村に静けさが訪れる頃、フェリカは小さな寝床に身体を横たえていた。
窓の外には月が昇り、銀の光が部屋の床に帯のように伸びている。
そんな中、昼間の出来事が、何度も頭の中で繰り返されていた。
森狼の牙、身体に走った痛み、恐怖で震える心――。
そして、母に強く抱きしめられた温もり。
『……もう二度と、会えなくなるかもしれないんだから』
母の言葉が耳の奥に蘇る。
あのとき、母の声は泣きそうだった。
フェリカは胸の奥が、きゅうっと締め付けられ、布団をぎゅっと握りしめる。
フェリカは勝ち気で、負けず嫌いだ。
叱られても、泣かされても、簡単に諦める気などさらさらない性格をしている。
「……強くならなきゃ。ほんとの戦士にならなきゃ」
小さく呟き、その小さな拳を握る。
自分の爪が手のひらに食い込み、じんわりと痛みを残した。
だが、その痛みが不思議と、心を落ち着かせてくれる。
フェリカはしばらく、窓の外の月を見つめ続けた。
その瞳には涙の跡が光っていたが、口元は強情に結ばれている。
『もう二度と、会えなくなるかもしれないんだから……』
心配してくれるのは分かっている。
けれど、自分は諦められない。
その思いと母の言葉が胸の中でぶつかり合い、どうにも落ち着かなかった。
――その時だった。
枕元に置かれた水瓶が微かに揺れ、小さな光がふわりと浮かび上がる。
透明な雫が集まり、やがて小人のような輪郭を作った。
「……来てくれたんだ」
フェリカは小声で囁いた。
誰にも話していない秘密――母にも、大人たちにも秘密の友達だ。
自分にだけ見える、小さな水の精霊――。
その精霊は声を持たない。
けれど、光る雫をぱちぱちと弾けさせれば、不思議と何を言っているのか分かるのだ。
小精霊は、フェリカの頬にそっと触れるように漂った。
冷たい水滴が肌をすべり、涙の跡をなぞる。
「……あたし、強くなれるかな」
問いかけても、答えは返ってこない。
けれど精霊は、小さく波紋を広げるように揺らめき、まるで「なれる」と伝えているかのように見えた。
フェリカの耳がぴくりと動く。
やがて彼女はふっと笑い、震える拳を解いた。
「そっか。……ありがと」
月光を受けて、精霊は淡い青の光を強めた。
それはまるで「大丈夫、そばにいる」と告げるかのようで、フェリカを優しく照らしてくれた。
母にも秘密の小さな友達。
まだ頼りない存在だけど――彼女にとっては、戦いへの不安を和らげる、かけがえのない仲間だった。
「母さんが心配するのはわかってる。でも……守れるようになるんだ。みんなを、母さんを……きっと」
フェリカに父はいない。
まだ五歳の時、魔獣と対峙して命を落とした。
父は勇敢な戦士だったと、誰もがそう言う。
だからフェリカは、その娘として、恥ずかしくない存在になりたかった。
誰もが一目置き、尊敬を一心に集める様な……。
どんな魔獣も蹴散らせる様な……。
フェリカはその光を、胸に抱くようにして目を閉じた。
次に目覚める時は、また一歩強くなれると信じて――。
※※※
翌朝、フェリカは村の広場で子どもたちと駆け回っていた。
昨日の叱責の記憶はまだ胸に残っていたが、母の言葉と水精霊の優しさに背を押され、気持ちは不思議と晴れていた。
青空は高く、風は爽やかで、畑では人々が笑いながら働き、子どもたちの笑い声があちこちから響く。
――その瞬間までは、確かに平和だった。
最初に気付いたのは耳だった。
空気を裂くような、ぎしりと軋む不協和音。
鳥の鳴き声ではない。そして、木々のざわめきでもなかった。
フェリカの耳がぴんと立ち、尻尾がぞわりと逆立つ。
「……何か、来る」
呟いた直後、村の外れで地面が裂けた。
黒い粘液のようなものが噴き出し、畑を覆いながら、じゅうじゅうと泡を立てる。
瑞々しい麦畑は、瞬く間に濁った毒沼へと変貌した。
「うわあああっ!」
「逃げろ!」
人々が悲鳴を上げ地を蹴り、家々からも多くが飛び出す。
だが、次に現れたものは、さらに恐怖を深めるものだった。
崩れた大地の裂け目から、ひとつの影が立ち上がる。
それは、『女』の形をしていた。
長い腕、しなやかな腰の曲線――だが、肌は人のものではない。
どす黒い膜に覆われ、ところどころから花のように裂けた口が現れ、ぐちゅぐちゅと蠢いている。
髪のように揺れるものは無数の触手で、その先端が地面を撫でるたび、草は枯れ、家屋はぐにゃりと歪み始めた。
「な、何だ……何なんだ、あれは……!」
老人の叫びと同時に、魔物の腕がしなやかに振り下ろされる。
その一撃で木造の家屋は簡単に潰され、破片が四方に飛び散った。
軒先に干されていた布団や洗濯物は、黒い液体を浴びて溶け落ち、やがて煙を上げながら消えていく。
フェリカはその光景を見て息を呑んだ。
胸が締めつけられ、脚が勝手に震え出す。
昨日の森狼など比べものにならない、理不尽な『災厄』がそこにあった。
そこへ母が叫んでいる声が、遠くから聞こえてくる。
