竜の長老ヴェサールから、『悪魔由来の契り』であると確信を得られた今、今度はその悪魔の名を知るため、別の竜――ウインガートを尋ねなければならない。
一つの切っ掛けから、次々と次の手段が見えてきて、目の前が拡がるような感覚があった。
ウインガートはヴェサールほど古き存在ではないが、人と竜の境を跨ぎ、長らく人の世を見守っていた変わり者でもあった。
卵を産んで、その後のトラブルもあったから、今もきっと警戒心は強いだろう。
人の足で近付くより、竜の翼で来訪した方が、心情的に受け入れやすい、という思惑もあって、籠での移動を頼んだ。
家に帰ったのは出発から数時間後の事で、リルは未だに裏庭でアロガとナナの双方と戯れていた。
出発の時との違いは、チャンバラを止めて、代わりに妖精も加わり、一緒に走り回っていた事だろう。
リルはこちらに気付くと、急速に方向転換して突っ込んで来た。
無意識なのか、そうでないのか……。
風を纏った突進は瞬く間に距離を詰め、私の腹部に突き刺さった。
「――よっと!」
だが――その寸前、後方に飛び退きながら勢いを上空へと逸らし、リルを勢い良く打ち上げる。
「きゃ~っ、あはははっ!」
高速で射出されても、リルにはあくまでも楽しいだけの様だ。
常人ならば気絶している速度なのに、ただ無邪気に喜んでいる。
そうして、長い滞空時間を経て……、リルは私の腕の中に収まった。
ズシリと過重が掛かり、魔力で慌てて補助したせいで、脇腹が軽く痛んだ。
息を呑みつつ、痛みのことなどおくびにも出さず、私はリルの乱れた前髪を整えてやる。
「お前って子は、どうしてやっちゃ駄目って何度言っても、分かってくれないんだろうね」
「だって、お母さんなら平気だも~ん!」
「それはまぁ、そうだけどね。……もしかしてだけど……学校の友達に、やってたり?」
「しないよ、お母さんだけ!」
「だったら良いけど……。いや、良くもないか」
それにしても、と整え終わった髪を撫で、腕に収まるリルを見て思う。
そろそろ片手で支えるのも、難しい年頃になってきた。
我が子の成長は素直に嬉しい。
ただし、体格だけでなく、その分だけ筋力、体力もついてきて、手に余る様になって来たのは悩ましい所だ。
「まだまだ、私の可愛いリルでいておくれ」
「えぇ~っ!? わたし、早く大人になりたいっ! 大っきいと、剣の勝負でも有利だもん」
「そうだね……。そしていずれ、誰もが大人になる。ただ寝ていても、大人にはなってしまうんだよ。子どもでいられる時間は、実はとても短いものだ。リルはいつまで、子どもでいたい?」
「んぅ~……。わかんない!」
あっけらかんと笑って、リルは中空に浮いて出たナナと手を叩く。
特に意味のある行動ではなく、二人の間ではよくやる手遊びだった。
「そうだ、リル。ウインガートの所に行くけれど、一緒に行くかい?」
「――いいの!?」
リルは腕の中で腕を振り回し、喜びを全体で表現した。
流石に片手で支えきれなくなり、両手でしっかりと掴む。
「ただし、リルが怖い思いをしても良いなら、だけどね」
「子どもじゃないんだから、もう怖がらないよ!」
「リルはまだ十分、子どもだよ」
リルの額に頬を当てて、しっかりと抱き締めた。
しかし、そんな私の態度が気に入らないのか、リルはむっつりとして頬を膨らませる。
「怖がらないのにっ!」
「別に恥ずかしい事じゃないよ。リルよりずっと大人の人でも、竜を前にしたら驚怖で竦むものだ」
そう言っても、リルは全く納得しようとしない。
変わらず頬を膨らませるままで、そっぽを向いてしまった。
そこへナナが、リルの顔の向きとは反対に回り、私へと尋ねてくる。
「それで? いつ行くの?」
