春の森は、陽光と香気で満ちていた。
花弁が風に散り、道の両脇には芽吹いた若葉が、淡い緑の波を立てている。
獣人国は、平原と森に覆われた国だ。
街道を進んでいても、不意に木々が姿を現し、街道も当然その中へ続いている。
そうした訳だから、この森も既に二つ目となっていた。
森獣――厚い毛並みをもつ、鹿にも似た大きな獣――が、低い唸りを上げながら、ゆったりと車輪を引く。
その足取りは重くも確かで、土の匂いを踏みしめながら進む度に、春の大気が静かに揺れた。
その速度は、見た目の足取り以上に速い。
一国を七日で駆けるとされる脚力が、遺憾なく発揮されていた。
森を抜け、主要街道に出た後は、更に速度が増す。
とはいえ、しっかりと舗装された道でないから、揺れは森の中と然程変わらない。
流石に我慢が出来なくなったリルが、私の腰回りに抱き着きながら不満を零した。
「ねぇ、お母さん。これ……、ガタガタして痛い」
「リルが乗った事のあるものは、卵籠しかないものな」
含み笑いに言って、片手は手綱を持ったまま、リルの頭を撫でる。
「空を飛ぶみたいに、殆ど揺れなし、とは行かないよ。そして、どういう獣に牽かせるにしろ、このぐらいは普通なんだ」
「これが……、これで普通なの?」
「そうとも。もっと揺れる物だってある。粗悪品は車輪や車軸が歪んでいたりするから、そんなのは本当に乗っていられない。冗談じゃなく、荷台から投げ飛ばされる事だってあるんだ」
「えぇ~……っ!? それって、ホントに乗り物なの!?」
「うん、残念ながらね。上下に激しく揺れるから、気分だって悪くなるし、歯を食いしばって耐えるしかない」
「そこまでして乗るの? 歩いた方が良いんじゃないかなぁ?」
リルの疑問は素朴だが、当然出る発想だ。
しかし、それは長距離の歩行を知らないから、言える台詞でもあった。
「長く歩くのと、どちらがマシかと言う話さ。それを考えるとね、揺られていた方がまだマシ、と考えてしまうんだな」
「えぇ~……っ? ゼッタイおかしいよ! こんなに乗ってるの、ツラいのに……」
「一時間程度ならね、歩くのも良いだろうさ。でもね、歩くのは危険でもあるんだよ」
「どうして? 転んじゃうから?」
私はその微笑ましい発想に、思わず笑顔になりながら答える。
「いいや、魔獣や魔物、あるいは山賊なども含めた野盗……。横合いから襲って来るものというのは、案外と多いからね」
「戦っちゃいけないの?」
「別に構わないよ。でもね、逃げた方が楽だし、怪我も少なくて済む。倒したところで実入りは少ない。何か理由がない限り、相手にする方が損なのさ」
「んぅ~……、そうなの? でも、逃げられない場合もあるよね? アロガみたいなのに襲われるとか……」
「そんな危険な道、すぐに知られて誰も通らなくなるよ。けど……まぁ、リルが何かしら理由を付けて、外を歩きたがっているのは分かった」
「じゃあ、いいの!?」
そもそも、じっと出来る性格をしていない。
お行儀良くしなくてはいけない場面では、勿論リルも努力してくれるが、ここはそうした場面ではなかった。
そうとなれば、リルが我慢する理由もなく、駄々をこねるのは時間の問題だ。
しかし、易々と許す理由も、またなかった。
「駄目だよ。アロガがいたら、考えても良かったけどね」
「そうだ、アロガ……」
まるでそこに実際いるかの様に手を伸ばし、そして結局何も触れられずに空を切った。
「アロガいなくて、寂しい……」
「こんなに長い間、離れていた事なかったものなぁ……」
互いに赤子の頃から、一緒の間柄だ。
最近は街に行くので離れ離れな時間はあったものの、所詮は夕方まで。
寂しいと感じる暇さえなかっただろう。
「アロガ、何してるかなぁ……」
「自分で獲物は狩れるし、腹を空かせてるって事はないと思うけどね。……多分リルと同じで、寂しがってるんじゃないかな」
「……ねぇ、お母さん。早く帰ろ?」
「そうだな。お母さんも、早く帰りたい……」
私は手綱を操り揺られながら、ぼんやりと空を見上げた。
晴れ渡る青の向こうには、幾つもの雲が流れている。
その美しさが、今の私には残酷なほど穏やかに見えた。
こうしていると平和で、
公国は越境の後、好きに暴れているらしく、当然獣人国側もその抵抗は激しい。
国境にある関所から、普通に出国するのはまず不可能だろう。
その上、私は密入国したのと変わらないから、正規の通行証さえなかった。
到底、問題なし、と素通りさせてくれるとは思えない。
