混沌の魔女と獣人の子   作:鉄鎖亡者

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第七章
そして、月日は流れ その1


 春の風が森を渡っていく。

 冬の名残を惜しむように、まだ冷たい朝霜を散らしながら、しかし確かに、大地は目を覚まし始めていた。

 

 芽吹いたばかりの若葉は淡く、日に透けると小さな光の羽のように見える。

 鳥たちは声を張り上げ、せわしなく巣材を集め、森全体が生き生きとした息吹を取り戻していた。

 

 ――そして、その変化を最も喜んでいるのは、やはりリルだった。

 

 三年前はまだ六歳だった彼女も、今では九歳になった。

 あどけなさを残しつつも、言葉に思慮を含むようになり、仕草に落ち着きが宿り始めている。

 

 布を自分の手で繕い、薬草の芽を摘む手際も、すっかり頼もしくなった。

 

 今朝も目を覚ますと、リルは小さな籠を手に、森へ駆け出していた。

 私は後から追いつき、陽の差し込む林の中で彼女を見つける。

 

「お母さん、ほら! もう出てきてる!」

 

 リルは膝をつき、指先で土を軽く払って、小さな野草の芽を見せてくれた。

 ほんのり赤みを帯びた茎が、まだ震えるように細い。

 

「冬の間ずっと眠っていたのに、春になるとちゃんと顔を出すんだね」

 

「そう、大地は忘れないんだ。約束みたいに、また芽を出すものだ」

 

 リルの瞳は、きらきらと輝いていた。

 その光を見ていると、私自身もまた新しい春を迎える喜びを、噛みしめずにはいられない。

 

 今日はたまたま薬草の採取を優先したが、日々の鍛練は嘘をつかず、身体の成長に合わせてより逞しい体つきになった。

 

 獣人特有のしなやかさと力強さ、それらを十二分に発揮し、私でもあわや、という場面も増えている。

 

 練習での有効打を敢えて受けることはあるものの、本気の立ち会いではまだ一度も負けていないが……。

 

 しかし、それも遠からず覆されるだろう。

 リルにはそれだけの勤勉さがある。

 

 今も屈んで野草の茎を見つめるリルの尻尾は、千切れんばかりに振られていて、その横にはアロガ、上にはナナが見守っている。

 

 時間が経っても、その関係性は相変わらずだ。

 

 アロガの身体はこの三年で更に大きくなったが、リルはそれに気付いていないかの様に振る舞う。

 

 原因の一つは成獣しているのに、相変わらずリルにべったりで、甘えたがりなせいかもしれない。

 

 ナナもお姉さん風を吹かせていて、ここ最近は魔力指導に熱が入っている。

 互いのマナ同調は高い水準を獲得していて、既に一端の精霊魔法使いだ。

 

 しかし、こうして春を迎え、浮き立つ心を湧き立てる姿は、全くもって年相応でしかなかった。

 

 私はその無邪気な光景を見て、小さく笑みを浮かべながら眼を細めた。

 

 

  ※※※

 

 

 春が訪れると、森には妖精達が再び現れる。

 暖かな陽気に誘われて、畑に出来た揺らぎから姿を現し始めるのだ。

 

 リルはその光景を、今や遅しと待ちわびていた。

 別れと再会は既に毎年の事とはいえ、リルは毎晩、夜空に向かって「おやすみなさい」と語りかけるのが、日課になっている。

 

 妖精と精霊に再会し、森へ迎える事は、いつしか当然というより、喜ぶべきものとして捉えられていた。

 

 彼らに敬意を向けるのは正しく、またその意識を持ってくれたことが嬉しい。

 

 妖精を悪童扱いは変わらないが、それは妖精達も分かってやっているので、お互い様という感じだった。

 

 そうして今日の朝、朝霧の晴れた畑の前で、リルは眠そうな目を擦りながら囁いた。

 

「お母さん、来たよ……!」

 

 言われて私も目を凝らすと、陽の光の元、空間に揺らぎが生まれた。

 そこからは、白い光の粒が漏れ出している。

 

 ひとつ、ふたつと数を増し、やがて小さな輪を描くように形作ると、遂に光が溢れて妖精達が飛び出して来た。

 

「久々の森だぁ~っ!」

 

「いつ来ても、このマナ濃度は良いねぇ。心地好いよ、森は!」

 

「やっほ~、リル! ただいま!」

 

「元気にしてたかぁ~?」

 

「また、寂しがってたんじゃないのぉ?」

 

「見りゃ分かるよな、当然だろ……なぁ! それより、また背ぇ伸びたか?」

 

 口々に言いながらリルの周囲に群がるのも、もはや風物詩となってしまった。

 気安い態度の妖精達に、リルもまた気安く接しながら満面の笑みを浮かべる。

 

「元気にしてたし、寂しがってたりしないよ! いつも通り!」

 

「本当かぁ~?」

 

