森の外れ、古き巨木の根元に辿り着くと、そこに待っていたのは、銀灰色の翼を広げた巨竜フンダウグルだった。
その瞳には苛烈な怒りが滲んでいて、この場に来たのは不本意だと、如実に告げている。
そんな姿を見せられたら、勢い込んでいたリルの気勢もたちまち削がれ、尻尾を股の間に挟んで私の後ろに隠れてしまった。
『お前、俺を待ち馬車か何かと勘違いしてねぇか?』
「だが、来てくれた」
『来たくて来たんじゃねぇ。……だがよ、今回は少しばかり厄介な話らしいじゃねぇか。ヴェサールは、お前を損ないたくないから、どうしてもと頼んできた』
「あぁ、感謝するよ」
私が素直に礼を言うと、フンダウグルは喉の奥を鳴らし、不気味なものを見た反応をする。
『馬鹿に素直だな、逆におっかねぇ。……お、いつだかの娘か。相変わらず小せぇなぁ』
低い声がリルに向き、空気を震わせる。
それに驚く素振りを見せ、私の背に隠れながらも、恐る恐る顔を出して見上げた。
「あなたは……、相変わらず、おっきいね……」
その小さな呟きに、フンダウグルの口角がわずかに上がった。
『お、今度は怖がらずに声を出せたな。魔女の娘だけあって、なかなか良い胆力してるじゃねぇか』
「う、うん……! こわくなんかないもん……!」
そう言うリルの身体は震えていたが、見つめる視線はどこまでも真っ直ぐなものだ。
それに気を良くしたかは不明だが、フンダウグルは鼻息を掃き出して顎を上げる。
『まぁ、さっさと行こうぜ。世間話がしたくて呼んだんじゃないんだろう?』
私は頷くと、卵型の籠が置かれている場所へと案内する。
とはいえ、フンダウグルは歩いて移動する訳ではないので、到着と同時に籠の取っ手に降りてきた。
「さぁ、リルは先に中へ。……フンダウグル、後は任せて構わないか?」
『まぁ、一度は運んでやった訳だしな。前回でコツは掴んだし、少しは快適に運んでやるよ』
「おや、随分サービスが良いんだな」
『不機嫌にして、またぞろ、変な姿に変えられたくねぇだけだ』
そんな事を言い合いしている間に、リルは逃げる様に中へと入った。
私も少し間を置いて後に続き、蓋を閉じると席に座った。
次の瞬間、巨体が颶風を巻き上げ飛び上がる。
――ごう、と空気が裂け、翼が大きく羽ばたく度に、森が凄い勢いで遠ざかっていく。
「わあ……!」
それを窓から見ていた、リルの声が弾んだ。
地上の木々が縮み、川は銀の糸となり、やがて雲が足元に広がった。
風が横合いから殴り付けて来る時、籠は時折大きく揺れたが、フンダウグルの飛翔は力強く安定していた。
「お母さん、いま雲の上! 雲の上にいるよ!」
「あぁ、そんなに身を乗り出さなくとも……」
リルは両手と額を壁面にベッタリと付け、興奮も冷めやらぬ状態で見つめていた。
そこにいつの間にやらナナまで出て来て、彼女まで物珍しい様に見つめている。
どうやら風の精霊といえど、こうした光景は余り目にするものではないらしい。
「ナナでも、こういう光景を物珍しく感じたりするんだな」
「そりゃあ……、こんな上空まで、飛び上がる機会なんてないもの」
「そういうものか? 好きに飛べるんだから、興味があれば行こうとするものだと思ってた」
「高い所から見下ろすのは、確かに気分が良いものだけど、それにも限度があるわよ。上がるのだけでも大変なのに、満足したら今度は下りなきゃいけないんだから……」
「それはそうだな……」
ヒト族に置き換えると、登山みたいなものだろうか。
素晴らしい景色を見るためには、相応の努力と苦労が要る。
そして、その労力を惜しいと思わない者だけが、その特権を享受出来るのだ。
しかし、職業が山師であるなど、その土地に根差しでもしていない限り、そんな事をするのは酔狂の部類だ。
フンダウグルはこの高さで飛ぶのがごく普通なのだろうが、ナナが挑むには無意味に等しい。
そう思えば、確かにこうした光景は、ナナにとっても物珍しいものになるのだろう。
自分の中で納得感を得ていると、やがて風は冷たさを増し、室内にもそれは浸透して来た。
ナナがそれに気付いて風の膜を作り、冷気を遮断する。
「ありがと、ナナ」
「どういたしまして」
森の外では、少しの事でさえ魔力を使えなかったナナだが、今では息をする様に使用する。
それもこれも、この三年で二人の魔力がより深く、より強く同調したからだった。
外の世界はどうしてもマナが希薄だから、調子に乗って森と同じ感覚で使うと、すぐ息切れしてしまう。
注意しようかと思ったが、肌感覚で掴むこともある。
二人ならばそれに気付けるだろう。
