そうして、日が昇りはじめ、霧が薄れていく頃――。
朝食を食べ終えてから、二人で近くの小さな谷へ向かった。
「今日は水の探し方も教えよう」
「水かぁ……。お家なら、そんな心配いらないのに……」
「本来はね、水は何処でも手に入るものじゃなくて、むしろ貴重なものだと覚えておきなさい。外の世界中で欲しいなら、地形と自然を読むこと」
リルは唇を結んで頷いた。
「まず、この谷を見てみなさい。草原と比べて、草の色が濃いだろう?」
「……あ、ほんとだ……」
「水脈が近い証拠だ。更に……、ここ」
谷底の石を指さした。
「苔が湿っている。これはね、“下から水が染みている”証拠だ」
リルはまるで、宝物を見つけたように目を輝かせる。
「水……ここにあるの?」
「掘れば少しは出るだろうね。でも、飲めるほどじゃない。そこから分かることはね、近くに水辺があり、そして“獣が集まりやすい場所”だということ」
リルは一時、不思議そうに首を傾げ、それから表情を引き締めた。
「じゃあ……、危険?」
「そう。水辺は生き物を呼ぶ。生き物が来る場所は、捕食者も来る」
そう言って私は周囲をぐるりと見回した。
「水を求めているのに、危険地帯へ踏み込んでいることもある。そういう時は、素早く離れなさい」
幸い、今は周囲に獣の気配はない。
警戒を解いてから谷を離れた。
野営地に戻ると、森獣が暇そうに鼻を鳴らしながら、近くの草を食んでいるところだった。
私はリルを火の前に座らせると、再び講釈を始める。
「リル、昨日今日と色々教えたけど……。これから、更に大事な事を教えよう」
「なに……?」
「いいかい? リルには戦う
「はいっ! 剣と素手、どっちでも大丈夫なように、いっぱい教わってます!」
リルは姿勢を整えると、改まった口調で自慢気に胸を張った。
武術の稽古時は、母娘ではなく師弟関係となる。
だから今も、リルは師匠から薫陶を受ける弟子の態度を取っていた。
その切り替えに満足しつつ、私は話を続ける。
「いいかい、必要なのは“戦える力”よりも、 “戦わず済ませる知恵”の方だ。むしろそちらの方が、はるかに大事と言えるだろう」
「……そうなの? じゃあ、どうして……」
「武術を教えるか? それはね、前にも言った事があるよ」
「えぇ……?」
リルは難しい顔付きで首を捻り、数秒頭を悩ませた後、あっと声を上げた。
「理不尽なボーリョクにタイコーする為だ! 何も出来ないなんて事がないようにって! お母さん、言ってた」
「よく覚えていたね。偉いぞ、リル」
素直に褒めそやし、胸に抱いて頭を撫でる。
リルはくすぐったそうに笑い、嬉しそうにリルの方からも抱き着いて来た。
ぎゅうぎゅうと締め付け、二度と離れないと言わんばかりの様子に苦笑しながら、私は話を続けた。
「いいかい、リル。武力を持つのは大事だ。自分の身を守れる程度の力はね、むしろ必須だとすら思う。でも――、“戦わずに済ませ”られるなら、そっちの方がよほど大事だ」
リルは胸の間から顔を出して、力強く頷いた。
「うん、戦わなくていいなら、そっちの方がいい!」
「昨日の火。今朝の音、足跡、水脈……。これら全て、戦わないための力だよ」
私はリルの顔を両手で包み、その頬を優しく摩りながら言う。
「私が武術を教えるのはね、剣や魔法を持たせたいからじゃない。リルが無事に成長する為の、力添えをしたいからだ」
リルは唇を噛み、目を潤ませた。
「……お母さん。わたし、ちゃんと……覚える。ちゃんと……ちゃんと、リッパに大きくなるの。お母さんも見ててね」
その声は震えていたが、間違いなく、その心根には芯があった。
「あぁ、きっとね」
私はリルを抱き寄せ、額に軽く唇を触れさせた。
森獣が喉を鳴らし、朝日がようやく木々の間から差し込み始める。
今日も旅は続く。
リルを鍛える日々も、まだ始まったばかりだった。
※※※
抱擁を終え身体を離す時、リルが回した腕を離さないという場面があったものの、私たちは野営の片付けを始めた。
森獣はもう準備万端といった様子で、しきりに鼻を鳴らしながら、私たちの周りを急かす様に回っている。
荷を結わえ終えると、その大きな背中に獣車を繋ぎ、私とリルはゆっくりと御者台へと乗り込んだ。
「お母さん、今日も……危ないのある?」
リルの声は緊張よりも、むしろ期待に近い。
昨日からの教えが、彼女の好奇心に火をつけたのだろう。
「危ないものは“あるかもしれない”、と思っておくぐらいが丁度良い。油断せず……そして、周囲に気を配る。移動中はね、そうした備えが大事なんだ」
「うん……!」
森獣が歩みを始めると、春草の香りがふわりと立ち上る。
小鳥のさえずりが森の彼方から聞こえ、昨日よりも空は澄んで見えた。
だが――その穏やかさに惑わされるのが、旅の難しさでもある。
