朝靄が森を満たす。
足元には霜を帯びた草がしとどに濡れ、踏みしめる度に、ひそやかな音を立てた。
鳥の囀りはなく、代わりに木々の隙間から流れる風が低く唸っている。
「なんだか静かだね……」
リルが囁く様に言った。
「春なのに、ぜんぜん鳥がいない」
「まるで、森が息を潜めているみたいよ……」
ナナがリルの背後から溶けるように現れ、肩に抱き着きながら、そう言った。
私は足を止め、耳を澄ませる。
――たしかに、静かすぎる。
獣の足音も、枝の軋む音もない。
ただ、遠くで何かが脈打つような低い鼓動だけが、微かに聞こえてきた。
その鼓動と同じ拍で、脇腹の紋様が再び疼く。
「お母さん、大丈夫?」
リルは小さな声で尋ねながら、私の袖を引いて来た。
私は心配させまいと、すぐに笑みを作って応える。
「うん、何ともない。ちょっと寒いな……、そのせいだろう」
だが、リルの目は、そう簡単に騙せなかったようだ。
具体的な所までは分からずとも、普段との違いに気付けただろう。
リルは黙って私の手を握り、その温もりを確かめるように揉んだ。
その気遣いが伝わり、わずかに痛みが和らぐ。
私は敢えて何も言わないまま、紋様が疼く方へと足を進めた。
※※※
森の奥へ進むほど、空気は重くなっていった。
春の息吹を感じさせる緑の芽が所々に見えるのに、その周囲の土は妙に黒く、ぬめりを帯びている。
木々の根の間から、淡い霧が立ち昇り、甘い腐臭を含んだ風が頬を撫でた。
リルが鼻をひくつかせながら言う。
「……この匂い、なんか変」
「気を付けなさい。ここはもう、“奴”の感知内かもしれない。魔力を使う様なこと――ナナに力を借りるのは控えること。今のところは、お母さんに任せておきなさい」
私は手をかざし、“異形”の魔力を探った。
そうすると、空気の層に微細なひずみがあると分かった。
まるで、見えない糸が張り巡らされているような感触。
悪魔の残滓だ――そして、これは生きている。
その瞬間、遠くで風が鳴った。
低く、昏く、呻くように……。
私は息を詰め、耳を澄ます。
いや、風ではない。
――それは声だった。
囁きのような、呻きのような音が、森の奥から漂ってくる。
まるで何かが、私達を呼んでいるかのように思える。
リルが怯えたように、私の背に隠れた。
「お母さん……、誰かいるの?」
「……分からない。でも、近付かない訳にもいかないな。おそらく、私の探している相手が、その元だろうから……」
更に足を進めると、陽が木々の隙間から僅かに差し込む様になった。
私たちは苔むした岩の陰で休息を取ることにして、リルは靴を脱ぎ、小川で足を洗う。
その笑顔だけは、いつもの様子と変わらない。
「お母さん、ほら、花が咲いてる!」
リルが指さしたのは、石の間に咲く小さな白い花だった。
雪解けの隙間に芽吹いた、新たな命だ。
私はその花を一輪摘み、リルの髪に差した。
「この森の中でも、春はちゃんと息をしてるみたいだ」
「うん……悪いものがいても、春は来るんだね」
その言葉に、胸の奥が静かに震えた。
――悪魔の呪いが蔓延る世界にも、春は訪れる。
ならば、まだ希望はあるのかもしれない。
小休止もそこそこに済ませると、再び歩みを再開した。
空気が冷たくなり、木々の影が伸びる。
手を握るリルの指先が、かすかに震えていた。
「お母さん……誰か、いる」
その言葉に私は振り向いたが、そこには何の姿もない。
ただ、木々の奥で霧が揺れ、闇が形を変えるように蠢いているだけだ。
――いや、違う。
私は目を細めて、よく目を凝らした。
霧の奥、樹々の間に、何かの動く影があった。
それはヒトの様に見えた。
獣人であるのは何の違和感もないが、それが年端もいかない、リルと同年代の少女となれば、話が別だ。
その少女が必死の形相で駆け、何かから逃げようとしていた。
背後には人の様でいて、人ではない何かが追っている。
それは『女』とよく似た形をしていて、長い腕と、しなやかな腰の曲線を持っていた。
――だが、その肌は人のものと、決定的に違う。
どす黒い膜に覆われ、ところどころから花のように裂けた口が、ぐちゅぐちゅと蠢いている。
髪のように揺れるものは無数の触手で、その先端が地面を撫でる度、草は枯れ、樹木の枝葉はぐにゃりと歪み始めた。
あれが、異形――かつて人であった者の末路か。
胸の奥がざわめき、紋様が再び熱を帯び始めた。
それと呼応するように、異形の形に闇がざらりと揺れる。
「リル、目を閉じなさい」
「え……、でも」
「いいから」
私はリルを抱き寄せ、そっとその頭を覆う。
次の瞬間、一陣の風が森の中を駆け抜けた。
少女だけを器用に避け、風は後方の異形を押し戻す。
追い付かれそうだった距離が開き、それどころか風は異形の肩を、腕を、胴体を切り裂く。
しかし、痛覚がないのか、あるいはもっと別の理由か。
ともかく、傷など気にせず前進してくる。
私は次に、逃げてきた少女に視線を移した。
獣の耳と尻尾を持ち、顔も手足も泥にまみれ、息は荒く、服は裂け、尻尾の先まで震えていた。
その少女は私たちを見るなり、声高に叫ぶ。
「た、助けてっ……! お願い、母さんが、母さんが……!」