面倒事が絶え間なくやって来そうだと、今から暗澹たる気持ちになった。
暗澹たる、と言えば、思う事はもう一つある。
――悪魔を、喚ぶのだ。
その言葉を胸の奥で何度も反響する。
この三年、あらゆる手を尽くして来た。
祈祷めいた祈りで呪いを退けようとし、竜の知識を借り、精霊たちにも癒しを請うた。
それでも、呪いは止まらなかった。
脇腹の黒い紋様は日に日に形を変え、まるで意思を持つかのように、皮膚の下を這い回っている。
目を閉じれば、あの日――。
異形の奥深くから、笑った悪魔の影が浮かんだ。
この身体に刻まれた印は、奴と繋がる“楔”だと、私は予想している。
呪いの力を、次元を越えた向こうから注ぐ為、アンカーの様な役割を果たしているのだ。
結果として、注がれた力の分だけ繋がりは強固になるし、時間が経つほど呪いは強くなる。
ならば、それを断ち切るには――現世に喚び出すしか方法はない。
喚び、願う。
そして、支配し、撤回させる。
危うい手段だが、成功すれば呪いは解ける。
失敗すれば……、私は完全に喰われるだろう。
けれど、もう迷いはなかった。
春の陽射しが、あまりに眩しく見えるからこそ――。
それが二度と届かぬ場所へ行く前に、最後の望みを掴まねばならなかった。
※※※
「お母さん……」
リルが、揺れる車内で私の袖を握った。
その小さな手の温もりが、現の世界へと引き戻す。
「お母さん……、何か危ない事しようとしてる……?」
そう問われて、ハッとした。
リルの実直な眼差しは、純粋な心配に満ちている。
一瞬、誤魔化そうとも考えたが――。
だが、リルの真っ直ぐな視線を見つめていると、ここで嘘を言うのは不誠実に思えた。
リルはまだ、子どもだが……。
それでも、既に感づいている手前、この誤魔化しは見抜かれるだろう。
「……うん、そうだね。危険な事をしようとしてる。フェリカ達を襲った異形のね、その大元を絶とうとしているのさ」
「あの……怖いヤツ? 木や森を腐らせた……」
「腐らせるのが目的ではないけれど……、そうだね。また悪さをしない様に、懲らしめてやるのさ」
「他にも、まだいるの?」
「今はまだいないかもね。でも、ああいうのを幾らでも作り出せてしまう。それを止めさせたい」
正しい手順で作成された魔法陣、そして悪魔の真名さえ知っていれば、幾らでも召喚出来てしまう。
そしてエルフは、明らかにその禁忌に手を出し、手段を選ばなくなっている。
生贄ぐらい簡単に見繕うだろうし、敢えて異形化させる目的で、誰かに喚ばせる可能性すらあった。
彼らに――同族以外に、倫理的な行動を望む方が酷だ。
彼らは既に味を占めたかも知れないが、だからこそ召喚させない為にも、その根元から絶つ必要があった。
……流石に、二体も三体も、悪魔の名をストックしていたりしないだろう。
その危機感さえ失っているとは、流石に思いたくなかった。
「お母さん……、大丈夫だよね?」
「勿論だとも。お母さんは、誰にも負けないよ」
「うん。でも……悪魔って、精霊とは違うんでしょ?」
「そうだね……。精霊は“光”の側にあるもの。悪魔はその裏、“影”の側にあるものだ」
リルは小さく眉を寄せた。
「じゃあ……お母さん、影に行っちゃうの?」
私はその言葉に胸を突かれ、すぐには答えられなかった。
死者の世界は、時に影の国、と言ったりする。
リルはそれを知ってて言った訳ではないだろうが、まるで私の状態を知っていて、そこを突いたかのように思えた。
――いや、本当は分かっている。
私が負い目を感じているから、勝手にそう感じただけだ。
私は感情を心の奥底へと仕舞い、無理にでも笑ってみせる。
「影の側には行かないよ。むしろ、光の側へ引きずり出すのさ。だから、何処かへ行くかも、って心配はしなくて良い」
リルは目に見えて安堵して、それからこくりと頷いた。
「そっか! じゃあ、お母さんをいっぱい応援する! ――あ。いっそ、わたしも……」
「それは駄目。お母さんは負けないけど、リルを狙われたら、守り切れるかどうか分からない。大人しく待っていてくれた方が、ずっと安心だ」
「むぅ~……」
「むくれたって、駄目なものは駄目だ」
断固として言うと、どうあっても覆らないと悟り、リルは大きな溜め息と共に肩の力を抜いた。
「やっぱり駄目かぁ……。でもね、どうしても助けがいる時は言ってね。わたしだって、お母さんを守れるんだから……!」
その言葉は、胸の奥の最も痛む場所に優しく沁み、私は笑顔と共にリルを抱き寄せた。