森獣が鼻を鳴らした音で、ふと顔を上げてみれば、風向きが変わったのだと気付いた。
木々の香りの奥に、湿った空気――水気を帯びた森の奥の匂いが混ざった。
それはつまり、長く人の足が踏み入っていない領域を示している。
森獣の耳がぴくりと動き、警戒の色が、その大きな背に走った。
リルもまた、程度は違えど似たような様子を見せ、私は手綱を軽く引くなり、森獣へ声をかける。
「もう少し頑張ってくれ。……あの丘の向こうまで行ったら、休ませてやるから」
森獣はこちらを向いて鼻を鳴らすと、再び前へと向いた。
道は徐々に細くなり、枝が頭上を覆い、昼だと言うのになお薄暗い。
だが、その奥に目的の場所があった。
――“誰も寄りつかぬ地”。
悪魔を喚ぶには、そうした場所が要る。
人の祈りも、精霊のさざめきすらも届かない、空白の土地だ。
この森の奥にある古の湖――そこなら、封印の陣を描くのに向いている。
森の中を進む間、私は何度となく振り返った。
リルが車の後ろで、ナナと一緒に手遊びしていて、緊張感をわざと遠ざけようとしているかの様に見えた。
森獣の揺れに合わせて、細い栗色の髪がきらきらと光を弾くのを見て、目を細める。
――この子の目に、恐怖だけは映させたくない。
呪いが私を喰い尽くすとしても、リルには“世界の美しさ”を残したい。
それが、たとえ儚い夢であっても。
私は脇腹に手を当てた。
手の平から伝わる熱が、まるで呼吸するように動いている。
今は痛みを感じない。
代わりに、脈打つ熱が強まっていた。
悪魔もまた、こちらの動向に気付いているのかもしれない。
その為の警告か、あるいは警戒が伝わっているのか――。
風が吹いた。
森獣の毛並みがなびき、リルの笑い声が重なる。
その音が、まるで“現”と“虚”の境を、かすめるように響いた。
※※※
やがて、木々の間から光が差した。
広い空が見え、湖面が銀色に輝いている。
湖のほとりは静まり返っており、鳥の声さえ遠い。
私は森獣を止め、深く息を吸い込んだ。
湿った空気の奥には、間違いなく“マナ溜まり”がある。
あまりに小規模で、村や町といった、大規模の運用にはまるで向かないが……。
――しかし、ここならば、喚ぶのに支障はない。
それに、
大いなる確信を得ていると、後ろに居たはずのリルが、するりと手を握ってきた。
「お母さん、ここ? ここで……戦うの?」
「そうだよ。……でも、リルは離れていなさい。湖の向こうに居て、決して近付かないように」
「……うん。約束する。ちゃんと隠れてるから」
リルが不安と不満をない交ぜにしつつ、そう宣言したところで、ナナがその背に抱き付きながら言った。
「こっちでもしっかり見張っておくわ」
私はその目を見て、念を押す様に頷いた。
リルが小さな足で湖のほとりを回り、少し離れた丘の上に座る。
春風が吹き、花びらが舞い、湖の水面に散っていく。
――静かな、美しい世界。
だがその中心で、私は今、悪魔を喚ぼうとしている。
湖は鏡のように光を反射し、音一つなく静まり返っていた。
風が止まった水面に映る雲は、まるで時間さえ止めてしまったかのように動かない。
森獣は遠くに繋がれ、草を
リルは丘の上に腹這いで座り、小さな手で胸の前に祈るような仕草をしていた。
私は外套を脱ぐと湖畔の土に、落ちていた枝で陣を刻み始めた。
かつて師匠に教わった古代文字――それは、
土に刻まれる度、淡く赤い光が走る。
春の大地の下から、微かな熱が上ってくる。
そうして全ての準備が整った後、私は
――悪魔を、喚ぶ。
だが、乞う為ではない。命じる為だ。
「ルグ・ヴァレン=サルド……。我が呼び掛けに応えよ。汝が呪印を宿す我が身に応えよ――」
風が一瞬だけ、ゴウ、と吹いた。
森の囀りが途絶え、湖面の映像が歪む。
次の瞬間、指先の印が、ぱち、と音を立てて燃えた。
黒い焔が走る。
輪の内側に、見えざる影が蠢いた。
それは最初煙のようで、実体を持たないものだったが、次第に像が鮮明になり、その存在も強固なものとなっていく。
――来た。
呪いの刻印が疼く。
脇腹の紋様が熱を持ち、皮膚の下でざわめき始めた。
その痛みこそが、まるで悪魔からの応答かのようだった。
『――喚んだ、か』
低く、震える声が、周囲に響く。
声というより、意思の圧の様にも思えた。
大気が波打ち、湖の水が僅かに跳ねる。
悪魔の身体も、最早完全に姿を形作っており、その姿が明らかになった。