 この、この、と肘で(つつ)く妖精に、リルは迷惑そうに手を振りながら、それでも笑顔を絶やさなかった。

 

 何だかんだと言いつつ、リルもこの再会を心の底から喜んでいる。

 私はその様子を眺めながら、娘の肩に手を置いた。

 

 妖精の一人が言ったように、リルの背はまた伸びた。

 成長期だから、服を幾ら新調しても、すぐ着られなくなってしまう。

 

 悩ましいのと同時に、我が子の成長は心から喜ばしい。

 そして何も、伸びたのは背だけではなかった。

 

 髪も伸びて腰に届く程になり、私を真似てもっと伸ばしたいと言っている。

 それが面はゆくもあり、嬉しくもあった。

 

 いずれにしても――。

 妖精たちは、また戻ってきた。冬を越え、再び春を告げるために。

 

 森の日常が、再び活気を取り戻そうとしていた。

 

 

  ※※※

 

 

 春は食糧を備える季節でもある。

 雪解け水で湿った大地に、去年保存しておいた種を植え、畑を耕す。

 

 ただし、馬鹿正直に鍬で耕したりはしない。

 私はいつも通り魔力を操り、リルはナナと協力して、風の力で耕していく。

 

 風埃が舞いそうなものだが、二人にとっては慣れたもので、浮かせた砂さえ巻き取って、次々と畑を耕していった。

 

「こらぁ~、リル~!」

 

「飛ぶ! 飛ばされるって!」

 

「止めて、止めて~!」

 

 ……時々、妖精達を巻き込むのはご愛嬌だろう。

 リルは幼い頃、為す術もなかったことを引き合いに出して、時折こうしたイタズラをするのだ。

 

 妖精は外傷によって死ぬ事はないし、リルも傷付けようとはしていないので、じゃれ合い以上の事にはならない――そういう安心感もある。

 

 そうして、腕の一振りで妖精達を解放してやりながら、リルは土の香りに顔をほころばせていた。

 

「土があったかいね。今年も良い実りになりそう!」

 

「おや、リルにも分かってきたね。でも、期待するだけじゃ駄目だぞ」

 

「分かってるよ! ちゃあんと、畑の面倒を見るんでしょ? 妖精に任せきりじゃなくて」

 

「そうとも」

 

 草摘みも欠かせない仕事だ。

 まだ柔らかな新芽は、食用になるし、薬草になる物もある。

 

 リルも目を凝らして注意する事で、その種類を見分けられるようになってきた。

 

「これは食べられる? こっちは苦い匂いがする」

 

「よく気づいたね。苦いものは薬になることが多いよ」

 

 小さな学びを積み重ねながら、リルは確実に世界を自分のものにしていく。

 その姿を見守る時、私は母としての幸福を深く味わう。

 

 今日も私とリルには顔に笑顔が咲いていた。

 

 

 

 春の夜は、まだ少し肌寒い。

 しかし、暖炉にいる、火の代わりである小精霊を囲んでいると、心まで温まるかのようだった。

 

 ある晩、リルは布団に入る前に、ふと私に尋ねた。

 

「お母さん、春ってどうして来るの?」

 

 私は少し思考に没頭し、どう答えべきか悩んだ。

 

「冬があるから……かな。大地が眠り、木々が力をためて、そして目を覚ます。眠る時間があるから、芽吹く力が生まれる」

 

 リルは目を瞬かせ、やがて笑った。

 

「じゃあ、わたしも寝たら、もっと元気になる?」

 

「そうだね。リルの成長も、春みたいなものかも」

 

 私はリルの頬を撫で、その寝顔を見守った。

 ――春は確かに訪れ、そして私たち親子に新しい季節を約束していた。

 

 

  ※※※

 

 

 三年という歳月は、まるで瞬きの様だった。

 こうした月日の経過や、『時間の速さ』について驚くことも、多くなったように思う。

 

 リルの背は伸び、声は少し低くなり、言葉には思慮が増してきた。

 時折、私を驚かすような言葉を紡ぐ。

 

 けれど、その瞳に宿る輝きは幼いころと同じ……いや、それ以上に強くなっていた。

 

 小さかった手は一回り大きくなり、木剣を握る姿も随分サマになった。

 

 ――森の春は短い。

 しかし、その一日一日は宝石のように尊くもある。

 

 芽吹き、歌い、笑い、学び、働き、眠る。

 その連なりの中で、リルは成長を重ねていく。

 

 けれど同時に、心の奥底に寂しさもあった。

 子の成長は、母の手を少しずつ離れていく事を意味する。

 

 私はただ願う。

 ――この子の心に、今日の春が永く残りますように。

 

 どれほど歳月を重ねても、春の喜びを忘れずに生きていけますように――。

 

 窓の外は、満天の星だった。

 

 森を照らすその光の中で、私は小さな寝息を立てるリルを見守りながら、静かに春の訪れを受け止めていた。

 

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