混沌の魔女と獣人の子   作:鉄鎖亡者

252 / 325
幕間 その1

 東大陸北部、ペスセデン公国と隣接している獣人国にあって、その脅威とは殆ど無縁な僻地に、とある小さな村があった。

 五十世帯三百人程度が住む、特に珍しくも、特筆するものもない、ごく平凡で平和な村だ。

 

 朝日が差し込む頃、そこへ木の枝を蹴り付け、飛び降りる影があった。

 しなやかな尾を揺らしながら、彼女は落下の勢いを利用してくるりと宙返りし、ふわりと着地する。

 

「……ふふん、今日も成功!」

 

 勝ち気な笑みを浮かべたのは、まだ十歳の猫獣人の少女、フェリカだった。

 黒髪黒目で、頭から生えた耳が、ピンと上を向いている。

 

 彼女は剣も槍も持たないが、その拳と爪こそ何よりの武器としていて、他にも実はもう一つ、家族にすら秘密にしている隠し種があった。

 

 ともかくも、毎日の日課となっている、この『木の枝移り』。

 村の大人たちは「危ないから」と言って彼女の行いを禁じたが、勿論そんなことを素直にフェリカは聞かない。

 

「大きくなったら、戦士になるんだもん!」

 

 そう言って、毎日木々を飛び越え、拳を振り、爪を磨くのだ。

 

 その日も森の外れで、同じ年頃の子どもたちが遊んでいるところに、フェリカは胸を張って現れた。

 

「さぁ、今日は誰があたしと勝負する?」

 

 子どもたちは顔を見合わせて苦笑する。

 フェリカの拳に挑む勇気のある者は、もうこの村にはいない。

 

 ところがその時、森の奥から低いうなり声が響いた。

 子どもたちが息を呑む。

 

 茂みをかき分けて現れたのは、痩せてはいるが牙の鋭い“森狼”だった。

 

「……っ!」

 

 子どもたちが逃げ腰になる中、フェリカは一歩前に出る。

 

「みんな下がって! こいつは――あたしがやる!」

 

 勝ち気な笑みを浮かべ、両手を握りしめる。

 小さな拳が、太陽の光を浴びて輝いた。

 

 そして、それが戦闘開始の合図となった。

 森狼が飛び掛かると同時、フェリカは地面を蹴って跳躍する。

 

 左手は爪を立て、右手は拳を握り、真っ向からぶつかる。

 森狼の唸り声は、森そのものを震わせるかのようだった。

 

 鋭い牙、毛皮の隙間から覗く引き締まった筋肉。

 痩せてはいても、その眼光には獣の野生が宿っている。

 

 子どもたちは一歩、また一歩と後ずさる。

 

 フェリカは飛び掛かろうとする足を止め、拳をぎゅっと握り直し、一歩だけ前に踏み出した。

 

「早く逃げて! あたしが引き付けておくから!」

 

 勇ましい言葉だが、当初の勢いとは裏腹に、その声は僅かに震えていた。

 だがその震えを、彼女は勝ち気な笑みで塗り潰す。

 

 子ども達はその笑みに勇気を貰ったが、しかし恐怖で足が震え、まともに逃げ出せる者はいない。

 

「何して……早く!」

 

 だが、警告も間に合わないまま、森狼が地を蹴った。

 その巨体が、影となってフェリカに迫る。

 

 ――速い!

 

 本能が叫んだ。

 だがフェリカもまた、猫の血を引く獣人。

 

 咄嗟に横へ飛び退き、爪を振るう。

 森狼の攻撃を躱しつつ、微かに毛皮を裂いた感触があった。

 

「よしっ……!」

 

 喜んだのも束の間、森狼の尻尾が鞭のように薙ぎ払われ、フェリカの小さな身体は吹き飛び、土に叩きつけられた。

 

「……ぐ、うぅ……」

 

 胸が焼けるように痛む。それでも、涙は見せない。

 

「みんなを……っ、守るんだから!」

 

 再び立ち上がり、フェリカは拳を構える。

 小さな拳を、心臓の前でぐっと握り、低く身を沈めた。

 

 森狼が唸り、再び襲いかかる。

 その瞬間、フェリカもまた地を蹴った。

 

 猫のしなやかな跳躍で獣の懐に飛び込み、全身の力を込めて拳を突き上げる。

 

「やぁあああっ!」

 

 拳が顎を打ち抜き、狼の頭がのけぞる。

 続けざまに爪を振るい、顔へ鋭い一撃を刻んだ。

 

 森狼が怯み、よろめく。

 

「まだまだっ!」

 

 フェリカは畳みかけるように跳ね上がり、爪と拳を交互に繰り出す。

 その姿は、幼いながらも獣人の戦士として相応しい力を宿していた。

 

 やがて、森狼は呻き声を上げ、木々の影へと逃げていく。

 森に再び静寂が訪れ――。

 

 フェリカは肩で息をしながら、その場にへたり込んだ。

 拳は小刻みに震えている。

 

 けれど口元には、やはり勝ち気な笑みが浮かんでいた。

 

「……ふふん、見たでしょ? あたし、やったんだから!」

 