私は信頼を込めて敢えて沈黙を選び、外に視線を移した。
遠くに白い峰々が姿を現し、山頂は雲を突き抜け、凍りついた稜線が陽光に輝いている。
間違いない。
かつて一度きた、あのウインガートが棲まう雪山だった。
『間もなく着く。しっかり掴まってろ、流石に揺れるぞ』
上から低い声の忠告が聞こえると同時、翼が角度を変え、籠は斜めに滑り降りる。
やがて轟音と共に雪を巻き上げ、籠は山頂の平らな岩場へと降り立った。
蓋を開けてタラップを下ろし、私とリルは外へ出る。
眼下には雲海が広がり、世界の全てを見下ろすような景観がそこにあった。
「すご~い……! まるで王様にでもなった気分!」
リルは頬を赤らめ、両手を広げながら感動を全身で表現していた。
ナナに背後から抱き留められているので、突然、横から強風に殴られても平気そうだ。
私は冷たい風を受けながら、深く息を吸った。
春になっても尚、山頂の空気は冷たく、肺に取り込むと、まるで刺すような痛みすら感じる。
今はまだ余裕があって、リルもはしゃいでいるが、すぐに息切れしそうでもあった。
私はリルに近付くと、しっかり帽子を被せてやる。
耳用の穴も開いていて、リルにピッタリ合わせた、快適性を両立させたものだ。
「楽しいのは分かるけど、山は危険な所だ。寒さも甘く見てはいけないよ。ナナが空気の膜を作ってくれるといっても、冷気は足元から這い上がってくる。油断してはいけない」
「はぁ~い!」
雄大な自然と、それを一望できる光景は、誰しもに興奮を呼び起こすものだ。
すっかり気分が上がっているリルだったが、卵籠の上に立つ竜の巨影が、ゆっくりと振り返ったことで、再び萎縮した。
『さて、俺はここまでだ。ウインガートの居場所は知ってるんだろう? あとは勝手に行って、相談でも何でも好きにやってくれ』
私は頷き、凍える空気の中で静かに口を開いた。
「帰りについても、期待して良いのか?」
『置き去りにしたなんて、ヴェサールに知られたら煩いだろうからな。待っててやるよ。長く掛かるってんなら、少し離れてるが……』
「いや、そうは掛からない。長く待たせたりはしないだろう」
『そうかよ。じゃあ、手早く頼む。本来、呼ばれてもいないのに他の竜が居座るのは、良い事とはされないんだからな』
「よく知ってるよ」
竜には竜のルールがある。
それは人の世と同様、安易に破ることを許さない不文律だった。
ただし、今回は私を運ぶという、明確な依頼を受けてのものなので、長く居座ろうとも咎められる事はないだろう。
「さぁ、リル。行こうか」
後ろに隠れていたリルの手を握り、目的地へと歩き出す。
本日は快晴だが、風は緩やかでも途切れることなく吹き付けていた。
こうした高所では、ただ立っているだけでも体力を消耗するので、早く洞窟内に入りたい。
風の膜を形成していても、ここは氷点下の世界なのだ。
どうしても足は雪と接地するし、そこから冷気は伝わる。
前に来た時とは着地点が違うし、だから同じ山でも違う顔を見せていて、好奇心旺盛なリルにとっては、どこまでいっても興味が尽きないだろう。
白い息を吐いては、周囲を興味深く見回すリルは愛らしいが、勝手に走り出さない様に、しっかりと手を握り直して更に歩を進めた。
以前来た時とは違い、リルの歩みは確かで、普段から鍛えている成果がここでも垣間見えている。
「……あっ、ここ! ここ、知ってる!」
しばらく歩いて、開けた場所に出た時、リルが前方を指差して言った。
そこには剣山の様に突き出た岩が、幾つもそびえ立っており、この特徴的な光景はリルでなくとも印象に残るものだった。
握った手を振ってアピールするリルに、私は笑って応えた。
「あぁ、この山ならではの光景だね」
「でも、どうして? 下から生えてくるの?」
「いいや、鱗を磨くとか、そういう事をしたせいさ。元々は、もっと大きな岩があったんだろうね。でも、長い年月の間に削られ続けて、あぁして歪な形になっていったんだ」
「そうなんだ……。どの位かかるのかなぁ……?」
「さぁて……?」
何しろ剣山の数は本当に多くて、視界をいっぱいに広がる程の規模だ。
実際に掛かった年月は、私からしても見当が付かない。
「数百年……、もしかしたら、もっとかもね」
「ふぇへ~……」
溜め息とも、感嘆ともつかない息を吐き、リルは剣山の群れを眺めた。
私はその手を引いて、更に奥へと進む。
剣山の群れを抜け、岩山の間に出来た道を進み、更に奥へ。
そうして、ようやく見つけた横穴を見つけた時、私は安堵の息を吐いた。