてから、リルに声をかけた。
「さあ、もう寝る時間だ。布団が冷たくなる前に入らなくちゃ」
「えぇ~っ、まだねむくない~」
リルは唇を尖らせ、床に座ったままアロガの首に抱き着き、私を見上げた。
「でも、明日はお家の手伝いをしてくれるんだろう? 本格的な冬に向けて、やる事は色々あるよ」
「うん……」
「元気に起きるためには、よく眠らないと」
そう言うと、リルは少し考えこんだ後、布団に向かう動きを見せながら言った。
「じゃあ、おはなし、して。そしたら、ねるから!」
私はくすりと笑い、リルの小さな背中を追った。
アロガを寝台のすぐそばに置き、布団に入ったリルは、毛布を首まで引き上げる。
そうして、ぱちりと期待に大きな目を瞬かせながら私を待った。
私は布団の端に腰を下ろし、リルの額にかかった髪をそっと撫でる。
「さて、どんなお話がいい?」
「よーせーのこと。なにかある?」
私はゆっくりと頷いて、遠くに想いを馳せながら応えた。
「勿論、あるとも。……その昔、人間と妖精の距離は近かった。今では森や山、秘境と呼べる様な場所にしかいないけど、村に顔を出したり、そもそも近くの切り株を家にして、住んでいたりしたんだ」
リルはしばらく考え、やがて小さな声で答えた。
「そうなの? でも……、それだとタイヘンそう」
「そうとも、妖精は悪戯好きだからね。馬のブラシを隠したり、パン屋の小麦粉の袋を閉じたり、靴を片方だけ別にしたり……色々やっていたものだ」
リルは毛布をぎゅっと握りしめ、また言葉を続ける。
「ほかにも……、おかしをかってにたべたり?」
「ふふっ……、そうだね。パン屋の主人は開かない小麦粉の袋に困って、馬丁はブラシを探して頭を掻き、子どもたちは片方だけ大きな靴を履いて、転びそうになったりした」
「ダメだなぁ、よーせーは……」
「けれど、みんな腹を立てるより先に笑ってしまう」
「どうして?」
「みんな妖精が、そういうものだと知っているからさ。それに、本当に困ってしまうイタズラはしない。だから、だろうね」
「でもでも、こまることは……、こまるよね?」
「困るけど、妖精のイタズラだと、それが許せてしまうのさ。ヒトにとってはね、妖精と接することは名誉な事なんだ」
「そうなの?」
リルはこてん、と首を傾げる。
私はそれでずれてしまった布団を掛け直した。
「めーよ、ってなに?」
「嬉しさと誇らしさを感じる事かな。妖精を見られたり、その存在を感じられる事は、昔の基準でも相当少なかった。だから、妖精の仕業だと分かれば、むしろ何かの良い兆し……みたいに思う」
「まちでは、みないもんね? どうして?」
「元々、ヒトの多い場所には来ないけれど……。でも、住む場所を追われた結果、より人前には出なくなった」
「すむ……ばしょを? どうして?」
「マナ溜まりを奪われていったからだろう。妖精達が住む場所というのはね、どうしてもそうした場所になりがちだ……」
むしろ、マナによって生きる彼らだから、そうした場所以外選ばない。
最初は村が近くにある、という場合でも、人口が増え……村が町になり、更に大きくなると、そのマナ溜まりを含む形で拡大する。
マナは誰にとっても有用だから、欲すれば奪われるのが道理だ。
「今では人の住む大きな街、首都だったりする場所は、全て過去、妖精などが住むマナ溜まりだった。現在はヒト――人間や獣人が住む場所だけど、でも、最初に奪い始めたのはエルフだった」
「……どうして、そんなヒドいことしたの?」
「さて……」
私は肩を竦めて、リルのお腹をフトンの上からポンポンと叩く。
心の奥底に眠る感情を表に出さないために、相当な苦労をして押さえ込む。
腹の内から這い出るような思いは、しかしリルの顔を見ていれば自然と収まった。
「エルフは自分達が一番偉いと思ってる。だからね、望む物は全て、自分達に管理されるべき、って考えるのさ」
「でも……、それって、ヘン。すごくヘン」
「そうだね、凄く変なことだ。そのせいで、妖精や精霊は、ヒトの住む世界に中々出てこれなくなったんだからね」
「エルフって、わるいヒトたちなの?」
そうだ、と即答してしまいたい。
だが当然、ヒトもまたそうである様に、エルフにだって良い者、悪い者がいる。
個人的感情で、リルの思想を歪めたくないし、必要ならリルが自分で判断する事だった。
「全員が全員、そうじゃないさ。いつか直接見ることがあったら、どういうものか自分で決めてごらん」
リルは目をまっすくに向けて聞いていたが、やがて微笑んだ。
「うん、じゃあ、いつかそうするね。はやく、あえたらいいけど」
「そうだね……。いつか、いつかね……」
永遠に来ないのが、おそらく互いにとって、一番良いだろう……。
リルは安心したように目を閉じ、しばらく黙っていた。
私はその寝顔を見守りながら、心の奥で祈るように言葉を紡ぐ。
――どうかこの子の未来に、
その時、リルはぱちりと目を開けて、再び問いかけてきた。
「お母さん、せーれーって、よるはどこにいるの?」
「もう、完全に寝る感じだったじゃないか……。もう、おねむだろう? そうだと言って……」
「ねぇ、どこ?」
しかし、リルにはこちらの思いなどお構いなしだ。
私は苦笑しつつ少し考え、窓の外の星を見やりながら答えた。
「精霊というのはね、森の奥や水の流れ、風の中にいるものさ。それはね、夜であっても変わらない」
リルは窓の方を見つめ、にっこりと笑った。
「じゃあ……、『おやすみなさい』っていってみる」
