春の午後、薄桃色の霞がかかったような陽光の下、森獣の足取りが、ふと軽くなった。
風の流れが変わったからだが、それはこれまで遭遇したものとは、また別のものだ。
そして、どうやらリルも、それに気付いたらしい。
可愛らしい鼻をピクピクと動かし、頭の耳もまた、忙しなく動く。
「ねぇ、お母さん。もしかして……」
「村が近いね。炊煙と、家畜の匂いがする」
私は手綱を軽く引きつつ、もう片方の手で斜め前方を指差した。
「……ほら、あそこだ。見えるかい、リル?」
「うん! あっち、屋根がいっぱい!」
茅葺き屋根が斜面に寄り添うように並ぶ、小さな集落だった。
獣人の多くは狩猟を得意としているものだが、全ての種族がそうとは限らない。
力の弱い種族も当然いて、そうした者達は基本、麦と家畜の育成で生計を立てていた。
近付く程に家畜臭が強まり、糞尿の臭いが鼻を突き刺す。
リルは大いに顔を顰めて、両手で鼻を覆ってしまった。
「ぐざぁ~い……!」
「農村部とは、そんなものさ。トイレがある村の方が珍しいから、基本的に臭いは強烈になる」
「ないの? トイレが? じゃあ、何処でするの?」
「その辺の草むらで」
「村の中なのに!?」
リルも当然、旅路の中ではそうした不便があるのは理解していて、野宿の時などは実際に野外で用を足している。
しかし、その不便はあくまで外の世界にあっての事で、まさか生活圏の只中でも、同じ事をするとは思っていなかった。
箱入り娘同然のリルからすれば、当然とも言えるが……。
「みんな気にならないのかな……。鼻が痛くなっちゃう」
「慣れのせいもあるのか、それとも諦めの方が強いのか……。誰も彼もがそれを当然と思っているとね、それがおかしいとは思わなくなってしまう」
「うぅん……、そうかもしれないけど……」
リルは頷いたものの、やはり不満そうだ。
その気持ちは分かる。
私だって、顔や表情に出さないだけで、普通に臭いとは思っている。
まだ農村部落の暮らしを知らないリルにとっては、その刺激は強烈なものだろう。
「どうしても辛かったら、ナナに協力して貰って風の膜を作りなさい。臭いを防ぐだけなら、そう大した負担でもないだろうし……」
言いさすと同時にナナが現れ、リルの隣に座って肩を抱いた。
少し前まで、ナナの方が背か高かったのに、今ではもう同じくらいだ。
こうして横に並ぶと実に顕著で、リルの成長ぶりが窺える。
「……それで? 膜を張っちゃう? 今のリルなら、全然楽だと思うわよ」
「うんっ! じゃあ、やろっ!」
ナナと手を合わせて意識を集中させた途端、ふんわりと風が巻き起こり、リルの髪を持ち上げた。
しかし、それも最初の数秒のことで、上手く風の流れを操作して、下から上へと螺旋状に逃がしていく。
「上手くなった。上達ぶりが凄いな、リル」
「このぐらい、ぜ~んぜん簡単! 早く空を、飛べる様になりたいなぁ」
何とはなしに口にしたそれを、ナナは一笑に付して、その抱いていた肩を撫でた。
「今のリルには、まだ無理よ。高く飛び跳ねるとか、そこからゆっくり落ちるとか、出来るとしたらそのくらいね」
「むぅ……! じゃあ、いつになったら出来るの?」
「さぁて……? そこはリルの努力次第じゃない? あたしだけ頑張っても駄目なの。お互いの息を合わせる事……そして何より、多くの魔力が必要ね。リルにはその魔力が足りてないの」
詳しく説明されても、リルは尚も不機嫌だった。
というより、既に何度も聞いた内容物だから、気に入らないのだろう。
あれは努力よりも、より簡単に出来る方法を識りたかった態度だ。
私はリルの頭をポンと叩いて、その頬を擽る様に撫でる。
「上達に近道なんてないんだよ。ふて腐れるより、ナナの言うことを良く聞きなさい。それが結局、一番早い方法だ」
「あら、魔女もたまには良いこと言うじゃない。そうよ、リル。あたしの言うこと聞いてれば、ゼッタイ間違いないんだから」
「んぁ~い……」
活発なリルにとって、精霊魔法の勉強や習熟は、大変疲れる事で、最近はサボり気味という話も聞く。
あからさまに逃げたりしないのだが、集中力が長く続かないのだという。
何かモチベーションになるものがあれば、一気に化けるとも思うのだが、中々難しい問題だった。
「やれやれ……」
そうして話をしている間も獣車は前に進んでいて、村の入り口にそろそろ着こうか、という頃だった。
