食料は持参してきた干し肉と、乾燥させた果実という、実に質素なものだった。
だが少しでも蓄えを温存するため、川に落ち葉を流して魚を追い込み、リルに木の枝で水面を叩かせた。
偶然の幸運か、一匹の小さな魚が浅瀬に追い込まれ、私は素早く石で押さえ込む。
「すごい! 本当に捕まえちゃった! こんな方法あるんだ!」
リルは跳ねる魚を見て、歓声を上げる。
「お母さん、早く食べよ!」
焚き火で炙ると、香ばしい匂いが漂い出す。
塩気も油も足りない質素な食事だが、リルは嬉しそうに頬張り、目を細めた。
「おいしい……! 川の味ってカンジ!」
「おや、リル先生は詩人でいらっしゃる」
「んひひっ!」
その無邪気な言葉と笑顔に、救われる思いがした。
いや、実際に救われているのだろう。
私はリルを育てているし、リルは庇護される存在だが、その存在が私をどれだけ救っているのか知れない。
夜になると、森は一気に冷え込み、闇が濃く落ちた。
焚き火の光だけが小さな輪を描き、その外は底のない黒に沈む。
獣の遠吠えが風に混じり、梢の影が不気味に揺れた。
リルは私の外套にくるまり、炎を見つめながらぽつりと呟いた。
「ねえ、お母さん。イギョーの人って、どういうの? 怖い?」
その問いに、私は言葉を選んで答えた。
「……きっと、怖いんだろうね。だけど、その人はもともと普通の人間だったと思う。悪魔に騙されて、姿を変えられてしまったんだ」
「じゃあ……、かわいそうな人なんだね」
リルの声は澄んでいて、焚き火のはぜる音に吸い込まれるようだった。
「あぁ、多分……。とても……」
私はリルを抱き寄せ、心の奥で呟いた。
――かわいそうなのは、その人だけではない。
私もまた、悪魔の呪いに縛られており、下手をすると娘の未来を奪いかねなかった。
リルはやがて、炎のゆらぎを見つめながら眠りに落ちた。
私はその髪を撫で、夜空を仰ぐ。
雲間から覗いた星は冷たく輝き、何の感情も見せない。
それはまるで、遠い世界からこちらを見下ろしているかのようだった。
※※※
私が夜明け前に目を覚ました時、森はまだ薄闇に包まれていた。
籠の中は外気を遮断してくれるので快適だから、寝る前はリルを伴い、中で休んだ。
外の様子を窺うと、焚き火の残り火がわずかに燻っている。
灰の中に橙色の光がちらちらと残っているだけで、今にも消えてしまいそうだ。
これから湯を沸かし、朝食の準備をする為にも火は必要だ。
私はそっと枝を足し、手をかざして温もりを確かめた。
リルは籠内に用意されていた毛布に包まったまま、静かな寝息を立てている。
頬に赤みが差し、唇はほんのりと色づいていた。
――起きたら森の冷たさに驚くだろうが、そうした事にも少しずつ慣れて貰うべきだろう。
私は困った様に微笑み、しかしすぐに胸の奥が疼いた。
脇腹に広がる紋様が、熱を持って脈打つ。
呪いは、まるで何かに呼応しているかのようだった。
――近付いている。
森の奥に潜む異形。
そこに、解呪の手掛かりがある。
夜明けの風が頬を撫でた。
私は更に枝を足し、火の勢いを強めて、朝食の準備を始める。
リルをそっと起こすと、彼女はまぶたをこすりながら、まだ夢の名残をまとった声で囁いた。
「おはよう、お母さん……。もう出発?」
「いいや、その前に朝食を食べないと。ここにはシルケがいないから、自分の分は、自分で用意しないといけないよ」
「そうなの? でも……、自分で出来ないよ」
「それを教えてあげる。……なに、昨日取った魚をまた焼いたり、保存食を用意するだけさ。新たに取っても良いけど、時の運みたいな所があるから、前日には多めに取れる様に意識した方が良い」
「でも、森にいたら、そんなの関係ないよ?」
「そう、森にいるならね。でも、知っておいて損はない」
私はリルの耳を畳む様に、その頭を撫でる。
リルはくすぐったそうに身を捩り、それでも離れず、むしろくっ付いて来た。
一緒に焚き火の火をしばらく見つめ、不意にポツリとリルが呟く。
「何か不思議……。小精霊が燃えてるのとは違うし、枝とかどんどん灰になって、崩れて……。継ぎ足しなんかもいるし、色々大変だし、不便……」
