日が傾き、森の影が長く伸びる頃……。
私たちは森獣を止め、野営に丁度良い小さな茂みの近くへ移動した。
森獣はすぐ近くの草地に寝そべり、重たい息をついて休みに入る。
茂みの奥からは、鳥たちが巣へ戻る羽音が聞こえていた。
「リル。今日は実際に、“生きるための準備”をやってみよう。この前は一緒にやったけど、今回は一人きりでね」
そう告げると、リルは途端に不安そうな顔付きになった。
「わたしに出来るかな……?」
「大丈夫、やるのはリルだけど、お母さんも横から、やり方を教えるから。いつか自分一人で出来るように、いま練習しよう」
私がそう優しく諭すと、リルはにっこりと笑った。
それに頷き返すと、腰の袋から短い刃のナイフを取り出す。
リルは息を呑んで、その刃先を見つめた。
「まずは――薪集め。“落ちている木”だけを拾うこと。折って持って来てはいけないよ」
「なんで? どうして、折っちゃだめなの?」
「生木は燃え難く、煙も凄く出る。目に染みるから、煙と相まって遠方への警戒が疎かにもなってしまう」
リルはこくりと頷き、森の縁へ駆け出していった。
私は距離を保ちながら後ろからついていき、危険な音がしないか耳を澄ませる。
リルは太い枝を見て、片手で持ち上げようとしたが――
「う、うぅ……これ、おもい……!」
「重い薪はね、火加減が難しい。それより――ほら、そこ」
私は少し離れた所にある、小さな影を指差した。
「こういう、乾いた細枝を最初に集めるんだ。火とは“育てる”ものだからね」
リルは真剣にその枝を何本も拾い、腕いっぱいに抱えた。
そうして、リルの拾ってきた枝を並べ、火床となる地面を掃いて平らにする。
小石を円形に並べて囲い、リルにナイフを渡した。
「これで木を削って、“
「火口って……?」
「火が最初につく、いちばん大事な場所。柔らかくて、薄くて、よく乾いた木の粉がね、その火口を作り易い」
リルは説明を聞き終えるなり、ぎこちない手つきで木を削り始めた。
その削り方は雑で、粉というよりささくれが飛び散る。
「違う。刃を押しつけるんじゃなくて、木の表面を撫でていくんだ」
私はリルの手を包み、ゆっくり動かして見せる。
すると、薄い木の粉がふわりと積もった。
「わぁ……、雪みたい……」
「そう、火のための雪だね。これがないと火は生まれない」
火口ができると、火打石を取り出す。
リルは興奮で目がきらきらしていた。
「リル、覚えておきなさい。火は“便利”なだけではなく、危険なものでもある。火を扱える者は強い。だけど、同時にそれだけ責任もある」
リルは真剣な顔で頷いた。
私は火打石をこすり、火花を散らしてみせる。
「さぁ、やってごらん」
リルは真剣味を増した表情で、火打石をカンッ、と打ち合わせる。
火花は飛んだものの、しかし火口には届かない。
「焦らなくて良い。この間より、ずっと上手だ。それとね、大きな音を出そうとする必要はないよ。的を狙って、火花を落とす気持ちで」
再びリルが石をこすり――。
そして小さな火花が、ふわりと火口に落ちる。
その数秒後、かすかな煙がのぼった。
「お母さん……! やった、ついた……!」
リルの頬が夕陽に照らされ、興奮と誇りで赤く染まる。
「よく出来ました。コツを掴めば簡単だろう?」
「うんっ!」
私は火が広がる前に細枝をそっと乗せ、炎を育てる。
ぱち、ぱち、と音を立て、暖かな光が徐々に広がった。
火が落ち着くと、私はリルをそこから少し離れた周囲へ連れていく。
「野営でいちばん危険な時間は、言うまでもなく“夜”だ」
「魔獣が出るから?」
「魔獣だけじゃないけど、その通り。風の向き、虫の声、森獣の様子……。それら全て、夜の危険を教えてくれる、物差しにしなくてはならない」
私は一つ一つ指差しながら、講釈を続ける。
「今日は風が東から吹いてて、湿気が多い。魔獣の匂いが広がりにくいから、鼻に頼りすぎないこと」
そう言って、次に周囲の草むらに指を向けた。
「虫が一斉に黙ったら、その周囲に“何か”がいるサインだ。よく観察なさい」
更に森獣へ、指を移す。
「森獣が鼻を上げて風を嗅ぐ時、それは警戒の合図だ。獣は気配に敏感だから、その合図は見逃さない様に」
リルは一つ一つを噛みしめながら、必死に覚えようとしていた。
「そして――」
私はリルの肩に手を置き、森の闇を見せる。
「暗闇は、本能的な恐怖を呼び起こす。だけど、逃げなくていい。“何がいるか分からない”ときは――自分の目で、耳で、鼻で確かめること」
