春の森は芽吹きに満ちていた。
まだ淡い緑の葉が枝々に光を宿し、土の匂いは柔らかく湿り、鳥たちは一斉に歌い始める。
リルは庭の端にしゃがみ込み、小さな手で花を摘んでいた。
幼い肩に光が落ち、揺れる髪に朝露の輝きが映る。
私はその姿を眺めながら、ふと脇腹に手を添えた。
布越しに触れる肌の下で、黒い紋様が確かに広がっているのを感じる。
最初は点のような染みだった。
三年前、あの戦場で受けた一撃の証……。
すぐに異変を感じ、これに対処する方法を模索し始めた。
だが、痕跡は消えず、やがて細い線を描いて皮膚の下を伸びていった。
三度の冬を越した今、その線は互いに絡まり、紋様となって広がりつつある。
痛みはない。ただ、冷たかった。
そこに触れると血の凍るような感覚が広がり、心臓の鼓動さえ重たくなる。
進行を止めるために、この三年でできることはすべて試した。
古代の魔術書を読み漁り、薬草を煎じ、効果のありそうな方法は全て試した。
だが、そのどれも呪いを根絶させるには至らなかった。
そして、この頃にはもう、これがエルフの
彼らの持つ魔術思想と、この呪いは余りに違いすぎる。
むしろこれは、魔界に住む悪魔の術法に近い。
だが、それだとエルフが悪魔の力を頼った事になる。
それだけはあり得ない話だ、と思った。
エルフは理知と理性の生き物だ。
その支配思想も邪なる野望ではなく、そうすることが最善だという、確固たる信念から来ている。
自由意志に任せ、好きなようにさせることは、略奪や暴力、貧困と治安悪化の一途を辿ると思っているのだ。
ならば、完全なる理知と理性によって、完全なる支配と共に恒久的な平和を与えようと考えた。
その結果が、支配階級と奴隷制という構造だった。
自らが上に立ち、絶対的な支配構造――。
あらゆる者の上に立ち、睥睨し、管理の下に生を許すだけの生き方を強要する。
それを健全とは思えなかった『混沌の魔女』は彼らと決別、敵対する事になった。
つらつらと思考に没頭していると、リルから声が掛かる。
「お母さん!」
はっと顔を上げると、丁度リルが、アロガとナナを伴って駆けてくる所だった。
今日は鍛練のある日だ。
いつの間にやら木剣を取って来ていたリルは、いつもの様に構えを取った。
「今日こそね! お母さんから、一本とるんだ!」
「さぁて、リルに出来るかな? 工夫がないと、お母さんからは取れないぞ」
「うん! だから考えたの! フェイントを入れて、ガツンと行くんだよ!」
それを口にしては、フェイントの意味もないと思うが、考えて実践しようとするのは良いことだ。
相当自信があるらしく、その顔には不敵な笑みが浮かんでいる。
そうはいっても、リルが浮かべる笑みだから、悪意らしきものも見えず、ただ可愛らしいばかりだ。
その笑顔を見ていると、胸の奥に広がる冷気がほんの少し和らぐように思える。
私もまた木剣を手にし、剣先をリルへ向けた。
「さぁ、始めよう。好きな所に打ってきなさい」
「うん、びっくりしないでね!」
※※※
結局、リルのフェイント攻撃は全て空振りに終わった。
リルの性根は素直すぎ、どこを狙っているのかが、その視線から分かってしまう。
その全てが防がれたことで、リルはひどく気落ちしていたが、なぜ破られたのかはまだ分かっていない。
それは自分で気付くべき事だ。
それまでは、ヒントめいた行動だけで対応する。
いつになったら気付くのか、それは、リルの力量次第だが……勘の良いリルの事だ。
そう遠からず気付けるだろう。
「さぁ、今日の鍛練はおしまいだ。後は昼まで勉強だな」
「もう書き取りはいいよぉ~……。ちゃんと書けるもん」
「書けるだけでは足りないんだよ。綺麗に書ける事は、綺麗に剣を振れるくらい、大事なことなんだ」
「んぅ~……、そうなの? ミーナちゃんとかモンティは、そこまで綺麗じゃないよ? モンティなんて、ホントにもぉ~、ヒドいんだから!」
「こういうのはね、他人がどうこうは関係ないんだよ。将来きっと、リルの役に立つ。お母さんを信じなさい」
「んぅ~……、分かった!」
少し悩みはしたものの、最終的には頷いて、駆け足で家に戻っていく。
アロガと肩を並べて――文字通り、アロガの肩高はリルと一緒だ――その背中が消えるまで、私は目を細めて見送った。