しばらく平原を進んだ後、私はふと森の方へ視線を向けた。
風が止む――そんな瞬間がある。
自然の流れが一瞬だけ“固まる”ような、そうした違和感が。
「……リル。風の話、覚えてる?」
「え? うん……魔獣が居たり……じゃあ、いま?」
「今回は魔獣ではないし、前回教えたのとは、また違うケースだけどね」
リルが耳を澄ませるようにした瞬間、その表情が変わる。
「あれ……? 風が……、無くなった……?」
「そう。自然に無風になるのは、そんなに多くない。特に“ヒトのいる場所”ではね」
リルが首をかしげる。
「ヒト……?」
「そう、近くで火を使っているんだろう。風が熱をまとって、動きを変えたの原因かな」
私は手綱で森獣を軽く叩き、歩調を落とさせた。
――この気配……その人数は四、五ほど。
位置は……森の境界。まだ遠いが――。
恐らく野盗で間違いあるまい。
街道沿いでは、何処の国でも一定数、こうした輩が湧く。
獣人国家でそうした野盗は少ない筈だが、何事にも例外はある。
それに、やっているのが獣人だとも限らない。
この国は香辛料や砂糖が採れるお陰で、人間の商人が貿易をしたくてやって来る。
そうした手合いを狙って襲ってもおかしくなく、そして大抵の場合、そうした野盗は人間になるのだ。
森獣が鼻を鳴らした。
どうやら彼も気づいたらしい――あの“嫌な匂い”に。
「リル。ここからが、今日の訓練だ」
「……どんな?」
「恐らく、人間の野盗がいる。まだ距離はあるけれど、遭遇したくはない」
リルはごくりと喉を鳴らした。
「戦うの……?」
「戦わない。避けるんだよ」
私はリルの耳の後ろを軽く撫で、森獣に合図を送る。
すると森とは逆方向――少し遠回りの丘陵へ向かって進み始めた。
「いいかい? 野盗は待ち伏せを好む。だから、こういう道の“出口が狭い場所”は避けること」
私はそう言いながら、指で進行方向を示す。
「ほら、あの先の林。入口は狭くて、抜け道も少ないだろう?」
「……ほんとだ……」
「そういう場所に、人は隠れる」
リルははっと息を呑んだ。
「じゃあ、丘の上から回るのは……」
「見晴らしが良いし、後手にも回り辛いから、ずっと安全だ」
森獣がゆっくりと丘を登っていく。
その背で、リルは眉を寄せながら景色を見回した。
「ねぇ、お母さん……。下のほう……あれ……」
リルが指差した先――木々の影に、揺れる光。
焚き火の赤い色だ。
その周りを黒い影がうろつき、話し声らしきものが風に運ばれてくる。
「リル、あまり音を立てないように」
リルは素早く応じ、一つ頷くと私の腕を抱いて黙った。
私は周囲を見渡し、さらに森獣に小声で囁く。
「坂を下るのはやめよう。尾根沿いを……そう、そう。音を立てずに……」
森獣はゆっくりと、慎重に足を運んだ。
流石の健脚で、速度を落とした代わりに、巨体とは思えないほど足音が小さくなった。
丘を越え、さらに遠回りしながら街道から離れる。
焚き火の光も、笑い声もやがて消えた。
丘を越えきった所で、私はリルの肩を叩いた。
「……よし。もう、大丈夫」
「ほんとに……?」
「姿も見えないし、気配も遠のいたろう?」
リルは安堵のあまり、どっと肩の力を抜く。
「うん、もういない……」
「正面から戦っても、負ける事はないだろう。でもね、気付けたのなら避けるのが賢明だ。旅の道中、トラブルは少ない方がいい」
リルは私の顔をじっと見た。
「お母さんは、なんで分かったの?」
「理由は幾つかある。気配、風の流れ、ヒトの匂い、火の匂い……。リルにもそのうち幾つかは分かっただろう?」
「うん、火の匂いはね、分かったよ」
私はリルの肩に手を置いた。
「あんな所で自然発火なんてない。ならば、誰かが火を熾した、という事になる。そして、それが分かればね、相手の狙いも分かって来るものなんだ」
「……あそこで火があったら、野盗で間違いないの? ぜったい?」
「そうだな……、絶対ではない。でも、そう考えて良いくらいには危険な確率だ」
野盗たちから大きく迂回した道は、春草が一面に広がる静かな丘陵だった。
森獣は鼻歌のように低い声をあげながら進み、風は草をゆっくり揺らしていく。
「お母さん……さっきの丘、少し怖かったけど……。なんだか、わたし、ちょっと分かって来た気がする」
「うん、こればっかりは経験だ。リルにもその内、分かって来る様になる」
私はリルの頭を撫でながら言った。
「旅はまだまだ続く。今日みたいなことは、これから先まだまだあるだろう。でも……」
「うん。大丈夫。お母さんと一緒だもん」
その言葉に、呪いで重くなっていた胸が少しだけ軽くなる。
――守らなければ。呪いに呑まれる前に、なんとしても。この子が一人で生きていける様に……。
私は遠くの空へ視線を向けた。
その彼方にある我が家に向けて、森獣の背はゆっくりと進んでいった。