その声には、理性より先に胸を掴まれるような切迫感があった。
私は反射的に前へと出る。
「リル、今度は私の後ろに」
「お母さん……あれ、あれがそうなの……?」
リルが震える声で問う。
だが、私は敢えて口に蓋をした。
答えられないほど余裕がない、などという理由ではない。
ただ、リルが知るには相応しくなく、また深く知るには危険な存在でもあったからだ。
「お母さんが……逃がしてくれて……! あいつが、あいつが母さんを……!」
猫獣人の少女はそう叫ぶと、息も絶え絶えに私の足元に倒れ込んだ。
その身体を抱き留めながら、私は唇を結ぶ。
この少女やその母親は、何か理由があって襲われた訳ではないだろう。
エルフが勝手な論理で異形を捨て、そのとばっちりを受けたというだけだ。
自らの良心を傷付けず、また倫理にも抵触しないから、などという……下らない理由で。
「リル、決して勝手な行動は取らないように」
「お母さん……、戦うの?」
「……そうする他ない。あちらさんは、やる気だからな」
私は右手を掲げ、指先に魔力を灯した。
赤く、青く、紫に輝く光が掌で交錯する。
その直後、こちらが解き放つより前に異形の輪郭が膨張し、呻き声を上げつつ何かを放出した。
――あれは、腐食の気だ。
触れれば命が削られる。
だが、引くことはできない。
少女の母親が、まだ生きている可能性のある内は――。
「あなたの母親はどこに?」
「……あの奥の、岩の、近くで……大きな木の側で……!」
涙混じりの声と、かすれた息……。
彼女はきっと、長く逃げ続けていた事だろう。
本来、獣人は人間に対して相当警戒心が強いはずだが、そんな余裕など捨て去るほど、とにかく助けが欲しかったのだ。
一縷の望みに縋るしかない、その想いには応えてやりたかった。
私はリルに視線を送り、そっと頷く。
「いいかい? お母さんは、異形を倒してあの子の母親を助けようと思う。リルはここで、この子を守ってやりなさい」
「う、うん……。でも、でも……離れるの、怖い」
「大丈夫。お母さんを信じなさい」
リルは唇を噛みながらも頷き、小さな手でフェリカの肩を抱いた。
フェリカは怯えたようにリルを見たが、同じ獣人であることに安堵したのか、あるいはリルの瞳の奥にある強さを感じ取ったのか……。
震える尾をゆっくりと下ろした。
私は深く息を吸い込み、異形へと一歩、足を進める。
風が冷たい。
雪解けの匂いが混ざり、どこか遠くから、腐肉にも似たすえた臭いが流れてきて鼻をついた。
異形は逃げない。私を待っている。
まるで、私を招いているかのように。
「悪魔の契約者……」
その言葉を口の中で転がす。
恐らくは三年前、森へ浸透する部隊より前に、契約を交わした者……。
どういう願いを述べたのか不明だし、どういう不興を買ったのかも分からない。
しかし、魔物にまで身を落とす呪いは、正直なところ異常に思える。
ウインガートが言っていた通り、これに理性はなく、目に付くもの全て破壊するか、あるいは腐食させ続けるだろう。
ここで仕留めなければ、その被害がどれ程になるか、見当も付かない。
「……ん?」
その時、木々の陰に、薄暗く光る何かが見えた。
それは血の様にも見える色合いの瘴気だった。
生命の気を喰らい、その気を魔力へと変換している。
周囲を腐食させているのも、その副次的な効果に過ぎず、主目的はあくまで……魔力への変換か。
「力でも望んだか? 何者にも負けない力、だとか……そういった類いの? だとすれば確かに、悪魔は願いを叶えたな……」
寄れば生命を吸収され、それを元に膨大かつ、尽きぬ魔力を与える。
しかし、その見返りについては、よくよく考えなければならない。
曖昧で不明瞭な願いは穴も多く、悪魔はそうした穴を絶対に見逃さないものだ。
「悔しい思いはあるか? 仕返ししてやりたい気持ちは? 奴の真名を教えてくれたら、私が解呪を頼んでやる」
そう提案した瞬間、闇がざわりと動いた。
異形が声を発したのだ。
それは言葉のようでいて、音の羅列でもあり、私の心を直接掻き乱す。
――ワタシハ、トモニアル。
――オマエノナマエヲ、ヨコセ。
これは異形本人の声ではない。
異形を通して発せられる、悪魔の声だ。
だが、呼び名を知らぬ限り、こちらへは干渉できないはず……。
そして、私の名を知る者は、もうこの世にいなかった。
「異形を通して、こちらを見ているのか。呪った相手が現れて、だから興味が湧いたのか? こちらにとっては好都合だが……」
しかし、こうした事態は予想の外だ。
真名を教えろと言ったところで、応じるとは思えないし、鼻で笑われて終わりだろう。
悪魔は絶対的な安全地帯からこちらを覗いていて、被害に遭うことなどないと思っている。
――だが、そこに付け入る隙がある。
私は短く息を吐き、右手を前に構えた。
「……名を知りたくば教えてやる。ただし、お前の名前も置いていって貰う」
森の闇が唸り、氷と炎が交錯する。
その刹那、私の背後――離れた場所から、リルの呼ぶ声が微かに響いた。
その声が、私の中でわずかに揺らぐ決意を支える。
――たとえ悪魔が名を隠そうとも。
この呪いは、必ず断ち切る。