そして再び、そっと脇腹に触れる。
――三年前の、あの戦い。
脳裏に、空を裂いた炎と氷、そして雷の光景が蘇る。
大地を砕き、森をえぐり、多大な衝撃が空を震わせた。
あの時、命を削る覚悟で振るった一撃があった。
敵の放ったあの一撃を受け止めた瞬間、この呪いが肌に焼きついた。
それから三年……。
リルと暮らす日々の中で、私は幾度となく大丈夫、と思おうとした。
だが、布越しに広がる紋様を見るたび、希望はひとつずつ削られていった。
――それでも、私は生きる。リルのために。
心の奥で、私はそう繰り返す。
呪いがいつか命を奪うとしても、せめて娘が強く生きられるよう、今を守らねばならない。
「……いつまでも考えていると、気持ちが後ろ向きになる。さて、私も……」
家に戻ると、リルがテーブルの上で、勉強道具一式を取り出している所だった。
口では嫌がる素振りを見せつつ、一生懸命に向き合おうとする姿に、私は胸が温かくなる。
「大丈夫、ちゃあんとやるよ」
「うん、そこは疑ってないよ。リルは本当に真面目な子だから」
「んひひっ……」
リルは照れ笑いをしながら椅子に座り直し、背筋を伸ばして書き取りに向き直った。
私はその間に鍋の蓋を開け、煮込みの香りを確かめる。
シルケが作ってくれていた、今日の昼食だ。
春の野菜の甘い匂いが立ち上り、部屋を満たす。
未完成なのは見て分かり、手伝おうかと思っていると、横合いから手の甲を叩かれた。
そうはいっても、シルケが触れられるのは家事全般に関することだけたから、実際には叩く振りなのだが、その目は咎めるような視線をしていた。
「おいおい、違うって。味見しようしたんじゃなくて、何か手伝おうと……」
しかし、そういった弁明も、シルケの前では無意味だった。
幼い子どもを叱るように、両手を腰に当てて睨み付けてくる。
「分かった、分かった……。食事の用意は任せるよ。私は大人しくしているさ」
そう言うとようやく納得して、鼻歌でも歌いそうな機嫌の良さで、料理を再開していった。
日常は穏やかで、何もかもが温かい。
だが、その裏で確かに死へと近づく影が広がっている。
夜、リルが布団に潜り込むと、私は隣に腰を下ろした。
「お母さん、今日ね、妖精が木の枝の上でお昼寝してた。風を吹かせて落としたら、すごい驚いてた」
「おやまぁ……。あまり悪戯するのは感心しないな。リルだって、そんなことされたら嫌だろう?」
「うん、それは……嫌だけど……。でも、妖精だって、リルに――じゃない、わたしにイタズラするんだもん」
リルは最近、一人称を変えた。
いつまでも自分の名前呼びだと、子供っぽいと言われたらしい。
その辺のデリカシーのなさからして、きっとモンティからの言だろう。
ともかく、それで『あたし』か『わたし』で迷った結果、今の一人称に落ち着いた。
母である私と一緒の言い方が良い、と言うことらしい。
「別に無理して、一人称を変える必要はないんだぞ。私を真似ることもない。自分らしく、リルらしくで良い」
「でもね、わたし、お母さんみたいになりたい。強くて、カッコよくて、優しくて……」
「なれるとも。もう半分はなっているよ。だから、後の半分は自分らしく、を考えたらいい」
「んぅ……、そうじゃなくて……。もっと……上手く言えないけど……」
「お母さんに憧れてくれるのは、とても嬉しいよ。でもそれで、自分を押し殺す必要はないって事さ。心の中で、これだけは譲れない、こうありたいってものを一つだけ作ってみなさい。それがリルの支柱になる。そしてそれが……、きっと、リルの希望に沿うものになるよ」
「うん、ムズかしいけど、その一つを探してみる」
「リルならすぐに見つけられる」
リルの声は夢に落ちるようにだんだん小さくなり、やがて寝息へと変わる。
私はその顔を見つめながら、胸の奥に忍び寄る冷気を噛み締めた。
――もし、私が倒れる日が来たら、リルはどうなるのだろう。
その恐怖を振り払うように、私はリルの髪をそっと撫でた。
小さな体の温もりが掌に伝わり、呪いに蝕まれた自分の内側まで温めてくれるようだった。
「大丈夫……私はまだ、大丈夫」
それは誰に聞かせるでもなく、夜の静けさに溶けていった。