混沌の魔女と獣人の子   作:鉄鎖亡者

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異形からの救出 その4

 森は沈黙していた。

 ただ風が通り過ぎ、葉を揺らす音だけが、この場を支配している。

 

 その下で腐臭を帯びた瘴気がゆらゆらと広がり、その度に草花や樹木を腐らせる範囲が広がって行く。

 

 腐り果てた枝の隙間から黒い影が蠢き、こちらの隙を窺う様に首をもたげた。

 

 ――悪魔の奸計に掛かり、契約の果てに喰われ、残った殻。

 もはやかつての魂も肉体もなく、悪意と呪詛だけで覆われている存在だ。

 

 私は腰を落とし、深く息を吸った。

 肺に腐気が刺さり、脇腹の紋様が疼いた。

 まるでこの場に広がる悪魔の力が、呼応しているかの様だった。

 

「……掛かってこい。誰が相手か教えてやる」

 

 その声に応じて、異形が構えらしきものを取った。

 幾本もの腕が上がり、触手の髪がうねる。

 

 顔のない顔がこちらを向き、どろりとした声が響いた。

 

 ――オマエハ、ワタシノ、モノダ。

 ――ソノタマシイモ、クラッテヤル。

 

「……言うだけなら、子供でも出来る」

 

 私は手を払って魔術を行使する。

 炎の魔法陣が瞬時に展開し、紅蓮の矢が闇を貫く。

 

 炎で焼け爛れたはずの異形は、しかし次の瞬間には、元の形を取り戻した。

 ――吸収した生命力に寄るものだ。

 

「一体これまで、どれだけの数の生命を吸収して来た? この三年……討伐されずにいたのは運なのか、それとも逃げ隠れしていたからか?」

 

 これほど周囲に被害を出す存在が、自由気ままに動けたとは思えない。

 冒険者ギルドとは、そうした異変に敏感で、腐り散らした道が出来ていれば報告するだろうし、場合に寄っては後をつけるだろう。

 

 それでも今も尚、何事もないと言うことは、その索敵から逃れていた事を意味した。

 

「案外と……、人里などからは離れて活動していたのか?」

 

 そう考え、直後にいや、と首を振る。

 獣人国家に冒険者ギルドの支部はない。

 

 それが主な理由だろうか。

 また、大規模な都市など築かず、小村程度にまとまる代わりに、その数が多いのがこの国の特徴だった。

 

 だが、結束は強く、隣接する村同士は互助する関係にある。

 それを考えると、やはり異形の存在は知れ渡り、討伐に赴きそうなものだった。

 

 勇猛かつ無謀で知られる獣人が、まさか異形の見た目だけで、日和見を決めたとも思えない。

 

 ――つまり、この異形には姿を隠せる(すべ)がある、と考えた方が良さそうだった。

 

「まぁ、その程度……。だからどうした、って話だけどな」

 

 私の声に反応したからではないだろうが、異形がこちらへにじり寄る。

 その度に地面が黒く染まり、下生えの草を腐らせた。

 

 私は右腕を掲げ、敢えて朗々と、低く詠唱を始める。

 

「氷よ、鎖となりて、穢れを封じよ――《グラキエル》!」

 

 空気が凍り、霜が走った。

 地面から無数の氷柱が生え、異形の脚を縫い止める。

 

 聞き取れる声量で詠唱をしたのは、私の力量を誤認させる為だ。

 私は当然として、力ある魔術士は詠唱など必要とせずに、魔術を行使できる。

 

 それでも敢えて使う場面があるとすれば、大魔術を使おうとして相手の心を折る場合など、戦略的に意味ある行為と判断した時などだろう。

 

 魔術士は、苦労して手に入れた力だからこそ、己の力に誇りを持つ者が多い。

 上に見せる努力はしても、下に見せようとする事は、まずないものだ。

 

 悪魔も恐らく、そうした認識でいることだろう。

 私にも魔女としてのプライドはあるが、悪魔と戦うとなれば、形振り構っていられない。

 

 詠唱なくして魔術を使えない、と過小評価してくれたら儲けものだし、勝つ為に取れる手段があるのなら、油断なくその全てを使うまでだった。

 

