東大陸北部、ペスセデン公国と隣接している獣人国にあって、その脅威とは殆ど無縁な僻地に、とある小さな村があった。
五十世帯三百人程度が住む、特に珍しくも、特筆するものもない、ごく平凡で平和な村だ。
朝日が差し込む頃、そこへ木の枝を蹴り付け、飛び降りる影があった。
しなやかな尾を揺らしながら、彼女は落下の勢いを利用してくるりと宙返りし、ふわりと着地する。
「……ふふん、今日も成功!」
勝ち気な笑みを浮かべたのは、まだ十歳の猫獣人の少女、フェリカだった。
黒髪黒目で、頭から生えた耳が、ピンと上を向いている。
彼女は剣も槍も持たないが、その拳と爪こそ何よりの武器としていて、他にも実はもう一つ、家族にすら秘密にしている隠し種があった。
ともかくも、毎日の日課となっている、この『木の枝移り』。
村の大人たちは「危ないから」と言って彼女の行いを禁じたが、勿論そんなことを素直にフェリカは聞かない。
「大きくなったら、戦士になるんだもん!」
そう言って、毎日木々を飛び越え、拳を振り、爪を磨くのだ。
その日も森の外れで、同じ年頃の子どもたちが遊んでいるところに、フェリカは胸を張って現れた。
「さぁ、今日は誰があたしと勝負する?」
子どもたちは顔を見合わせて苦笑する。
フェリカの拳に挑む勇気のある者は、もうこの村にはいない。
ところがその時、森の奥から低いうなり声が響いた。
子どもたちが息を呑む。
茂みをかき分けて現れたのは、痩せてはいるが牙の鋭い“森狼”だった。
「……っ!」
子どもたちが逃げ腰になる中、フェリカは一歩前に出る。
「みんな下がって! こいつは――あたしがやる!」
勝ち気な笑みを浮かべ、両手を握りしめる。
小さな拳が、太陽の光を浴びて輝いた。
そして、それが戦闘開始の合図となった。
森狼が飛び掛かると同時、フェリカは地面を蹴って跳躍する。
左手は爪を立て、右手は拳を握り、真っ向からぶつかる。
森狼の唸り声は、森そのものを震わせるかのようだった。
鋭い牙、毛皮の隙間から覗く引き締まった筋肉。
痩せてはいても、その眼光には獣の野生が宿っている。
子どもたちは一歩、また一歩と後ずさる。
フェリカは飛び掛かろうとする足を止め、拳をぎゅっと握り直し、一歩だけ前に踏み出した。
「早く逃げて! あたしが引き付けておくから!」
勇ましい言葉だが、当初の勢いとは裏腹に、その声は僅かに震えていた。
だがその震えを、彼女は勝ち気な笑みで塗り潰す。
子ども達はその笑みに勇気を貰ったが、しかし恐怖で足が震え、まともに逃げ出せる者はいない。
「何して……早く!」
だが、警告も間に合わないまま、森狼が地を蹴った。
その巨体が、影となってフェリカに迫る。
――速い!
本能が叫んだ。
だがフェリカもまた、猫の血を引く獣人。
咄嗟に横へ飛び退き、爪を振るう。
森狼の攻撃を躱しつつ、微かに毛皮を裂いた感触があった。
「よしっ……!」
喜んだのも束の間、森狼の尻尾が鞭のように薙ぎ払われ、フェリカの小さな身体は吹き飛び、土に叩きつけられた。
「……ぐ、うぅ……」
胸が焼けるように痛む。それでも、涙は見せない。
「みんなを……っ、守るんだから!」
再び立ち上がり、フェリカは拳を構える。
小さな拳を、心臓の前でぐっと握り、低く身を沈めた。
森狼が唸り、再び襲いかかる。
その瞬間、フェリカもまた地を蹴った。
猫のしなやかな跳躍で獣の懐に飛び込み、全身の力を込めて拳を突き上げる。
「やぁあああっ!」
拳が顎を打ち抜き、狼の頭がのけぞる。
続けざまに爪を振るい、顔へ鋭い一撃を刻んだ。
森狼が怯み、よろめく。
「まだまだっ!」
フェリカは畳みかけるように跳ね上がり、爪と拳を交互に繰り出す。
その姿は、幼いながらも獣人の戦士として相応しい力を宿していた。
やがて、森狼は呻き声を上げ、木々の影へと逃げていく。
森に再び静寂が訪れ――。
フェリカは肩で息をしながら、その場にへたり込んだ。
拳は小刻みに震えている。
けれど口元には、やはり勝ち気な笑みが浮かんでいた。
「……ふふん、見たでしょ? あたし、やったんだから!」
震える声を必死に抑え、その代わりとして誇らしげに装い、仲間の子どもたちの前で、彼女は胸を大いに張って見せたのだった。