しかしその一角で、何やら人が――獣人が蹲っている。
怪我か何か、しているのだろうか。
森獣を停めると、こちらに気付いていた青年が、腕を押さえて寄ってきた。
私はリルに荷台の方に入るように言い、そして警戒を解かぬまま、その青年の到着を待つ。
そしてよくよく見ると、腕を怪我していると分かった。
布には赤茶色の血が滲み、痛みを堪えるように肩を震わせている。
「どうした?」
私は敢えて獣車から降り、穏やかに聞こえるよう、注意して声をかけた。
「斧……滑らせてさ……ちょっと、切っちまって……。あんた達、旅の者か……?」
「そうだが、一晩休める場所があるだろうか。もし、貸して貰えると助かるんだが……」
「なぁ、薬とかあるかい? 村の薬草は、丁度ほとんど使い切ってる状態で……」
「切り傷の薬……? いや、生憎そういった物は……」
出し渋っているのではなく、これは本当にない。
そもそも、そうした準備を私は必要としていないからだが、目の前の青年は、そうと受け取らなかった。
「頼むよ、出せる限りのカネは出すから……! いや、確かに俺は貧乏だし、そんなに持ってないけど……。でも、怪我のままだと明日から、どうやって食ってけば良いんだ……!」
それで途方に暮れ、村の入り口辺りで蹲っていた、と言う事らしい。
どうしようかと考えて、ふと、まさかこれが“魔力を使わざるを得ない”状態、ではないよな、と胸中をよぎった。
中々答えを返せないでいると、リルが荷台から顔を出し、私の袖をくい、と引く。
大きな瞳には迷いながらも揺らぐこともなく、私を見つめていた。
「……お母さん。それナナにお願いして、治してあげてもいい?」
青年は事情が分からず瞬きをしていたが、私は素直に賛成出来なかった。
精霊の力を使うというのは、こと獣人国において強い意味を持つ。
あの村で祭り上げられたのは、まだリルの記憶にも新しいだろう。
「いいかい、リル。良く聞きなさい。誰かを助けたいと思うのは、とても正しい事だ。正しい事に力を使おうとした事は、お母さんも誇らしい」
「んひひ……! うん!」
リルが嬉しそうに頷き、私もそれに応えながら続ける。
「でもね、癒やしの力は、人々に“異質”として見られるという事を、考えておかないといけないよ」
「……どういうこと?」
「喜びも、感謝も——期待も、依存もあると言う事さ。力とは、善も悪も関係なく、“目を引く理由”になるものだから」
私はリルの肩に手を置いて、その目を真っ直ぐに見つめながら言った。
「止めはしないよ、リル。それで誰かが助かるのなら、その優しさは正しい。……でもね」
リルの耳がぴくりと動く。
緊張した時に出る、リルの癖だ。
「“してあげたこと”の影響は、その場限りの感謝だけとは限らない。その“先”まで、よく考えて行動しなければいけない」
「……うん。でも、今はよく分かんない……。じゃあ、しない方が良いってこと?」
「今は分からなくても仕方がない。だから好きにやってごらん。でも、その後にどうなるか、良く学ぶことが大事。……いいね?」
「うん、ちゃんと分かるようになる」
その返事と表情は真剣そのもので、今も確かに成長しているのだと実感し、私は胸がひそかに温かくなった。
そうしてリルは荷台から下り、青年の前まで無造作に近付いた。
キョトンとして不思議そうに見つめられる中、胸の前で手を組み、そっと目を閉じる。
そのすぐ背後の中空へ、ナナがふわりと舞い出ると、青年の傷に手を触れた。
その瞬間、周囲のマナを風の力で集約される。
たちまちの内に、裂けた皮膚が癒やされ、引き攣った跡を残して治癒された。
青年は目を見開き、何度も腕を確認すると、それから震えながら礼を述べた。
「ま、まさか、精霊の愛し子様だったなんて……! た、助けてくれて……いや、そのお力で癒して下さったこと、本当に……あ感謝します……!」
それは感謝というより、崇拝に近い。
熱心に礼を述べる姿に申し訳なさを感じる程で、リルもほとほと参ってしまっていた。
「お、お母さぁん……! その“先”って、こういうこと?」
「間違いじゃないだけど、これだけじゃない。本当に大変なのは、むしろここからだ」
リルは苦い表情を浮かべて、早々に後悔している様子だ。
青年は未だに崇拝する姿勢を崩さないし、私が助けの手を差し伸べるまで、そう時間は掛からなかった。