「フェリカ! こっちへ!」
けれど視線は魔物から離れなかった。
その姿は、ただ破壊をもたらすだけではない。
まるで人間の女を真似し、嘲るように笑みを浮かべているように見えた。
毒沼の泡が弾けるたびに、村人たちの足取りは鈍り、咳き込み、倒れていく。
大切に育ててきた畑も、家々も、音を立てて壊れていく。
――平和な村が、音を立てて崩れ去ろうとしていた。
フェリカは小さな拳を握りしめる。
水精霊がそっと現れ、彼女の肩に雫の光を落とした。
それが助けとなったのか。
恐怖にすくむ心の奥で、熱いものがじわりと燃え上がる。
村を覆う黒い沼の臭気。
歪な女の魔物が、触手の髪を揺らしながら家々をなぎ倒す光景。
その全てを、フェリカは瞳に焼きつけていた。
「……あたしが……!」
震える声で呟いた瞬間、水精霊がふわりと寄り添う。
その小さな身体は心細いほど儚いが、淡い青い光を強く灯し、フェリカに強く警告した。
《……ダメだよ》
声は聞こえない。
だが、光の揺らめきがそう告げているように思えた。
フェリカの尻尾が高く跳ね上がる。
小さな胸の奥に熱が走り、拳を握りしめた。
「ううん……! あたしがやる! やってやらなきゃ!」
足が自然と前に出る。
毒沼の縁まで、ほんの数歩。
耳に届く悲鳴、崩れゆく家の音――その全てがフェリカの背を押した。
だが、その瞬間――背後から鋭い声が飛ぶ。
「フェリカぁっ!」
振り向くと、母が必死の形相で駆け寄ってくる所だった。
恐怖と焦りに染まった顔が見え、その腕が強く伸ばされる。
「来ちゃだめ!」
しかし、制止の声を振り切り、強く抱き寄せられる。
あまりの力に、フェリカの小さな身体は宙に浮きそうになった。
「はなして! あたし、戦える! 戦わなきゃ!」
必死に足をばたつかせ、抵抗しようとするが、母の腕からは逃れられなかった。
心なしか精霊もまた、青い光を激しく瞬かせて、フェリカを窘めているように見える。
そして、母はフェリカの蛮勇に、決して耳を貸さなかった。
「駄目よ! まだお前には――!」
その声は涙で震えていた。
母の胸に押しつけられ、フェリカの爪は布を掴み、引き裂きそうなほどに食い込んだ。
「いやだ……! お母さん、あたし、逃げたくない……!」
けれど次の瞬間、轟音とともに家屋が崩れ、黒い液体が迫った。
母は娘を抱きかかえ、その場から走り出す。
土煙が舞い、視界が霞む。
だが、伸ばした手は空を掴むばかり。
「まって……! あたしは……!」
叫びは空に呑まれ、村の惨状とともに遠ざかっていく。
――こうして、フェリカは初めて『戦えぬまま、逃げる』苦渋を味わうことになった。
※※※
母の腕に抱えられ、村の裏手の林へと駆け込む。
だが、背後から響く音は止まらなかった。
ずるり……ずるり……。
地面を擦るような粘つく音が聞こえてくる。
木々の間を抜けてなお、あの歪んだ女の魔物は、獲物を逃がすまいと追っているのだ。
振り返ったフェリカの瞳に、闇を切り裂くような異様な姿が映った。
触手が枝をへし折り、木々を汚染しながら迫ってくる。
どこまでも伸びる腕は、今にも母と自分を絡め取ろうとしていた。
「お母さん! あたし、戦う! ここで止めなきゃ!」
フェリカは母の腕からもがき出ようとした。
爪を立て、牙を食いしばり、全身で抵抗する。
だが――、母は強く首を振った。
「駄目よ、フェリカ! お前だけでも生きなきゃ……!」
次の瞬間。
母は走る勢いのまま、フェリカを脇の茂みに押し込むようにして地面に降ろした。
「ここから逃げなさい!」
「やだ! お母さんを置いてなんて……!」
フェリカは茂みから飛び出そうとする。
その肩を、淡い青い光が包んだ。
――水精霊だ。
声なきはずの存在が、その光を鋭く震わせ、激しい拒絶を伝えてくる。
――駄目だ。戦ってはいけない。この魔物は……危険すぎる。
……そう、伝えている様な気がした。
フェリカの足が重くなる。
まるで水の膜が全身を覆い、前に出させまいとするかのようだった。
いや、それは錯覚ではなく、事実だった。
精霊が魔法を使って、フェリカを妨害しているのだ。
「はなして! あたしは……あたしは母さんと!」
必死に叫んでも、光は揺らがない。
いつになく強固で、明確な拒絶だった。
小さな身体を震わせる精霊の光は、フェリカに警告しているのだ。
《助けが必要だ。この敵は、子ども一人と小精霊では抗えない。今は逃げるしかない》
「……そんなの、そんなの嫌だ……!」
涙でにじむ視界の向こうで、母が魔物に向かい立つ。
その背は小さくも、決然としていた。
「フェリカ! 走って! 必ず生き延びて!」
魔物の触手がしなり、母の姿が影に飲み込まれそうになる。
フェリカの叫びは、しかし森の木々に掻き消された。
精霊の力に押し出され、彼女の身体は強制的に森の奥へ運ばれていく。
――その心を、激しく千々に引き裂きながら。