※※※
森狼を退けたあと、フェリカは子どもたちに囲まれて村へ戻った。
皆が口々に興奮した声を上げる。
「フェリカが勇敢に戦ったぞ!」
「本当に森狼を追い払ったんだ!」
「俺たちを守ってくれた!」
フェリカは疲れ切っていたけれど、その胸は誇らしさでいっぱいだった。
だが、村の門をくぐった瞬間、大人たちの表情は一変する。
子どもたちの報告を聞いた年長者や親たちが、血相を変えて駆け寄って来た。
「フェリカ! お前、森狼と戦ったって……本当か!」
「なんて無茶を! まだ、子どもだろう!」
怒声が飛び交い、フェリカの耳がピクリと動いた。
だが彼女は一歩も引かず、胸を張って答える。
「あたしが戦うしかなかったんだ! だって、みんなを守らなきゃいけなかったんだから!」
その言葉に、子どもたちは後ろで頷く。
だが、大人たちは眉をひそめるばかりだった。
「守るのは子どもの役目じゃない。戦うのは、我ら大人の仕事だ!」
「そうだ、フェリカ。お前まで傷付いていたらどうするんだ!」
「今回は、たまたま運が良かっただけだぞ! 大人でも、種類によっては怪我するんだ!」
口々に叱られ、フェリカの拳が震える。
悔しさで泣きそうになるのを、ぐっと堪えて睨み返した。
「でも、あたし……やれたもん! 本当に戦えたんだ! 子ども扱いしないでよ!」
勝ち気な声が、朝が明けたばかりの村に響く。
大人たちは言葉を失い、一瞬の沈黙が落ちた。
やがて、年長の戦士が人垣を割って現れ、低い声で告げる。
「……無茶は許されん。だが……お前が仲間を守ろうとした、その心は認めよう」
フェリカの尾がぴんと立ち、喜び露わにしようとしたのも束の間、またすぐに別の大人が声を荒らげた。
「だからって、子どもが命を張るのは間違いだ! まず、助けを呼ぶべきだったんだ!」
「そうだ、逃げるべきだった! 助けを呼ぶのが正しい行いだ!」
「次は絶対に許さんぞ!」
叱責が増え続ける中でも、フェリカは胸を張り続ける。
誇らしさと、悔しさと、ほんの少しの不安が、幼い瞳に混ざり合っていた。
大人たちの声には、叱責とは名ばかりの罵倒さえ混じっている。
賞賛の数は少なく、いつしか罵倒ばかりが目立つようになると、誇りと悔しさが入り混じり、爪を握りしめた手のひらに食い込んだ。
「本当に、もう……勝手なことをして!」
「お前が怪我でもしたら……」
叱責の言葉が耳に響く中、不意に柔らかな気配が近づき……次の瞬間、フェリカの肩を大きな手が包む。
振り返ると、そこには母の姿があった。
「……フェリカ」
母の声は叱りも怒りもなく、ただ震えていた。
そのまま強く、ぐっと抱きしめられる。
「っ……!」
それで勝ち気な少女の心が、一瞬で崩れそうになった。
母の胸元に顔を埋めると、隠し切れなかった震えが全身からこぼれ落ちる。
「あなたの口から、あんな言葉を聞かされた時……! 本当に、胸の鼓動が止まるかと思ったのよ」
母の声が耳元で震える。
「森狼なんて、大人でも命を落とすことがあるのに……あなたが……」
フェリカは大丈夫だよ、と言いたかった。
強いんだから、と胸を張りたかった。
しかし、母の温もりに触れた途端、言葉は出て来ず、喉の奥で詰まってしまった。
つ……、と涙が一粒、瞳から漏れ、母の服を濡らした。
フェリカは慌てて顔を拭おうとする。
けれど母の腕はそれを許さず、さらに強く抱き寄せた。
「いいの。泣いていいのよ、フェリカ」
耳に心地よい囁きに、少女の頬は再び濡れる。
大人たちの叱声も、夕暮れのざわめきも最早遠く、遙か彼方に霞んでいった。
「……でもね、お母さん」
小さな声で、フェリカは必死に言葉をつなぐ。
「ほんとに……守れたんだよ。みんな、無事だったんだよ」
母は少しだけ腕を緩め、娘の顔を見つめた。
涙で潤んだ瞳の中に、確かに燃えるような光がある。
「そう……、そうね。偉かったわ、フェリカ」
母は微笑んで、涙で濡れた頬を撫でた。
「でも、どうか忘れないで。あなたはまだ小さいの。無茶をすれば……もう二度と会えなくなるかもしれないんだから」
フェリカは唇を噛み、やがて小さく頷いた。
その表情は、涙に濡れてもなお、勝ち気な輝きを失ってはいなかった。