ヒトにも似ているが、獣と掛け合わせた異様な姿で、長い四肢、煤のように黒く光る肌、そして頭部には逆巻く二本の角がある。
眼窩の奥には、二つの光――赤と紫の瞳が揺らめいていた。
更に、最も人ならざる部分は、その背から生えた翼だ。
骨だけが残り、そこに薄く膜が張られていて、それが腐った金属のように鈍く光っていた。
『……我を喚び出すのはお前か。だが、貴様は……誰だ』
その声は、岩の裂け目から漏れる、風の音のようだった。
私は気圧されぬ様に気を張り、自然体に見える様にしながら対峙する。
「“私に掛けた呪い”を解いて貰いたい。その為に喚んだ」
『呪い、だと?』
悪魔は喉の奥で笑った。
その笑いは乾ききって、どこか痛々しい。
『あぁ……、我が人形から勝手に名を聞き出した不届き者か。そんな人間ごときが、我に口を利くか。……ふん、だが、我を喚んだのならばまず、――跪け。』
「跪く?」
私は一歩踏み出し、意志を強める。
足元の魔法陣が軋み、光が走った。
空気が裂け、湖面の霧が後退した。
「勘違いするなよ、悪魔。喚んだのは私で、従うのはお前の方だ」
悪魔の瞳が、わずかに揺れた。
炎が宿るように、怒りが生まれる。
『貴様……“誰”にものを言っている。いや、待て。……そうか、お前か? かつて、我が同胞をいたずらに喚び出し、そのうえ痛め付けてくれたのは』
「何百年も前の話なのに、良くご存じだな。……そうとも、お前も同じ目に遭いたくなければ、素直に解呪した方が身の為だぞ」
その言葉が終わるや否や、悪魔は唸り声を上げた。
翼が大きく広がり、地面の草木をなぎ払う。
その体躯は瞬く間に膨れ上がると、三メートルを優に超え、黒い爪が鋭く光らせた。
『――愚にもつかぬ事を! 同胞の受けた屈辱、ここで晴らしてくれる!』
怒りが形を取り、空気が焼けた。
地が裂け、湖の水が宙に舞い、無数の水滴が蒸気となって消えていく。
私は右手を掲げ、純粋なる魔力を光弾として手に握る。
悪魔の腕と私の掌が、轟音と共にぶつかり合った。
「――チィッ!」
閃光が走り、爆風が森を揺らす。
悪魔は後方にのけぞりながら、苦悶の声を上げた。
『ぐっ……この力……! 貴様、木っ端魔術士ではないな!?』
「一言でも、そんな事を言ったか?」
異形を介して見ていた時、凡庸な魔術士だと思ったことだろう。
あるいは、油断していた事を加味して、更に出来る魔術士だと予想していたかもしれない。
しかし、それこそ私の狙いで――そして、勘違いしている内に仕留めるつもりだった。
光の中で、私は歩み寄る。
悪魔の皮膚が焼け、翼が崩れ落ちた。
だが、それでもその目は、未だ屈服していない。
『命じるな、女! くそっ、どうしてお前の名が読み取れない!? こやつの名前を誰一人、知らぬというのはどういうことか!?』
「へぇ……? 位の高い悪魔ほど、様々な能力を持つとされるが……。そうか、お前は他者の記憶すら読み取れるのか。対面していない相手からでも。家族や友人……縁ある誰かなら、芋づる式にか? だが、残念だったな」
名を教えない事は不便であり、何より不誠実だ。
だが、強力な敵――魔術に秀でている相手であれば、明かさない事が己を守る大きな盾となる。
私が薄く余裕の笑えを浮かべた――次の瞬間、悪魔が叫び、空を裂いた。
翼が散り、無数の黒い羽が雪のように舞う。
その中で、悪魔の胸から一筋の赤光が抜け出した。
それは“魂”だった。
血のように赤いものの中に、血よりも禍々しい黒が渦巻いている。
悪魔はこちらの意図を察して、嘲る様に嗤った。
『……この肉体から魂の欠片だけを抜き取ったか。だが、無意味な事だぞ。それを砕いたとて、繋がりが断ち切れるだけ。大元の魂がこちらの世界にある限り、決して我を倒すこと叶わぬ』
「その身体が仮初めだとは知っているし、だから取り出したのは間違いないが……。大きな勘違いをしているな」
その言葉と共に、悪魔の身体は崩れ、灰となって消えた。
後には魂だけが残されたが、これを破壊しても無意味なのは本当だ。
師匠の見解が正しいのなら、悪魔を殺しきるのは不可能とされる。
次元を越えた魔界へ直接乗り込み、本体を叩かないといけないからだ。
目の前にある魂も所詮は影で、この世に顕界する為の依り代みたいな物だ。
破壊すれば強制送還出来るが、所詮それだけだ。
悪魔はこちら側からは、決して倒せない。
しかし、嫌がらせくらいは出来るのだ。
私は余裕の気配を醸し出す魂に対し、ありったけの悪意と共に言葉をぶつけた。