混沌の魔女と獣人の子   作:鉄鎖亡者

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異形からの救出 その1

 竜の使う念話で、話は既に伝わっていたらしい。

 フンダウグルは非常に不満げではあったものの、文句を言うことなく籠に乗るよう促してくれた。

 

 私とリルがそれに従い乗り込むと、再び翼を広げて、雪の峰を後にする。

 巨大な影が白銀の大地に伸び、雪面を揺らした。

 

 この籠はミスリル銀を編み込んだ特製のもので、魔力の通りが非常に良い。

 だから外気を防ぐ風の膜を、労せずして張ることも出来た。

 

 そして実際に腰を下ろせば、冷気は和らぎ、お互いの鼓動すら伝わってくるような温もりがあった。

 

「お母さん、また空の旅だね!」

 

 リルは座り込むや否や、胸を高鳴らせて声を弾ませた。

 まだ頬に、幼竜の吐息の温かさを残したまま、その小さな手を窓枠にかける。

 

「ほら、雪がきらきらしてる!」

 

 私は娘の隣に腰を下ろし、外套を直しながらその笑顔を見つめた。

 ――この子の笑みを守るために、私は今ここにいる。

 

 だが同時に、脇腹にじわりと広がる紋様が、冷たい鉄のように意識を締めつけていて、私の気力を削ごうとする。

 

 僅かに眉を顰めたその時、フンダウグルが低く鳴き声を発した。

 空気が震え、籠全体がわずかに浮き上がる。

 

 大きな翼が一度、音を立ててはためき、雪を巻き上げた。

 次の瞬間、重力がふっと消える。

 

 私とリルは、宙に投げ出されたかのような感覚に包まれた。

 

「わぁっ……!」

 

 既に何度か経験済みな事なのに、リルは声を上げ、私の腕にしがみつく。

 しかし、その恐怖は驚きに変わり、驚きは歓喜へと変わるのに、そう時間は掛からなかった。

 

「見て! 山がちっちゃくなってく!」

 

 窓の外、白銀の峰々が急速に遠ざかり、眼下に雲海が広がっていく。

 籠の外膜が光を屈折させ、虹色の淡い筋が流れるように走る。

 

 その美しさにリルは目を輝かせ、頬を窓に押しつけていた。

 私はその横顔を見守りながら、ふと胸の奥に去来する不安を抑え込む。

 

 ――この旅の先には、異形と化した契約者が待つ。

 人ではない、人に戻れぬ存在――。

 

 希望と呼ぶにはあまりに遠い可能性に、私は賭けねばならないのだ。

 

「お母さん、あれ、湖?」

 

 リルの声に現実へ引き戻された。

 指さす先には、氷を割って顔を出した蒼い湖が見える。

 

 雲を抜けて差し込む光を映し、鏡のようにきらめく姿は美しい。

 

「きっとそうだね。雪解けの水が溜まって、春を待っているんだ」

 

「すごい……竜の目みたいに光ってる!」

 

 リルの比喩に、私は思わず笑ってしまった。

 

「あぁ、ウインガートの瞳も、確かにあんな色だった」

 

 籠の天井越しに、竜の巨大な翼が規則正しく動いているのが伝わる。

 時折、翼の縁が陽を受けて輝き、その影が籠の内部を柔らかに揺らした。

 

 リルは飽きることなく、外の景色に夢中になっている。

 谷間に隠れる小村、流れる雲、雪をかぶった黒い森――。

 

 それら一つ一つを見つける度に、歓声を上げては、私の袖を引いた。

 

 だが私は、笑顔を返しつつも、頭の奥では別の思考が渦巻くのを止められなかった。

 ――悪魔の奸計に囚われ、異形と化した契約者。

 

 もし出会ったとして、それが人の心を取り戻す瞬間があるのだろうか。

 真名を口にすることなど、本当にあるのだろうか。

 

 答えはどこにもなく、ただ行って確かめるしかなかった。

 そう考えていると、籠の中でリルが小さくあくびをした。

 

「……ちょっと。眠くなっちゃった」

 

 私は外套を広げて肩に掛けてやり、そっと抱き寄せた。

 籠の揺れが子守歌のように眠気を誘い、リルはすぐにまぶたを閉じる。

 