「ウ、グ、グ……ッ!」 

 

 動きを止められた異形は、氷から逃れようと身を捩っていたが、そう簡単には抜け出せない。

 

 使ったものこそ初級クラスの魔術だが、私が放った魔術なのだ。

 威力、拘束力共に、凡百の魔術士が使ったものとは比べものにならない。

 

 その理不尽と不可解さに、違和感を持つのは時間の問題だろう。

 実力の誤認も、長くは続かない。

 

 騙せている内に、次なる一手が必要だ。

 今度は詠唱の素振りさえなく、精神に直接揺さぶりを掛ける、幻惑魔術を行使する。

 

 未だ精神の奥底に残滓でも残っているなら、何らかの反応が返ってくる、と期待して――。

 

「聞こえてるか! まだ一握りでも意識が残っているのなら、この声に応えてみろ!」

 

「ウ、ウ、グ……」

 

 叫んで声をぶつけてみたが、返ってくるのは呻き声のみだ。

 しかし、反応自体は悪くない。

 

 氷から逃げたそうとしていた動きは鳴りを潜め、代わりに頭を抑えて苦しんでいる。

 それはまるで、人間が苦悩している姿のようにも見えた。

 

「今の状態を理不尽と思うなら! 解放されたいと願うなら! 私の声に応えろ!」

 

「リ、フ……ジン」

 

「そうだ! 真名を……お前をそんな姿にした悪魔の真名を教えてくれ! お前を必ず解放してやる!」

 

 実際のところ、確実に解放してやる確約など出来ない。

 悪魔との契約などしたことがないし、私が知っているのは、あくまで書物から学んだ知識のみだ。

 

 それでも今は、大言壮語と言われても、相手から真名を引き出す方が大事だった。

 

「カイ、ホウ……」

 

 異形の心も大分揺れている。

 氷の拘束から抜け出そうとしているのは変わらないが、それは心と身体が別行動しているからの様に見える。

 

 そして、それは事実だった。

 私が投げ掛けたのは、単なる言葉ではない。

 

 精神を揺さぶる、魔術を介した言霊だ。

 精神を半ば支配されている状態であろうと、これならば微かにでも届くはず……。

 

「――抗う気持ちが、ほんの少しでも残っているのなら! 応えろ、応えるんだ!」

 

 異形の身体は、尚も氷から抜け出そうとする。

 私は命を削ると分かっていても、更に魔力を注いで氷の拘束を強めた。

 

 そうして――。

 果たして思いは結実し、異形の声が、風に乗って私の耳の奥へと滑り込む。

 

 ――“ル=”……“ルグ=”……“ルグ・ヴァ――”

 

 私は息を呑んで、その名の断片を漏らさず聞き取る。

 魔の言葉であるからか、どこかおぞましさを覚える音の連なりだ。

 

「今、なんと言った……?」

 

 問い返しても、異形は答えない。

 ただ呻き、暴れ、拘束を破ろうとするのみだ。

 

「仕方ない、……荒療治になるぞ」

 

 私はさらに詠唱を重ね、魔術を行使した。

 

「雷よ、断ち割け。闇の理を照らし出せ――《アストラ・ヴェイン》!」

 

 稲光が走り、森の影が一瞬、昼のように白く照らされた。

 直撃したその刹那、異形の胸のあたりに、光の紋章が浮かび上がる。

 

 それは、三つの円が絡み合った古代語の印――“契約の環”だ。

 私は脇腹の痛みを、震える息で吐き出しながら、光に照らされたその中央を見つめた。

 

 そこには、よく目を凝らせば名が刻まれている、と分かる。

 ――“Rulg Varen”

 

 呟いた瞬間、胸の奥が熱を持った。

 脇腹の呪いの紋文が反応し、焼けつくような痛みが走る。

 

 まるで、名を呼んだことで、悪魔の視線がこちらを向いたかのようだ。

 

「……“ルグ・ヴァレン”。お前の名、か」

 

 口に出すと、異形が震えた。

 身体の中から何かが飛び出す。腕、脚、牙――そして、声だった。

 