リルの喉が、ごくりと鳴った。
「できるかな……?」
「出来るようになりなさい。大丈夫、火口を作った時と同じだ。コツを掴めばすぐさ」
そう諭してやると、リルの目が、ぐっと強い光を宿した。
「……うん。わたし、ちゃんとできるようになる!」
「その意気だ」
リルの頭を撫でてから火の傍へ戻ると、森獣が眠そうにあくびをしていた。
その大きな影の裏に、夕闇が静かに落ちていく。
私はリルに荷台から取り出した毛布を渡すと、火の傍へ座らせた。
「今日のリルはよく頑張った。火を
「ほんとに……?」
「本当だとも」
リルは小さく笑い、火を見つめながら言った。
「わたし、お母さんみたいになりたいな……」
「それはもう、何度目の台詞だか……」
私は笑ってリルの頭に手を置き、次いでその耳を畳むように撫でる。
「不安がることはない、きっとなれる。でも、リルはリルだ。――前にも言ったろう?」
「うん……」
炎の揺らぎがリルの瞳に映り、夜風が草を揺らした。
納得してはいないようだが、強く言い含める事でもない。
折り合いは、いずれ自分の中で自然と出来てくるものだ。
私は火を見つめたままのリルを置いて、食事の準備を始めた。
※※※
翌日――まだ朝日が、森の端に触れていない頃に、私は目覚めた。
野営地は冷たい霧に包まれ、湿った空気が肌を刺すように感じる
荷台に毛布を敷き、リルとくっ付いて寝ていたのだが、私が目覚めても未だ夢の中だ。
ふと視線を逸らせば、森獣が丸くなって眠っているのが目に入り、白い息をゆっくり吐き出していた。
私はリルの肩を、軽く揺すって起こす。
「リル、起きなさい。朝だよ」
リルは逃げるように寝返りを打ち、むにゃむにゃと目を擦る。
「……まだ暗いよ……」
「暗いからいいのさ。“夜と朝の間”を扱えるようになれば、生き残る力が段違いになる」
そう言うと、リルは眠気に負けつつも身を起こし、不満そうに呟いた。
「いき、のこる……? そんなことまで、気にしないといけないの……?」
そう問われて、思わず返答に詰まる。
最悪の事態を想定している私と、単に野営の心得を学んでいると思っているリルとでは、その認識に大きな隔たりがあった。
「……まぁ、知っているかどうかは、大きな違いになるんだよ」
少々強引に話を中断し、私は火を熾す前にリルの手を引いて、森の縁へ連れていった。
空は薄青く、鳥たちはまだ目覚めていない。
「リル。昨日教えた“音の違い”を、今日は実際に聞いてもらう」
「音……?」
「そう。この時間帯は、夜の獣と朝の獣が入れ替わる時刻だからね。普段より違いが分かりやすい」
そう説明すると、私は指を立てて口元へ当てた。
「耳を澄ませなさい」
リルはまっすぐ背筋を伸ばし、森の暗がりをじっと見つめた。
わずかに風が吹き、葉が擦れる音がする。
「ね、お母さん。葉っぱの音しか聞こえないよ……?」
「慌てずに。よく聞いて」
しばらくすると、微かな“連続した小さな振動音”が、森の奥から聞こえてきた。
「……虫の、羽の音……?」
「そう。それも群れの音だね」
私はリルの頭を軽く撫でた。
「この音が聞こえる日は、午後に雨が降る確率が高い。湿気を嫌う虫が、早めに巣に戻るからだ」
「えっ……、そんなことで分かるの……?」
「分かるようになるんだよ、リル。世界はいつも、いつだって、色んな合図を出しているんだ」
リルは神妙な顔付きで、ただ黙って頷いた。
※※※
次に、私はリルを草原側へ連れていった。
朝露に濡れた地面には、夜のうちに獣が歩いた跡が残っている。
「ここで、何するの……?」
「足跡を読む練習だ」
私はしゃがみ込み、指先でその跡をなぞった。
「ほら、この形。足が三つに割れて見えるだろう? これは“谷鹿”の跡だ。小さいけど、蹄を落とし込む癖があるから深い」
「ほんとだ……、くっきりしてる……」
「次はこれ」
少し離れた場所の、細長い足跡を指す。
「これは森狐。軽いから浅い。でも――」
私は少し眉をひそめた。
「足跡の向きが違うな。普通なら森の奥へ戻るだろうに、今朝は平原側へ歩いてる」
「どうして?」
「たぶん、森の奥から逃げて来たんだろう。大型の獣に追い掛けられたかな」
リルの肩がびくりと震えた。
「大丈夫。今はまだ、危険な距離じゃない。でも、“足跡は語る”ことを覚えておきなさい」
リルは真剣に頷き、足跡と森の方を注意深く見つめた。