 外では風が唸り、翼が空を切り裂く音が響いていた。

 だが、籠の中は不思議な静けさに包まれ、私の心臓の鼓動と、リルの安らかな寝息だけが確かな音として残る。

 

 私は目を閉じ、ほんのわずかでも安らぎを得ようとした。

 ――たとえこの旅が、絶望の淵へと至るものであったとしても……。

 

 この瞬間だけは、娘の温もりを抱きしめていたかった。

 

 

  ※※※

 

 

 やがて、雲の切れ間から目的地の森が見えてきた。

 黒々とした森を背に、拓かれた土地があり、小さいながらも平和そうな村がある。

 

 そして、その森の何処かに、悪魔に囚われし契約者がいる。

 私は気持ちを切り替え、これから歩く旅路について考え始めた。

 

 

  ※※※

 

 

 フンダウグルの影が森の上に伸び、やがて籠はゆっくりと降下していく。

 そうして降り立ったのは、針葉樹の森の中に、ぽっかりと広がった開け地だ。

 

 冬の名残を残した雪が、まだところどころに積もり、中央には冷たく澄んだ小川が流れていた。

 

『ここなら異形の気配も届かねぇだろう。奴の居場所――と言っても、動いてるからどうとでも変わるだろうが……ともかく、歩いて一日程だ。森を抜ければ、その影が見えて来たりするかもな』

 

 フンダウグルはそう告げると、その大きな瞳を細めた。

 

『お前たちを間近に運ぶのは危ういと、ウインガートからも言われてる。お前もそれで良いんだろう?』

 

「あぁ、十分だ」

 

『あぁいう奴は理性を失ってはいても、本能は敏いと聞くぜ。竜の気配を嗅ぎ取れば暴れ出したりするかもしれねぇしな。それで人里でも襲われたら……。いや、まぁ、俺の知ったことではないか』

 

 私は彼らしい人間軽視の言葉に苦笑し、とりあえず、その配慮に感謝する。

 事実として、彼にとってはどうでも良い事だろう。

 

 ウインガートに何かしらの注意を受けていなければ、そのまま何の遠慮もなく、近場に降り立っていた可能性すらあった。

 

「ここから先は、私とリルで歩くとするよ。籠の方は……どうしようか」

 

 私が悩んでいる間にも、リルは籠から飛び降り、小川のきらめきに目を輝かせていた。

 

「お母さん、ここなら水もあるし、眠れるね!」

 

『……お前の子だけどよ、目に入れても痛くねぇってやつなんだろ? それなのに、危険と分かって連れて行く神経が分からねぇ。……まぁ、それこそ知ったことではないがな。お前なら、どうとでもするんだろう』

 

 フンダウグルの声は低く重かったが、責める様な色ではなかった。

 ただ不思議なことに、こちらを案じるような響きを帯びていて、心配する素振りさえあった。

 

「その言葉は、ありがたく受け取っておくよ。それで、籠の回収についてなんだが……」

 

『また明日の昼にでも来て、お前の家に持って帰れって? ふざけてんのか?』

 

「いや、しかし、そうして貰えないと、ここに放置していく事になるんだ……」

 

『だからって、何で俺がそうまでしてやらなきゃいけねぇ? お前は何でも出来るんだろ? そんぐらい、なんかこぅ……得意の魔法でどうにかしろよ』

 

「魔法じゃなくて、魔術だ。原理的、また使用法についても、大きく隔たりが……」

 

『あぁ……、いい。言わなくて、いい。どうせ聞いても分からん』

 

 フンダウグルは面倒そうに首を振り、話を聞かないどころか、卵駕籠の件も無視しようとした。

 しかし、私はそれを許さない。

 

「なぁ……、籠を持って帰ろうとすると、ひどく面倒なんだ。どうにか、お前に頼めないか?」

 

『そんな事、俺が知るか。ここまで運んでやっただけでも……』

 

「なぁ、フンダウグル……。あまり、ワガママ言うなよ」

 

 私が剣呑とした視線を送ると、彼はビクリ、と身体を震わせた。

 

「私がこうして、お願いしてるだろ?」

 