 ――ヨブナ。コッパマジュツシ、ゴトキガ。

 ――ナゼ、ソノナヲ、シル。

 

「そもそも、木っ端魔術士というのが、お前の勘違いだからだ」

 

 私が異形の意識に語り掛け、情報を抜き出そうとしていたことは、悪魔としても当然分かっていただろう。

 

 だが、詠唱なくして魔術を行使できない魔術士など、わざわざ妨害する意味もない、と高を括った。

 

 そしてこの場合、互いに呪われた者同士、という状態が上手く噛み合った。

 

「お前の呪いが、互いに結び付きを強くする作用を生んだ! 声が届いたのは、そのお陰もある!」

 

 私は右手を強く握りしめ、再び詠唱なしで魔術を行使する。

 雷光がまた弾け、それが氷と交錯した。

 

 闇を裂くその輝きの中、異形の身体が一瞬だけ後退する。

 だが、完全には崩れない。

 

 呼ばれた名は、まだ“完全”ではないのだ。

 ――欠けている。その名の一部が。

 

 意識を思考に向けていたその時、異形の足元が爆ぜた。

 足を切り離して再生、急速に接近し、殴り掛かろうとしている。

 

 私はそれを咄嗟に避け、左手で結界を張った。

 それで攻撃は完封したのだが、異形は構わず殴り付けて来た。

 

「む……!」

 

 足元から瘴気によって、腐った臭いが立ち上る。

 少し吸うだけでも身体に毒だし、私の場合は特にそうだ。

 

 臭いが鼻腔を突く度に、脇腹から痛みが走った。

 ――根比べのつもりだろう。

 

 そして、圧倒的に優位なのは、悪魔の方に違いなかった。

 だが、そこにも悪魔の誤算がある。

 

 無数にある異形の口の一つが、かすかに動いて囁く様に言った。

 

「……ヴァ……レン……ダケジャ、ナイ……」

 

 私はその口に視線を合わせ、殴り続ける拳を防ぎながら強く問う。

 

「言ってくれ……! 気を強く持て! 口にしてくれ、その悪魔の真名を!」

 

 請うように言うと、異形の身体は一度だけぶるりと戦慄き、次いで震える唇で呟いた。

 

「――ルグ・ヴァレン=サルド……」

 

 その瞬間、世界が軋む様な錯覚を覚えた。

 空気が弾け、地が鳴る。

 森の奥で鳴りを潜めていた動物たちから、悲鳴らしき鳴き声を上げた。

 

「ギ、ギィ、ギァァァァァア……!」

 

 異形が痙攣し、形を崩し始めた。

 霧の様に散り、瘴気が風に溶けていく。

 

 枯れた葉がその上から静かに降り、世界は一瞬にして静寂を取り戻した。

 

 私は息を吐いて、呼吸を整える。

 両の手が脇腹から走る痛みで震えたが、意思の力で押さえ込んだ。

 

 魔力の使用で成長する呪いだから、戦闘する事は寿命を削っているようなものだ。

 だがこれは……、この痛みは悪魔の怒りから来るものだ。

 

 ――名を知られた。

 対価なくして知られることは、悪魔にとって恥辱であり、また大いに尊厳を傷付けられる事でもある。

 

 その怒りが――裏切り者の異形を、一瞬で灰に変えてしまった。

 だが、約束を違えるつもりはない。

 

 一方的な約束だし、何かを頼むと言われた訳でもない。

 それでも。あの名も知れぬ相手は、私の声に応えて真名を漏らしたのだ。

 

 その献身に報いる。

 ――悪魔“ルグ・ヴァレン=サルド”は、私が必ず滅してやる。

 

 強く決意を固めていると、背後でリルが小さく呼ぶ声がした。

 

「お母さん……、終わったの?」

 

「……うん。いや、どうだろう。始まったばかり、なのかも知れない」

 

 私はゆっくりと、リルを抱き寄せた。

 ――悪魔の真名を得た。

 

 だがそれは、同時に“扉”を開く鍵でもある。

 この呪いの根を断つには、名の持ち主を直接――召喚しなければならない。

 

 そして、私は知っていた。

 それは、命を賭して行う行為だということを……。

 

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