「今から!?」
バッと顔を元に戻して言うリルに、私は苦笑しながら答えた。
「そんな早くには出掛けられないよ。色々と準備がいるからね。ウインガートの所は今もって雪が積もっているだろうから、対応した格好もしないといけないし……何より、空の旅だから、卵籠が必要だ」
「雪山かぁ~……。せっかく春になったのに、また雪?」
「仕方ないのさ。まさか、呼び付ける訳にもいかないからね」
たとえ良き間柄であったとしても、ここに呼び付けるのは無礼になってしまう。
何しろ今回は、こちらが願いを口にする立場だ。
自ら足を運ぶのが筋だろう。
「フンダウグルが来てくれたら、その日の内に出発だ。普段何処にいるのか、何をしてるのかも知らないから、どれくらいになるか分からないけどね」
「ん~ぅと……。あっ、お母さんにビタンビタンって、されてた竜だ!」
「そうだけど、そんな風に覚えられているとは……。フンダウグルも不憫な……」
思い出す度にトラウマを掘り起こされるより、余程マシな覚え方だが、これでは竜の威厳など全くない。
「今は待とう。その内、竜の咆哮が聞こえるよ。それまでは、楽しみと心の準備をしておきなさい」
※※※
それから、三日の時間が経った。
朝食が済んで食休めを取っている時に、空に轟く咆哮が家の中にも聞こえて来た。
リルは頭の耳を、ビクリと動かし身構える。
その直後、私の表情を見て、何の緊張感も持っていないのを感じるや否や、身体から力を抜いた。
「お母さん、今のって……」
「うん、来たようだね。準備したものは、ちゃんとすぐ持ち出せる様にしてるだろうね?」
「うん、ベッドのすぐ横!」
「取っておいで」
「うんっ!」
弾かれるように走り出し、リルは二階への階段を駆け上がる。
それを見送りつつ、私は暖炉前に寝転がるアロガを見やった。
「悪いが、今回もお前は留守番だぞ」
「……フシッ!」
まるで分かっている、と言わんばかりに、鼻から息を吐き出した。
その姿は拗ねているようでもあり、諦めの境地に至っているようでもある。
実際、可哀想な事に、大抵の場合は置いていくしかなかった。
今のアロガは更に大きな体格になってしまったし、何処へ連れて行くにも目立ってしまう。
今回の籠移動にしろ、かつてはギリギリ入れたアロガだが、今ではどうあっても不可能だ。
甘んじて、我慢して貰うしかなかった。
「お母さん、準備できた!」
その時、リルが防寒具を着込んで、上機嫌に下りてきた。
残り三段を残してジャンプして、軽やかに着地する。
「こらこら、危ないから止めなさい」
「危なくないよ」
「獣人は身軽で丈夫なものだけど、見ているお母さんがヒヤッとするからね。リルが心配なんだよ」
「んぅ……、平気なのに……」
子どもは時に、無邪気に危険なことをするもので、しかもその危険には無頓着だ。
些細なことでも心配するのが親で、そして、その気持ちが子どもには伝わらないものではあった。
「とにかく、お母さんを心配させないでおくれ。いいね?」
「はぁ~い」
気のない返事を返す辺り、きっとまたやるな、と思いつつリルを外へ促す。
リルはアロガの頭を撫でて、行ってきます、の挨拶をしてから飛び出した。
アロガは最後まで心配そうに付いて回り、時に行かせまいとしたぐらいだが、リルはそんなアロガの心配など全く気付かず行ってしまう。
それを不憫に思いつつ、私はシルケに顔を向けて、玄関から出ようとした。
「もしかすると、ちょっと厄介な事になるかもしれない。しばらく帰れずにいても、心配しないでくれ」
シルケは心配そうにしながらも、最終的には頷いて送り出してくれた。
私はそれに手を振って、今や遅しと待ち構えるリルを追った。