そして、月日は流れ その1
春の風が森を渡っていく。
冬の名残を惜しむように、まだ冷たい朝霜を散らしながら、しかし確かに、大地は目を覚まし始めていた。
芽吹いたばかりの若葉は淡く、日に透けると小さな光の羽のように見える。
鳥たちは声を張り上げ、せわしなく巣材を集め、森全体が生き生きとした息吹を取り戻していた。
――そして、その変化を最も喜んでいるのは、やはりリルだった。
三年前はまだ六歳だった彼女も、今では九歳になった。
あどけなさを残しつつも、言葉に思慮を含むようになり、仕草に落ち着きが宿り始めている。
布を自分の手で繕い、薬草の芽を摘む手際も、すっかり頼もしくなった。
今朝も目を覚ますと、リルは小さな籠を手に、森へ駆け出していた。
私は後から追いつき、陽の差し込む林の中で彼女を見つける。
「お母さん、ほら! もう出てきてる!」
リルは膝をつき、指先で土を軽く払って、小さな野草の芽を見せてくれた。
ほんのり赤みを帯びた茎が、まだ震えるように細い。
「冬の間ずっと眠っていたのに、春になるとちゃんと顔を出すんだね」
「そう、大地は忘れないんだ。約束みたいに、また芽を出すものだ」
リルの瞳は、きらきらと輝いていた。
その光を見ていると、私自身もまた新しい春を迎える喜びを、噛みしめずにはいられない。
今日はたまたま薬草の採取を優先したが、日々の鍛練は嘘をつかず、身体の成長に合わせてより逞しい体つきになった。
獣人特有のしなやかさと力強さ、それらを十二分に発揮し、私でもあわや、という場面も増えている。
練習での有効打を敢えて受けることはあるものの、本気の立ち会いではまだ一度も負けていないが……。
しかし、それも遠からず覆されるだろう。
リルにはそれだけの勤勉さがある。
今も屈んで野草の茎を見つめるリルの尻尾は、千切れんばかりに振られていて、その横にはアロガ、上にはナナが見守っている。
時間が経っても、その関係性は相変わらずだ。
アロガの身体はこの三年で更に大きくなったが、リルはそれに気付いていないかの様に振る舞う。
原因の一つは成獣しているのに、相変わらずリルにべったりで、甘えたがりなせいかもしれない。
ナナもお姉さん風を吹かせていて、ここ最近は魔力指導に熱が入っている。
互いのマナ同調は高い水準を獲得していて、既に一端の精霊魔法使いだ。
しかし、こうして春を迎え、浮き立つ心を湧き立てる姿は、全くもって年相応でしかなかった。
私はその無邪気な光景を見て、小さく笑みを浮かべながら眼を細めた。
※※※
春が訪れると、森には妖精達が再び現れる。
暖かな陽気に誘われて、畑に出来た揺らぎから姿を現し始めるのだ。
リルはその光景を、今や遅しと待ちわびていた。
別れと再会は既に毎年の事とはいえ、リルは毎晩、夜空に向かって「おやすみなさい」と語りかけるのが、日課になっている。
妖精と精霊に再会し、森へ迎える事は、いつしか当然というより、喜ぶべきものとして捉えられていた。
彼らに敬意を向けるのは正しく、またその意識を持ってくれたことが嬉しい。
妖精を悪童扱いは変わらないが、それは妖精達も分かってやっているので、お互い様という感じだった。
そうして今日の朝、朝霧の晴れた畑の前で、リルは眠そうな目を擦りながら囁いた。
「お母さん、来たよ……!」
言われて私も目を凝らすと、陽の光の元、空間に揺らぎが生まれた。
そこからは、白い光の粒が漏れ出している。
ひとつ、ふたつと数を増し、やがて小さな輪を描くように形作ると、遂に光が溢れて妖精達が飛び出して来た。
「久々の森だぁ~っ!」
「いつ来ても、このマナ濃度は良いねぇ。心地好いよ、森は!」
「やっほ~、リル! ただいま!」
「元気にしてたかぁ~?」
「また、寂しがってたんじゃないのぉ?」
「見りゃ分かるよな、当然だろ……なぁ! それより、また背ぇ伸びたか?」
口々に言いながらリルの周囲に群がるのも、もはや風物詩となってしまった。
気安い態度の妖精達に、リルもまた気安く接しながら満面の笑みを浮かべる。
「元気にしてたし、寂しがってたりしないよ! いつも通り!」
「本当かぁ~?」
