フェリカは涙で滲む視界を拭う暇もなく、森の中を駆け抜けた。
枝が頬を裂き、土が足裏を焼くように痛んでも止まれない。
背中では、母と魔物の気配が絡み合い、次第に遠ざかっていく。
「誰か……誰か、助けて……!」
叫びながら、森を抜ける。
息が苦しく、喉が焼けるほど叫んだが、返事はない。
そうして、やがて辿り着いたのは、村の外れだった。
そこには避難した人々が――、魔物から逃れた人々がいるはずだった。
だが、フェリカの目に飛び込んできたのは、あまりに無惨な光景だった。
家々は骨のように折れ曲がり、壁は泥にも似た形で溶けて崩れていた。
畑から広がった黒い毒の沼が、じわじわと集落の外縁まで侵食している。
畑だけではなく、草も木も溶かされ、煙のような瘴気が漂っていた。
「そ、そんな……」
フェリカの身体は鉛の様に重くなり、その意思と関係なく足を止めた。
村の人々が逃げ出した形跡はある。
散乱した荷車、転がる桶、焦げたように崩れた衣服。
だが、肝心の人影は殆ど見えなかった。
いや、ひとつだけ――大人の村人が地面に倒れ、必死に這っている。
「た、助け……」
か細く、弱々しい声だけが零れる。
大人は皆、獣人らしく筋骨たくましく、いつだって自信に溢れている様だったのに、今はその片鱗すら見えない。
しかし、それも当然と言えた。
その身体は、黒い液体に侵され、皮膚がじゅくじゅくと泡立ち、指先は土に溶けていくかのようだ。
それを見てしまったフェリカの耳はぴんと跳ね、全身の毛が総毛立った。
彼女は一歩、後退ると、呻くように呟いた。
「やだ……こんなの、やだ……!」
それでも、ただ見ていることはできなかった。
足が震え、膝が崩れそうになりながらも、駆け寄ろうとした――その瞬間。
水精霊が飛び出し、フェリカの前に立ちはだかった。
雫の光はいつもより強く、まるで必死に警鐘を鳴らすように激しく震えている。
《駄目だ。この毒は死を招く。助けたい気持ちは分かる、でも近づけば……》
そう訴えている声が、今になって明瞭に聞こえる。
だが、分かっていても、フェリカは叫ばずにはいられない。
「でも、このままじゃ誰も……! 母さんも……!」
返事の代わりに、水精霊は鋭く弾ける光を放ち、フェリカの足を絡め取るように押し止めた。
小さな身体に不釣り合いなほどの強固な意志が、そこにはある。
《助けが必要だ。この敵は、もはや村ひとつでは抗えない》
――他の誰かを呼ばなければ。力ある誰かを。
その警告が、声なき声としてフェリカの胸を刺した。
彼女は歯を食いしばり、涙をこらえ、拳を握る。
しかし、村の外れに広がる絶望の光景が、その拳をただ震わせるばかりで、一歩たりとも踏み出させてはくれなかった。
フェリカは立ち尽くし、拳を握ったまま震える。
黒い沼はじわじわと広がり、すでに畑も、小屋も呑み込んでいる。
母の叫びが、耳の奥で木霊し、いつまでも逃げろと伝えて来る。
「……どうしたら……」
喉から漏れた声は擦れていた。
逃げ出したくない。
けれど、一人で立ち向かうにはあまりに巨大で、理不尽で、恐ろしい敵だ。
それは認めない訳にはいかなかった。
その時、横に寄り添っていた水精霊がふわりと揺れた。
淡い青の光を強め、フェリカの顔を見上げるように漂う。
「……逃げろって言うんでしょ? でも……、お母さんが……!」
涙交じりに叫ぶと、精霊は激しく震え、空気に波紋のような光を描いた。
その揺らぎは、不思議とフェリカの心に直接響く。
《ひとりでは無理だ。他の村からの助けでも、やっぱり足りない。――だったら、外から呼ぶしかない》
フェリカの耳がぴんと立つ。
「外から……?」
精霊は光を細かく散らし、やがて一筋の流れを形づくった。
その輪郭は『女の人影』のように見える。
長身で女性的起伏に富み、長い髪を垂らした、不思議な影。
そうして精霊から響いた声に、フェリカの目が大きく見開かれた。
「……魔女?」
魔女――。
それは獣人族にとって、英雄的な存在だ。
はるか昔、エルフ達の奴隷身分だった先祖を解放してくれたのは、一人の偉大な魔術士だったという。
ただし、獣人の何もかもを救ってくれる程、便利な超常的存在でなかった様だ。
奴隷身分から解放されてからこちら、これまで多くの窮地はあったが、いずれも解決の為に動いた、という話は聞かない。
公国から理不尽に攻められている件にしてもそうだ。
フェリカはどういう理由で争っているか知らないが、人族が一方的に嫌っているからだと聞いている。
明らかに理不尽な理由だが、だからといって、魔女が助けてくれたことはなかった。
獣人が困った時、天の助けの如く、手を差し伸べてくれる存在ではない。
――いや、まだ子どもの、フェリカにだって分かっている事だ。
魔女など所詮、おとぎ話の中にしかいないのだ。
けれど精霊の示す影は、魔女を強く示していて、これでもかと主張している。
「でも……、助けてくれるの? 魔女は気紛れな存在でしょ……?」
獣人を助けた理由は、まさしくそうした理由だと言う声もある。
だから最初の一度切りで、それ以降は接触すらないのだと、声高に言う者もいた。
フェリカの身体が震える。
これは重要なことだ。
どうせ助けを呼ぶのなら、もっと大きな村とかに行って、強い戦士に来て貰った方が良いのではないか。
族長みたいな、強さと誇り高さを併せ持つ、高潔な戦士に――。
しかし、精霊は否定めいた動きで揺らぎ、光を力強く瞬かせた。
《あの魔物に対抗できるのは、人ならざる力を持つ者しかいない。
――頼れる相手は、魔女しかいない》
精霊の強い主張に、フェリカは唇を噛んだ。
――怖い。
魔女に会うのも、頼るのも怖い。
何処にいるかも分からない魔女を頼って、袖にされるのが怖かった。
けれど――村が滅んでいくのを、母を失うのをただ見ていることの方が、もっと怖い。
「……わかった」
小さな声で呟き、立ち上がる。
涙で濡れた頬を拭い、拳を強く握った。
耳と尻尾がぴんと立ち、瞳にはもう怯えだけでなく、決意の炎が宿っていた。
「助けを呼ぶ! 母さんも、村も……絶対に助ける!」
水精霊はその言葉に応えるように、ぱちんと光を弾いた。
その輝きは「よく言った」と告げるように、フェリカの背を押す。
小さな足が、村の外の闇へと踏み出す。
その行き先に待つのは、未知の存在――魔女。
けれど今のフェリカにとって、その影は最後の希望に他ならなかった。