その小さな声が夜気に溶けると、どこかで光の粒が瞬いたような気がした。
私はリルを抱きしめ、その温もりを胸に刻む。
「さぁ、もう寝なさい……。朝の鍛練は、いつもと変わらずあるからね」
リルは小刻みに頷き、ようやく瞼を重くしていった。
私はその額にそっと口づけを落とし、囁く。
「おやすみ、リル。いい夢を……」
その寝顔を見守りながら、私は心の奥で改めて誓った。
――この子と共に危機を越え、再び平穏な時間を迎えよう。
エルフ達の蠢動があり、その勢いは増している。
あの時の攻勢が、その全てでないのは明らかだ。
だが、それを超えてみせる。
窓の外では、星が澄みきった夜空に静かに瞬いていた。
※※※
夜は深まり、家の中は暖炉で火の小精霊が、かすかに赤く揺れているだけになった。
リルが安らかな寝息を立て、小さな胸が上下するたび、夢の国へと穏やかに漕ぎ出しているかのようだ。
その寝顔を眺めるだけで、私の心は安らいでいく。
だが、リルが眠ったあとの静けさは、私にとっては別の時間をもたらす。
誰に語るでもなく、自分の胸の内を確かめる時間だ。
今夜はとりわけ、その思いが胸に溢れていた。
――リルはまた一歩、大きくなった。
昼間、妖精や精霊たちを見送ったときのことが蘇る。
小さな手を握りしめて、寂しさを抱えながらも「また春に会えるんだよね」と確かめるように、問いかけたあの表情……。
別れをただの悲しみではなく、未来への約束として受けとめようとするその姿に、私ははっとした。
幼いながらも、リルは心で感じ、考え、言葉を紡ごうとしている。
母として、それがどれほど喜ばしいことか。
けれど同時に、少しの切なさも覚える。
子どもが成長するのは、親の手を少しずつ離れていくことでもある。
――私は、この子に何を残せるだろうか。
日々の糧や、寒さをしのぐ服、屋根の下の安心――。
危機に対応するだけの力量、理不尽を撥ね除けられる気概――。
魔術や精霊への正しい知識――。
それらは、もちろん大切だ。
だが、それだけでは足りない。
この子の心に、もっと深く息づくものを伝えたい。
それは一体、なんだろう。
目には見えないけれど、確かに在るものを信じる心。
あるいは、それを受け渡すことができれば、この子はどんな
シルケに精霊の宴を、絵に描いて説明しようとした時――。
見えていない精霊に対し、お休みなさいと言った時――。
幼い娘は既に、自分の喜びを他者と分かち合おうとする気持ちを持っている。
それが目に見えない精霊であっても、ちゃんと届くと信じている。
その心のあり方こそ、この子が大切にしてほしい宝だと思う。
――けれど。
私は自分の心の奥に、かすかな不安も抱えていた。
この先、リルが大きくなるにつれて、現実の厳しさに触れるだろう。
冬の寒さや飢え、病や別れ……時に妖精や精霊に対し、心を揺さぶられるような出来事もあるかもしれない。
そのとき、この子の心に今の灯火が残っていてくれるだろうか。
小さな胸に灯った『信じ、思い遣る力』が、消えてしまうことはないだろうか。
私はそれを恐れている。
優しい――優し過ぎる心根の持ち主は、時に凄惨な目に遭って、その心が逆転してしまう事がある。
私は実際に、そうしたヒトを多く見てきた。
その者達は全て他人……、深い付き合いをしていた訳でもなかったから、見ているに留めていた、という事情もあるが……。
今はその場合と、大きく違う。
リルは私の懐に入れた、愛しい我が娘だ。
私自身が示してやらねばならない。
たとえ困難に直面しても、目に見えぬ繋がりを信じ、日々を正しく生き抜く姿を。
母としての私がそう示し続ける限り、リルもまたその背中を見て歩んでくれるだろう。
暖炉の火が――小精霊が、ぱちりと音を立てて弾けた。
その音が胸の決意を呼び覚ます。
――まずは、冬を共に越えよう。
冬は厳しく、長い。
けれど、そこには教えもある。
寒さの中で火を囲み、乏しい食糧を分け合い、互いの存在に感謝すること。
そのすべてが、心を鍛え、絆を深めてくれる。
私は、彼女の手を握り、この家で共にその時を過ごす。
再び豊かな春を迎えられると信じて。
思えば、私自身も師匠から、そうして育てられた。
まだ師事したての幼い頃、冬の夜に暖炉のそばで聞いた師匠の声を思い出す。
『星を見てみな。星は遠くて手は届かず、しかし、お前を照らしている。お前は何一つ返せないが、確かに受け取っているものもあるのさ。この話から何を見いだし、何を感じるかは、お前次第だ』
あの言葉は、今も私の胸に生きている。
その言葉をリルにも伝えよう。
夜空を見上げた時、リルならば『星にお話する』と言いそうだった。
もし、本当にそう思ったなら、師匠から受け継いだものが、次の世代へ渡った事になるのだろう。
受け渡していくこと。
それが母としての私の務めであり、喜びでもある。
私はそっと立ち上がり、寝室の戸口からリルの寝顔を覗いた。
小さな手が布団の外に投げ出され、安らかな寝息が部屋に満ちている。
その姿を見ているだけで、胸が溢れる程の愛おしさで満たされた。
――この子がどんな未来を歩むとしても。
私はきっと、その背中を見守り、そして応援するだろう。
たとえ手を離さなければならない日が来ても、心だけはずっと寄り添い続ける。
そう心に誓いながら、私もまた、眠る準備を始めた。
リルの投げ出された腕を布団の中に仕舞い、私もその中へと入る。
隣の寝息を聞きながら、私もまた