『むしろ、脅しだろ、お前の場合……。あぁ、クソ……! 言うこと聞かないと、何されるか分かったもんじゃねぇ……! 分かった、運んでおいてやるよ!』

 

「あぁ、助かる。感謝するよ」

 

 本心から礼を言ったのだが、これはフンダウグルに届かなかった。

 煩そうに目を細めて、その長い首を振る。

 

『いけ好かないが、仕方ねぇ……。お前の不興を買って、良い事なんか一つもねぇしな。しかし……』

 

 そう言って、遠くの方へと視線を移した。

 

『悪魔との契約……そして、異形化ねぇ……。馬鹿な真似した奴もいたもんだ。ま、せめて上手く処してやれよ』

 

 フンダウグルは最後にそう告げると、翼をはためかせ風を呼び、巨躯を空へと持ち上げる。

 雪と葉を舞い散らせながら、その影はあっという間に雲の彼方へと消えていった。

 

「もう少し、別れの挨拶ってものを勉強した方がいいな、アイツは……」

 

 後に残されたのは、私とリルだけだ。

 森の匂いが濃く漂い、鳥の鳴き声がかすかに響く。

 

 空はすでに傾き始めており、日が沈めばすぐに冷え込むだろう。

 

「それじゃあ、まずは野営の準備だ」

 

 私はリルに微笑みかけると、周囲を見渡し、最初に水を確保する事にした。

 小川は清らかで、透かした水面(みなも)からは魚影が見える。

 

 手を浸せば骨の芯まで凍える冷たさだったが、確かに飲める水だ。

 私は必要分を小瓶に詰め、焚き火で煮沸することにした。

 

「リル、枯れ枝を集めてきておくれ」

 

「うん!」

 

 リルは嬉々として駆け回り、小さな手に枝を抱えて戻ってきた。

 ときどき雪を踏み抜いてよろめいたが、それすら楽しそうに笑っている。

 

「見て! こんなにいっぱい集めたよ! ナナがね、見つける天才なの!」

 

「褒められてる気がしないわねぇ……」

 

 ナナはリルの後ろから抱き着く姿勢で宙に浮いており、その顔には微苦笑を浮かべていた。

 私もそれにも苦笑を返して、リルに顔を戻すと頭を撫でる。

 

「とにかく、ありがとう。これで今夜は暖かく過ごせるな」

 

 私は枯葉を上に重ねると、次に火打ち石を取り出した。

 そうしてそれを、リルの手に握らせる。

 

「これ、なぁに?」

 

「小さな火花を出す道具だよ。これで火を付けるんだ」

 

「どうして? いつもみたいに、パッと付けないの?」

 

「うん。こういうのはね、自分の手でやるから楽しいんだ。醍醐味と言うやつだ。リルがやってごらん?」

 

「出来るかなぁ?」

 

 まず私がやって見せて、火打ち石から火花が出るところを見せる。

 その後実践となるのだが、何度となく打ち付けても、枯れ葉に火は移らなかった。

 

「お母さん、これ、変! 壊れてる!」

 

「壊れてないよ。コツがあるし、それに火を付けるという行為は、凄く大変なことなんだ。もう少し、頑張ってごらん。もう一度、手本を見せるから」

 

「んぅ……、うん!」

 

 最終的には笑顔で応じ、私の手本を参考にまた何度も火打ち石を叩いた。

 リルがいよいよ焦れ始めた頃、落ち葉にポッと火が移る。

 

「あっ!?」

 

 声を発した所へ、ナナが風を送り込むと、火はゆっくりと拡大を見せ始める。

 

「やった、付いた! お母さん、ついたよ!」

 

 火はすぐに、ぱちぱちと小さな炎へと立ち上がり、やがて枝を飲み込みながら赤々と燃え広がる。

 炎の揺らぎにリルは目を輝かせ、両手を差し伸べて暖を取った。

 

「なんだか冒険してるみたいだね!」

 

 その言葉に胸が少し痛んだ。

 リルにとっては冒険であり、遊びであり、未知の旅のわくわくなのだろう。

 

 だが私にとっては、生死の分かれ目に挑む、戦いの前夜でしかなかった。

 

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