「お母さん、大丈夫……!?」
抱き付いて来たリルを、優しく抱き返して撫でる。
僅かに震えていた身体が、それで少しは落ち着いた。
しかし、その動揺まで取り除けるものではなく、リルは私と魔法陣のあった場所を交互に見ながら言う。
「あの悪魔……、もういなくなった? 倒したの?」
「そうだね、倒した……と言って良いものかどうか……。悪魔は実質的に不死だから、封印した様なものかな」
エルフ側は悪魔召喚の成功で、少なからず味を占めた筈だ。
しかし今は、途切れなく連続召喚されている最中だから、これに割り込んで召喚する事は出来ない。
解呪されない事への意趣返しであったのは確かだが、エルフ側から切り札を一枚奪えた事にもなるので、一石二鳥だった。
だから、事態は最悪という程ではない。
悪魔召喚そのものを奪えた訳ではないものの、力ある悪魔を喚べるかは運になる。
そして、数打てば当たる方法を取れないのが、悪魔召喚というものでもある。
「あの異形も、もう出現したりしないだろう」
「よかった……」
リルは明らかに安堵した様子で、肩から力を抜いた。
しかし、抗議めいた視線で上目遣いに言ってくる。
「でも、怖かった……。すごい叫び声で……、離れてたのに震えちゃったもん。ナナも怖かったって」
「ち、違うわよ!」
リルの背後から現れたナナが、顔を赤くして大振りなジェスチャーで否定する。
「精霊と悪魔は相容れないの! 視界に入るだけで、嫌悪感に溢れるのよ! 怖いんじゃなくて、気持ち悪いだけ!」
「あぁ、そうだな」
「何よ、子どもをあやすみたいに! 本当だからね! 怖いんじゃないんだから!」
「分かった、分かってるから……」
必死に言えば言うほど怪しく見えてしまうのだが、実際、ナナが言っている事は本当だ。
存在として対極にあるようなものだから、どうあっても受け入れられない。
そこに理解のないリルが、自分と同じように怖がった、と勘違いするのはやむを得なかった。
「まぁ、その辺の誤解は、勝手に解いて貰うとして……」
「ちょっと!」
「もう、ここに用はないんだ。さっさと旅路に戻ろう」
「そう! アロガがお家で待ってるんだった!」
リルが、ガバリと顔を上げ踵を返すなり、私の手を取って引っ張る。
「早く帰ってあげないと! ねっ、お母さん! もうフェリカとか村とか、襲われなくなったんだもんね?」
「うん、それは間違いない」
悪魔が根絶された訳でも、召喚技法が消失した訳でもないから、厳密には出なくなったとは言えない。
しかし、現状は安全になったと判断して良く、だから全くの嘘でもなかった。
懸念があるとすれば――。
私の呪いが全身を回った時、一体どうなるか、だろう。
悪魔から不興を買ったら異形化する、というのなら、私も間違いなく異形化の対象だ。
そして、異形は悪魔の操り人形となり、その身体を乗っ取られる事まで判明している。
魔力の強い者ほど強い異形になるのか、それとも一律な個体になるのか、そこまでは分からない。
しかし、あの時の異形レベルでも、普通なら十分な脅威だ。
そして――異形となった私自身が、リルを襲うなど考えたくもない。
解呪が絶望的になった以上、また別の対策が必要だった。
「……お母さん?」
リルが私の手を握りながら、不思議そうに見つめる。
私は努めて笑顔を浮かべ、何でもない、と
「森獣も待ちくたびれているだろう。今日は野宿になるし、日が暮れる前に少しでも距離を稼がないと」
「うんっ!」
嬉しそうに返事すると、リルは私の手を引いて駆け出す。
自然、ナナもそれに付き従い、先程の誤解とやらを解こうと必死だ。
私はされるがままに手を引かれながら、今後七日の予定を頭の中で計算していた。
※※※
森獣の背は、いつ見ても頼もしい。
大樹の葉を思わせる深緑の毛並みに、丸太のように太い脚。
頭の両脇にある巻角は、光を受けて黒から琥珀色に輝く。
その背に括りつけた荷台に、私はリルと並んで乗り込んでいた。
春の陽気は柔らかく、平原を渡る風が頬をくすぐる。
森獣は見た目にそぐわぬ速度で歩きながらも、時折空気を嗅ぎ、耳をぴくりと動かしていた。
そのたびに、揺れる籠の中でリルが声を上げる。
「お母さん、森獣……この子、なんだか嬉しそう!」
「今日は風がよく通るからね。それで機嫌が良いのかもしれない」
私がどうだ、と尋ねると、森獣は鼻を鳴らし、のんびりと歩調を緩めた。
しばらく平原を進むと、背の高い草が風に揺れ、その向こうに森が帯のように伸びていた。
私がそこに目を向けると、リルもまた身を乗り出して景色を見つめた。
「ねぇ、お母さん。あの森、なんだか暗いね」
「春でも日が届きにくい……と、そういう森だからだろう。こういう森は別に珍しくないけど、この国では“影森”と呼ぶんだよ。ここ通るときは、注意しないといけないよ」