この、この、と肘で
何だかんだと言いつつ、リルもこの再会を心の底から喜んでいる。
私はその様子を眺めながら、娘の肩に手を置いた。
妖精の一人が言ったように、リルの背はまた伸びた。
成長期だから、服を幾ら新調しても、すぐ着られなくなってしまう。
悩ましいのと同時に、我が子の成長は心から喜ばしい。
そして何も、伸びたのは背だけではなかった。
髪も伸びて腰に届く程になり、私を真似てもっと伸ばしたいと言っている。
それが面はゆくもあり、嬉しくもあった。
いずれにしても――。
妖精たちは、また戻ってきた。冬を越え、再び春を告げるために。
森の日常が、再び活気を取り戻そうとしていた。
※※※
春は食糧を備える季節でもある。
雪解け水で湿った大地に、去年保存しておいた種を植え、畑を耕す。
ただし、馬鹿正直に鍬で耕したりはしない。
私はいつも通り魔力を操り、リルはナナと協力して、風の力で耕していく。
風埃が舞いそうなものだが、二人にとっては慣れたもので、浮かせた砂さえ巻き取って、次々と畑を耕していった。
「こらぁ~、リル~!」
「飛ぶ! 飛ばされるって!」
「止めて、止めて~!」
……時々、妖精達を巻き込むのはご愛嬌だろう。
リルは幼い頃、為す術もなかったことを引き合いに出して、時折こうしたイタズラをするのだ。
妖精は外傷によって死ぬ事はないし、リルも傷付けようとはしていないので、じゃれ合い以上の事にはならない――そういう安心感もある。
そうして、腕の一振りで妖精達を解放してやりながら、リルは土の香りに顔をほころばせていた。
「土があったかいね。今年も良い実りになりそう!」
「おや、リルにも分かってきたね。でも、期待するだけじゃ駄目だぞ」
「分かってるよ! ちゃあんと、畑の面倒を見るんでしょ? 妖精に任せきりじゃなくて」
「そうとも」
草摘みも欠かせない仕事だ。
まだ柔らかな新芽は、食用になるし、薬草になる物もある。
リルも目を凝らして注意する事で、その種類を見分けられるようになってきた。
「これは食べられる? こっちは苦い匂いがする」
「よく気づいたね。苦いものは薬になることが多いよ」
小さな学びを積み重ねながら、リルは確実に世界を自分のものにしていく。
その姿を見守る時、私は母としての幸福を深く味わう。
今日も私とリルには顔に笑顔が咲いていた。
春の夜は、まだ少し肌寒い。
しかし、暖炉にいる、火の代わりである小精霊を囲んでいると、心まで温まるかのようだった。
ある晩、リルは布団に入る前に、ふと私に尋ねた。
「お母さん、春ってどうして来るの?」
私は少し思考に没頭し、どう答えべきか悩んだ。
「冬があるから……かな。大地が眠り、木々が力をためて、そして目を覚ます。眠る時間があるから、芽吹く力が生まれる」
リルは目を瞬かせ、やがて笑った。
「じゃあ、わたしも寝たら、もっと元気になる?」
「そうだね。リルの成長も、春みたいなものかも」
私はリルの頬を撫で、その寝顔を見守った。
――春は確かに訪れ、そして私たち親子に新しい季節を約束していた。
※※※
三年という歳月は、まるで瞬きの様だった。
こうした月日の経過や、『時間の速さ』について驚くことも、多くなったように思う。
リルの背は伸び、声は少し低くなり、言葉には思慮が増してきた。
時折、私を驚かすような言葉を紡ぐ。
けれど、その瞳に宿る輝きは幼いころと同じ……いや、それ以上に強くなっていた。
小さかった手は一回り大きくなり、木剣を握る姿も随分サマになった。
――森の春は短い。
しかし、その一日一日は宝石のように尊くもある。
芽吹き、歌い、笑い、学び、働き、眠る。
その連なりの中で、リルは成長を重ねていく。
けれど同時に、心の奥底に寂しさもあった。
子の成長は、母の手を少しずつ離れていく事を意味する。
私はただ願う。
――この子の心に、今日の春が永く残りますように。
どれほど歳月を重ねても、春の喜びを忘れずに生きていけますように――。
窓の外は、満天の星だった。
森を照らすその光の中で、私は小さな寝息を立てるリルを見守りながら、静かに春の訪れを受け止めていた。