「それがね、むしろ普通なんだよ。我が家しか知らないリルには、感覚が違って来るのは当然だけど、世の中の普通というものを、そろそろ知っても良い頃だ」
「本当に、皆あぁして苦労してるの? 火を付けるの、スゴい大変だったよ?」
「そうとも。皆、それが普通だと思っているから、苦労とは思っても、不便とは思っていないんじゃないかな」
リルは納得したような、そうでないような顔をして、更にわたしのほうへと身を寄せる。
グリグリと頭を押し付けてきて、甘える様子を見せた。
「ちょっと寒いか」
「うぅん、そうじゃないの。何か……色々、難しいね。苦労なんてなければ良いのにね」
「それは勿論そうだけど、現状では難しいな。我が家だって、あの森でなければ便利な生活は出来ないし、皆が皆、森で暮らせる訳でもないからね」
「森は良い所だよ。わたし、好きだもん」
絶対の自信をもって言うリルに、私は苦笑しながらその肩を抱いた。
「そういう事じゃないんだよ。街には街の便利さがあるし、そこで生まれ育つとね、ヒトは離れがたくなるものさ。郷土愛、と言っても良い」
「そうなんだ……」
「さあ、それより朝食の準備だぞ。今日はお母さんが、お手伝いする側だ。リルが率先してやってごらん」
「えぇ~!? 突然、無理だよ!」
リルは大袈裟に首を振って、助けを求める様に強く抱き着いた。
私は縋る目を向けるリルの肩を撫でつつ、安心するよう言った。
「お母さんも、ちゃんとお手伝いするから。全部最初から、一人でしなさいとは言わないよ。……さっ、始めようか」
「……分かった」
渋々ながら始めた朝食の準備だが、やっていることは、昨日の夜と同じだ。
うろ覚えであり、そして手元が覚束なくても、私とナナからフォローがあれば、苦戦しつつ何とか形にする事は出来た。
「偉いぞ、リル。よく出来ました」
「ほんとよ、リル。上手じゃない」
「けっこう簡単レシピだった!」
得意気に笑うリルに、私も笑顔を返して言う。
「そうだろう? やってみれば案外簡単、なんてよくある事さ。これからはちょくちょく、こういう事してみような」
「こういうって……、冒険!?」
瞳を輝かせて身を乗り出すリルに、私は苦笑しながら首を横に振った。
「そうじゃなくて、こういう野営とか、食料を得る方法を学ぶ事だよ。知っておいて――」
「損はない、でしょ?」
「そういう事」
リルの頭を撫でると、嬉しそうに鼻をぷすぷすと鳴らす。
だが、それも一瞬の事で、すぐに首を傾げた。
「でも、そんなの必要になるかなぁ?」
「良いんだよ、知っている事に意味があるんだ」
準備が済めば、早速食べないと失礼というものだ。
リルのお腹も、可愛らしい空腹の合図を出していて、早速魚にかぶり付く。
遠くの空が白ずんで来て、いよいよ夜が明けようとしていた。
リルは口いっぱいに物を詰め込みながら、その空に指先を向ける。
「あっ、朝日! いつもと違う朝食は美味しいね」
「あぁ、そうだな」
全くの同意見で首肯し、私は微笑みながら魚をもう一口、頬張った。
そうして朝食全てを食べ終わり、食休みも済んだ後、片づけを終えて立ち上がる。
「さぁて、日も昇ったことだし、そろそろ歩き始めよう。森の奥は道が悪いからね」
「でも……、森を歩いて良いの? アロガいないよ?」
「この森と、うちの森はまた別物だからね。……けれど、アロガがいたら心強かったろうな」
何しろ、野生の勘というのは馬鹿に出来ない。
そうでなくとも、アロガは単なる魔獣として見るには賢すぎる個体だ。
言葉を話せずとも意思の疎通が可能で、危険と思うものには自らリルを遠ざけてくれる。
ボーダナンの森より危険は少ないと思うが、未知の森を歩くのは当然、危険が付きまとう。
アロガがいたら心強いと言ったのは、私の本心からの言葉だった。
「でも、森を歩くのも楽しそう……!」
どこまでも楽観的なリルは、冒険心を沸き立たせながら立ち上がる。
危険には変わりない、と言われたばかりなのに、それを忘れている様な反応だ。
三年前ならば、きっと私の裾を掴んで離れなかっただろうに、今では未知の森を前向きに歩こうとしている。
成長の喜びと、別れの不安――それらが胸の奥でゆるやかに交錯しながら、私は森の奥へと足を踏み出した。