「なにを? なにに気をつけるの?」
リルの問いに、私は手綱から片手を離し、指で方角を示した。
「リルの場合なら――まず、風の流れを読むこと。風が急に止まったり、逆向きになったら、獣か魔物が近くにいる合図だ」
「ふぅん……。なんで? 獣か魔物が風を変えてるの?」
「いいや、風向きはいつだって自然に変わる。まさに、風の向くまま、気の向くまま、ってやつだけど……。時に風の小精霊が、それらを嫌がって急に方向を変えたりする。だから、もしかしてと思って注意するのさ」
「わたしに分かるかなぁ。森だと全然、そういうのに気付けないのに……」
「感じようとすれば、すぐに分かるようになるさ。それに、森には精霊が居すぎて、逆に分かり難いから……」
私はリルの髪をそっと押さえ、真剣な眼差しで前方の森を見つめた。
森の入口に近づくほど、鳥の鳴き声は減り、空気がひんやりとしてくる。
「そして、次に――音を聞くこと」
「音?」
「草が揺れる音、枝の折れる音。その“速さ”と“方向”で、どんな生き物か分かる事もある」
リルは森のほうへ耳を澄まし、目を丸くした。
「……いま、右のほうでちょっと音がした!」
「流石に耳が良いなぁ……。でも、あれは風で揺れただけだね。獣か他の何かなら、もっと重たい音がするはずだ」
「そっかぁ……」
リルは少し肩を落としたが、目の輝きはむしろ増していた。
森獣が森の入口へ踏み込むと、薄暗い影が座っている御者台の上にも落ちてくる。
木々の枝は高く、葉が重なりあって昼でも薄闇だ。
それを見たリルは、少し身を縮こませた。
「お母さん……、ちょっと怖い……」
「怖がってもいいよ、リル。“怖い”って感じることは、とても大事なことだから」
私はそっとリルの手を握った。
「恐れはね、単なる弱さじゃない。自分を守るための“合図”なんだ。怖さを感じたら、感じるだけで終わらず、よく考えるんだ。――どこに危険があるのか。そして、どうすれば避けられるのか。それができれば、旅はずっと安全になる」
リルはこくりと頷いた。
「そっか……。“怖い”は、逃げるためじゃなくて、気付くためなんだ」
「そう。そして気付ければ、戦う必要なんて、ほとんど無くなる」
その時、森獣が立ち止まり、鼻をひくひくと動かした。
私は即座に前方へ視線を投げる。
「リル、上を見てみなさい」
「えっ?」
「いいから」
更に言い聞かせると、リルは不思議そうにしながら、その通りに見上げた。
そして前方、木陰の中に――小さな魔獣がいる。
春先には森の奥からよく出てくる獣で、猫にも猿にも似た姿をし、危険は少ないが、目が合うと敵意ありと見て襲って来る事もある。
本来ならば、リルには目を伏せるよう、言っておくべきだろう。
しかし今は、少しでもリルに教えられる事は教えてやりたかった。
ただ腕の中で包んで守ることだけが、リルを守ることにはならない。
それを今後、より一層、強く意識しなければならない。
私が改めて自分に言い聞かせていると、森獣が低い唸り声を上げた。
その声に合わせて、私も前方を睨み付ける。
目が合うと襲う習性を持つ魔獣だが、格上相手にも襲うほど無謀ではない。
更なる力を視線に込めると怯み、やがて森の奥へ逃げていく。
「……よし。どう対処すれば良いか分かったかい、リル」
「うんとね……、気迫で負けないこと?」
そう、と私は満足げに頷く。
「ヒトでも魔獣でも、自分より強い相手とは戦いたくないものさ。そしてね、最初の睨み合いで、その格差が決まる。ヒトの場合は実力差に気付けない者もいるけど……、そういう手合いなら、いなすのも簡単だ」
「戦うのは駄目なの?」
「駄目ではないよ。でもね、敢えて危険な目に、自分から遭いに行く必要はないって事さ。特に旅の間はね、何があるか分からないから、そもそも近付かせないことが大事なのさ」
リルは神妙に感心しながら、じっと私の横顔を見上げた。
「お母さんって……、やっぱりすごい」
「凄いんじゃないよ。こういうのに慣れてるだけ」
「でも、ちゃんと全部気付くもんね。……わたし、その……」
リルは言葉を選びながら、少しだけ寂しそうな声で言った。
「……わたしも、お母さんみたいに、分かるようになりたい」
私は胸が温かくなるのを感じながら、その微笑ましい横顔を撫でた。
「リルはいつも、それを言うね。でも、大丈夫。その気持ちがあれば、もう半分は出来てる様なものさ。あとは実際に色々経験して、見て、感じて、覚えていくだけだ」
そう言ってやるとリルは笑顔になり、春風のような声で笑った。
「いっぱい教えてね、お母さん!」
「うん、勿論だとも」
森を抜けると、再び光が差し込む。
一面の若草が広がり、遠くには雪を残した山々が顔を覗かせていた。
春の匂いが風に乗り、獣車がきしむ音が心地よく響く。
私はリルの肩を抱き、次に向かう方角を見据えた。