混沌の魔女と獣人の子   作:鉄鎖亡者

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幕間 その3

 フェリカは涙で滲む視界を拭う暇もなく、森の中を駆け抜けた。

 枝が頬を裂き、土が足裏を焼くように痛んでも止まれない。

 

 背中では、母と魔物の気配が絡み合い、次第に遠ざかっていく。

 

「誰か……誰か、助けて……!」

 

 叫びながら、森を抜ける。

 息が苦しく、喉が焼けるほど叫んだが、返事はない。

 

 そうして、やがて辿り着いたのは、村の外れだった。

 そこには避難した人々が――、魔物から逃れた人々がいるはずだった。

 

 だが、フェリカの目に飛び込んできたのは、あまりに無惨な光景だった。

 

 家々は骨のように折れ曲がり、壁は泥にも似た形で溶けて崩れていた。

 畑から広がった黒い毒の沼が、じわじわと集落の外縁まで侵食している。

 

 畑だけではなく、草も木も溶かされ、煙のような瘴気が漂っていた。

 

「そ、そんな……」

 

 フェリカの身体は鉛の様に重くなり、その意思と関係なく足を止めた。

 村の人々が逃げ出した形跡はある。

 

 散乱した荷車、転がる桶、焦げたように崩れた衣服。

 だが、肝心の人影は殆ど見えなかった。

 

 いや、ひとつだけ――大人の村人が地面に倒れ、必死に這っている。

 

「た、助け……」

 

 か細く、弱々しい声だけが零れる。

 大人は皆、獣人らしく筋骨たくましく、いつだって自信に溢れている様だったのに、今はその片鱗すら見えない。

 

 しかし、それも当然と言えた。

 その身体は、黒い液体に侵され、皮膚がじゅくじゅくと泡立ち、指先は土に溶けていくかのようだ。

 

 それを見てしまったフェリカの耳はぴんと跳ね、全身の毛が総毛立った。

 彼女は一歩、後退ると、呻くように呟いた。

 

「やだ……こんなの、やだ……!」

 

 それでも、ただ見ていることはできなかった。

 足が震え、膝が崩れそうになりながらも、駆け寄ろうとした――その瞬間。

 

 水精霊が飛び出し、フェリカの前に立ちはだかった。

 雫の光はいつもより強く、まるで必死に警鐘を鳴らすように激しく震えている。

 

 《駄目だ。この毒は死を招く。助けたい気持ちは分かる、でも近づけば……》

 

 そう訴えている声が、今になって明瞭に聞こえる。

 だが、分かっていても、フェリカは叫ばずにはいられない。

 

「でも、このままじゃ誰も……! 母さんも……!」

 

 返事の代わりに、水精霊は鋭く弾ける光を放ち、フェリカの足を絡め取るように押し止めた。

 小さな身体に不釣り合いなほどの強固な意志が、そこにはある。

 

《助けが必要だ。この敵は、もはや村ひとつでは抗えない》

 

 ――他の誰かを呼ばなければ。力ある誰かを。

 その警告が、声なき声としてフェリカの胸を刺した。

 

 彼女は歯を食いしばり、涙をこらえ、拳を握る。

 しかし、村の外れに広がる絶望の光景が、その拳をただ震わせるばかりで、一歩たりとも踏み出させてはくれなかった。

 

 

 

 フェリカは立ち尽くし、拳を握ったまま震える。

 黒い沼はじわじわと広がり、すでに畑も、小屋も呑み込んでいる。

 

 母の叫びが、耳の奥で木霊し、いつまでも逃げろと伝えて来る。

 

「……どうしたら……」

 

 喉から漏れた声は擦れていた。

 逃げ出したくない。

 

 けれど、一人で立ち向かうにはあまりに巨大で、理不尽で、恐ろしい敵だ。

 それは認めない訳にはいかなかった。

 

 その時、横に寄り添っていた水精霊がふわりと揺れた。

 淡い青の光を強め、フェリカの顔を見上げるように漂う。

 

「……逃げろって言うんでしょ? でも……、お母さんが……!」

 

 涙交じりに叫ぶと、精霊は激しく震え、空気に波紋のような光を描いた。

 その揺らぎは、不思議とフェリカの心に直接響く。

 

 《ひとりでは無理だ。他の村からの助けでも、やっぱり足りない。――だったら、外から呼ぶしかない》

 

 フェリカの耳がぴんと立つ。

 

「外から……?」

 

 精霊は光を細かく散らし、やがて一筋の流れを形づくった。

 その輪郭は『女の人影』のように見える。

 

 長身で女性的起伏に富み、長い髪を垂らした、不思議な影。

 そうして精霊から響いた声に、フェリカの目が大きく見開かれた。

 

「……魔女?」

 

 魔女――。

 それは獣人族にとって、英雄的な存在だ。

 

 はるか昔、エルフ達の奴隷身分だった先祖を解放してくれたのは、一人の偉大な魔術士だったという。

 

 ただし、獣人の何もかもを救ってくれる程、便利な超常的存在でなかった様だ。

 

 奴隷身分から解放されてからこちら、これまで多くの窮地はあったが、いずれも解決の為に動いた、という話は聞かない。

 

 公国から理不尽に攻められている件にしてもそうだ。

 フェリカはどういう理由で争っているか知らないが、人族が一方的に嫌っているからだと聞いている。

 

 明らかに理不尽な理由だが、だからといって、魔女が助けてくれたことはなかった。

 

 獣人が困った時、天の助けの如く、手を差し伸べてくれる存在ではない。

 ――いや、まだ子どもの、フェリカにだって分かっている事だ。

 

 魔女など所詮、おとぎ話の中にしかいないのだ。

 けれど精霊の示す影は、魔女を強く示していて、これでもかと主張している。

 

「でも……、助けてくれるの? 魔女は気紛れな存在でしょ……?」

 

 獣人を助けた理由は、まさしくそうした理由だと言う声もある。

 だから最初の一度切りで、それ以降は接触すらないのだと、声高に言う者もいた。

 

 フェリカの身体が震える。

 これは重要なことだ。

 

 どうせ助けを呼ぶのなら、もっと大きな村とかに行って、強い戦士に来て貰った方が良いのではないか。

 

 族長みたいな、強さと誇り高さを併せ持つ、高潔な戦士に――。

 しかし、精霊は否定めいた動きで揺らぎ、光を力強く瞬かせた。

 

 《あの魔物に対抗できるのは、人ならざる力を持つ者しかいない。

 ――頼れる相手は、魔女しかいない》

 

 精霊の強い主張に、フェリカは唇を噛んだ。

 ――怖い。

 

 魔女に会うのも、頼るのも怖い。

 何処にいるかも分からない魔女を頼って、袖にされるのが怖かった。

 

 けれど――村が滅んでいくのを、母を失うのをただ見ていることの方が、もっと怖い。

 

「……わかった」

 

 小さな声で呟き、立ち上がる。

 涙で濡れた頬を拭い、拳を強く握った。

 

 耳と尻尾がぴんと立ち、瞳にはもう怯えだけでなく、決意の炎が宿っていた。

 

「助けを呼ぶ! 母さんも、村も……絶対に助ける!」

 

 水精霊はその言葉に応えるように、ぱちんと光を弾いた。

 その輝きは「よく言った」と告げるように、フェリカの背を押す。

 

 小さな足が、村の外の闇へと踏み出す。

 その行き先に待つのは、未知の存在――魔女。

 

 けれど今のフェリカにとって、その影は最後の希望に他ならなかった。

 

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