混沌の魔女と獣人の子   作:鉄鎖亡者

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村での生活と悪魔の撃退 その8

 森獣が鼻を鳴らした音で、ふと顔を上げてみれば、風向きが変わったのだと気付いた。

 

 木々の香りの奥に、湿った空気――水気を帯びた森の奥の匂いが混ざった。

 それはつまり、長く人の足が踏み入っていない領域を示している。

 

 森獣の耳がぴくりと動き、警戒の色が、その大きな背に走った。

 

 リルもまた、程度は違えど似たような様子を見せ、私は手綱を軽く引くなり、森獣へ声をかける。

 

「もう少し頑張ってくれ。……あの丘の向こうまで行ったら、休ませてやるから」

 

 森獣はこちらを向いて鼻を鳴らすと、再び前へと向いた。

 道は徐々に細くなり、枝が頭上を覆い、昼だと言うのになお薄暗い。

 

 だが、その奥に目的の場所があった。

 ――“誰も寄りつかぬ地”。

 

 悪魔を喚ぶには、そうした場所が要る。

 人の祈りも、精霊のさざめきすらも届かない、空白の土地だ。

 

 この森の奥にある古の湖――そこなら、封印の陣を描くのに向いている。

 

 森の中を進む間、私は何度となく振り返った。

 リルが車の後ろで、ナナと一緒に手遊びしていて、緊張感をわざと遠ざけようとしているかの様に見えた。

 

 森獣の揺れに合わせて、細い栗色の髪がきらきらと光を弾くのを見て、目を細める。

 

 ――この子の目に、恐怖だけは映させたくない。

 

 呪いが私を喰い尽くすとしても、リルには“世界の美しさ”を残したい。

 それが、たとえ儚い夢であっても。

 

 私は脇腹に手を当てた。

 手の平から伝わる熱が、まるで呼吸するように動いている。

 

 今は痛みを感じない。

 代わりに、脈打つ熱が強まっていた。

 

 悪魔もまた、こちらの動向に気付いているのかもしれない。

 その為の警告か、あるいは警戒が伝わっているのか――。

 

 風が吹いた。

 森獣の毛並みがなびき、リルの笑い声が重なる。

 その音が、まるで“現”と“虚”の境を、かすめるように響いた。

 

 

  ※※※

 

 

 やがて、木々の間から光が差した。

 広い空が見え、湖面が銀色に輝いている。

 湖のほとりは静まり返っており、鳥の声さえ遠い。

 

 私は森獣を止め、深く息を吸い込んだ。

 湿った空気の奥には、間違いなく“マナ溜まり”がある。

 

 あまりに小規模で、村や町といった、大規模の運用にはまるで向かないが……。

 

 ――しかし、ここならば、喚ぶのに支障はない。

 それに、()()をするのに十分な量だし、陣に一手間加えても不測のない量だ。

 

 大いなる確信を得ていると、後ろに居たはずのリルが、するりと手を握ってきた。

 

「お母さん、ここ? ここで……戦うの?」

 

「そうだよ。……でも、リルは離れていなさい。湖の向こうに居て、決して近付かないように」

 

「……うん。約束する。ちゃんと隠れてるから」

 

 リルが不安と不満をない交ぜにしつつ、そう宣言したところで、ナナがその背に抱き付きながら言った。

 

「こっちでもしっかり見張っておくわ」

 

 私はその目を見て、念を押す様に頷いた。

 リルが小さな足で湖のほとりを回り、少し離れた丘の上に座る。

 

 春風が吹き、花びらが舞い、湖の水面に散っていく。

 ――静かな、美しい世界。

 

 だがその中心で、私は今、悪魔を喚ぼうとしている。

 

 湖は鏡のように光を反射し、音一つなく静まり返っていた。

 風が止まった水面に映る雲は、まるで時間さえ止めてしまったかのように動かない。

 

 森獣は遠くに繋がれ、草を()みながらじっとこちらを見ている。

 リルは丘の上に腹這いで座り、小さな手で胸の前に祈るような仕草をしていた。

 

 私は外套を脱ぐと湖畔の土に、落ちていた枝で陣を刻み始めた。

 かつて師匠に教わった古代文字――それは、(うつつ)と虚の境を越えるための媒介式だ。

 

 土に刻まれる度、淡く赤い光が走る。

 春の大地の下から、微かな熱が上ってくる。

 

 そうして全ての準備が整った後、私は()()()()()()を――陣を覆うまた別の陣を刻み、それから静かに呼吸を整えた。

 

 ――悪魔を、喚ぶ。

 だが、乞う為ではない。命じる為だ。

 

「ルグ・ヴァレン=サルド……。我が呼び掛けに応えよ。汝が呪印を宿す我が身に応えよ――」

 

 風が一瞬だけ、ゴウ、と吹いた。

 森の囀りが途絶え、湖面の映像が歪む。

 

 次の瞬間、指先の印が、ぱち、と音を立てて燃えた。

 黒い焔が走る。

 

 輪の内側に、見えざる影が蠢いた。

 それは最初煙のようで、実体を持たないものだったが、次第に像が鮮明になり、その存在も強固なものとなっていく。

 

 ――来た。

 呪いの刻印が疼く。

 

 脇腹の紋様が熱を持ち、皮膚の下でざわめき始めた。

 その痛みこそが、まるで悪魔からの応答かのようだった。

 

『――喚んだ、か』

 

 低く、震える声が、周囲に響く。

 声というより、意思の圧の様にも思えた。

 