 震える声を必死に抑え、その代わりとして誇らしげに装い、仲間の子どもたちの前で、彼女は胸を大いに張って見せたのだった。

 

 

  ※※※

 

 

 森狼を退けたあと、フェリカは子どもたちに囲まれて村へ戻った。

 皆が口々に興奮した声を上げる。

 

「フェリカが勇敢に戦ったぞ!」

 

「本当に森狼を追い払ったんだ!」

 

「俺たちを守ってくれた!」

 

 フェリカは疲れ切っていたけれど、その胸は誇らしさでいっぱいだった。

 

 だが、村の門をくぐった瞬間、大人たちの表情は一変する。

 子どもたちの報告を聞いた年長者や親たちが、血相を変えて駆け寄って来た。

 

「フェリカ! お前、森狼と戦ったって……本当か!」

 

「なんて無茶を! まだ、子どもだろう!」

 

 怒声が飛び交い、フェリカの耳がピクリと動いた。

 だが彼女は一歩も引かず、胸を張って答える。

 

「あたしが戦うしかなかったんだ! だって、みんなを守らなきゃいけなかったんだから!」

 

 その言葉に、子どもたちは後ろで頷く。

 だが、大人たちは眉をひそめるばかりだった。

 

「守るのは子どもの役目じゃない。戦うのは、我ら大人の仕事だ!」

 

「そうだ、フェリカ。お前まで傷付いていたらどうするんだ!」

 

「今回は、たまたま運が良かっただけだぞ! 大人でも、種類によっては怪我するんだ!」

 

 口々に叱られ、フェリカの拳が震える。

 悔しさで泣きそうになるのを、ぐっと堪えて睨み返した。

 

「でも、あたし……やれたもん! 本当に戦えたんだ! 子ども扱いしないでよ!」

 

 勝ち気な声が、朝が明けたばかりの村に響く。

 大人たちは言葉を失い、一瞬の沈黙が落ちた。

 

 やがて、年長の戦士が人垣を割って現れ、低い声で告げる。

 

「……無茶は許されん。だが……お前が仲間を守ろうとした、その心は認めよう」

 

 フェリカの尾がぴんと立ち、喜び露わにしようとしたのも束の間、またすぐに別の大人が声を荒らげた。

 

「だからって、子どもが命を張るのは間違いだ! まず、助けを呼ぶべきだったんだ!」

 

「そうだ、逃げるべきだった! 助けを呼ぶのが正しい行いだ!」

 

「次は絶対に許さんぞ!」

 

 叱責が増え続ける中でも、フェリカは胸を張り続ける。

 誇らしさと、悔しさと、ほんの少しの不安が、幼い瞳に混ざり合っていた。

 

 大人たちの声には、叱責とは名ばかりの罵倒さえ混じっている。

 

 賞賛の数は少なく、いつしか罵倒ばかりが目立つようになると、誇りと悔しさが入り混じり、爪を握りしめた手のひらに食い込んだ。

 

「本当に、もう……勝手なことをして!」

 

「お前が怪我でもしたら……」

 

 叱責の言葉が耳に響く中、不意に柔らかな気配が近づき……次の瞬間、フェリカの肩を大きな手が包む。

 振り返ると、そこには母の姿があった。

 

「……フェリカ」

 

 母の声は叱りも怒りもなく、ただ震えていた。

 そのまま強く、ぐっと抱きしめられる。

 

「っ……!」

 

 それで勝ち気な少女の心が、一瞬で崩れそうになった。

 母の胸元に顔を埋めると、隠し切れなかった震えが全身からこぼれ落ちる。

 

「あなたの口から、あんな言葉を聞かされた時……! 本当に、胸の鼓動が止まるかと思ったのよ」

 

 母の声が耳元で震える。

 

「森狼なんて、大人でも命を落とすことがあるのに……あなたが……」

 

 フェリカは大丈夫だよ、と言いたかった。

 強いんだから、と胸を張りたかった。

 

 しかし、母の温もりに触れた途端、言葉は出て来ず、喉の奥で詰まってしまった。

 

 つ……、と涙が一粒、瞳から漏れ、母の服を濡らした。

 

 フェリカは慌てて顔を拭おうとする。

 けれど母の腕はそれを許さず、さらに強く抱き寄せた。

 

「いいの。泣いていいのよ、フェリカ」

 

 耳に心地よい囁きに、少女の頬は再び濡れる。

 大人たちの叱声も、夕暮れのざわめきも最早遠く、遙か彼方に霞んでいった。

 

「……でもね、お母さん」

 

 小さな声で、フェリカは必死に言葉をつなぐ。

 

「ほんとに……守れたんだよ。みんな、無事だったんだよ」

 

 母は少しだけ腕を緩め、娘の顔を見つめた。

 涙で潤んだ瞳の中に、確かに燃えるような光がある。

 

「そう……、そうね。偉かったわ、フェリカ」

 

 母は微笑んで、涙で濡れた頬を撫でた。

 

「でも、どうか忘れないで。あなたはまだ小さいの。無茶をすれば……もう二度と会えなくなるかもしれないんだから」

 

 フェリカは唇を噛み、やがて小さく頷いた。

 その表情は、涙に濡れてもなお、勝ち気な輝きを失ってはいなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。