 大気が波打ち、湖の水が僅かに跳ねる。

 悪魔の身体も、最早完全に姿を形作っており、その姿が明らかになった。

 

 ヒトにも似ているが、獣と掛け合わせた異様な姿で、長い四肢、煤のように黒く光る肌、そして頭部には逆巻く二本の角がある。

 

 眼窩の奥には、二つの光――赤と紫の瞳が揺らめいていた。

 更に、最も人ならざる部分は、その背から生えた翼だ。

 

 骨だけが残り、そこに薄く膜が張られていて、それが腐った金属のように鈍く光っていた。

 

『……我を喚び出すのはお前か。だが、貴様は……誰だ』

 

 その声は、岩の裂け目から漏れる、風の音のようだった。

 私は気圧されぬ様に気を張り、自然体に見える様にしながら対峙する。

 

「“私に掛けた呪い”を解いて貰いたい。その為に喚んだ」

 

『呪い、だと?』

 

 悪魔は喉の奥で笑った。

 その笑いは乾ききって、どこか痛々しい。

 

『あぁ……、我が人形から勝手に名を聞き出した不届き者か。そんな人間ごときが、我に口を利くか。……ふん、だが、我を喚んだのならばまず、――跪け。』

 

「跪く?」

 

 私は一歩踏み出し、意志を強める。

 足元の魔法陣が軋み、光が走った。

 空気が裂け、湖面の霧が後退した。

 

「勘違いするなよ、悪魔。喚んだのは私で、従うのはお前の方だ」

 

 悪魔の瞳が、わずかに揺れた。

 炎が宿るように、怒りが生まれる。

 

『貴様……“誰”にものを言っている。いや、待て。……そうか、お前か? かつて、我が同胞をいたずらに喚び出し、そのうえ痛め付けてくれたのは』

 

「何百年も前の話なのに、良くご存じだな。……そうとも、お前も同じ目に遭いたくなければ、素直に解呪した方が身の為だぞ」

 

 その言葉が終わるや否や、悪魔は唸り声を上げた。

 翼が大きく広がり、地面の草木をなぎ払う。

 

 その体躯は瞬く間に膨れ上がると、三メートルを優に超え、黒い爪が鋭く光らせた。

 

『――愚にもつかぬ事を! 同胞の受けた屈辱、ここで晴らしてくれる!』

 

 怒りが形を取り、空気が焼けた。

 地が裂け、湖の水が宙に舞い、無数の水滴が蒸気となって消えていく。

 

 私は右手を掲げ、純粋なる魔力を光弾として手に握る。

 悪魔の腕と私の掌が、轟音と共にぶつかり合った。

 

「――チィッ!」

 

 閃光が走り、爆風が森を揺らす。

 悪魔は後方にのけぞりながら、苦悶の声を上げた。

 

『ぐっ……この力……! 貴様、木っ端魔術士ではないな!?』

 

「一言でも、そんな事を言ったか?」

 

 異形を介して見ていた時、凡庸な魔術士だと思ったことだろう。

 あるいは、油断していた事を加味して、更に出来る魔術士だと予想していたかもしれない。

 

 しかし、それこそ私の狙いで――そして、勘違いしている内に仕留めるつもりだった。

 

 光の中で、私は歩み寄る。

 悪魔の皮膚が焼け、翼が崩れ落ちた。

 だが、それでもその目は、未だ屈服していない。

 

『命じるな、女! くそっ、どうしてお前の名が読み取れない!? こやつの名前を誰一人、知らぬというのはどういうことか!?』

 

「へぇ……? 位の高い悪魔ほど、様々な能力を持つとされるが……。そうか、お前は他者の記憶すら読み取れるのか。対面していない相手からでも。家族や友人……縁ある誰かなら、芋づる式にか? だが、残念だったな」

 

 名を教えない事は不便であり、何より不誠実だ。

 だが、強力な敵――魔術に秀でている相手であれば、明かさない事が己を守る大きな盾となる。

 

 私が薄く余裕の笑えを浮かべた――次の瞬間、悪魔が叫び、空を裂いた。

 翼が散り、無数の黒い羽が雪のように舞う。

 

 その中で、悪魔の胸から一筋の赤光が抜け出した。

 それは“魂”だった。

 

 血のように赤いものの中に、血よりも禍々しい黒が渦巻いている。

 悪魔はこちらの意図を察して、嘲る様に嗤った。

 

『……この肉体から魂の欠片だけを抜き取ったか。だが、無意味な事だぞ。それを砕いたとて、繋がりが断ち切れるだけ。大元の魂がこちらの世界にある限り、決して我を倒すこと叶わぬ』

 

「その身体が仮初めだとは知っているし、だから取り出したのは間違いないが……。大きな勘違いをしているな」

 

 その言葉と共に、悪魔の身体は崩れ、灰となって消えた。

 後には魂だけが残されたが、これを破壊しても無意味なのは本当だ。

 

 師匠の見解が正しいのなら、悪魔を殺しきるのは不可能とされる。

 次元を越えた魔界へ直接乗り込み、本体を叩かないといけないからだ。

 

 目の前にある魂も所詮は影で、この世に顕界する為の依り代みたいな物だ。

 破壊すれば強制送還出来るが、所詮それだけだ。

 

 悪魔はこちら側からは、決して倒せない。

 しかし、嫌がらせくらいは出来るのだ。

 

 私は余裕の気配を醸し出す魂に対し、ありったけの悪意と共に言葉をぶつけた。

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