放っておくと、いつまでも拝み倒していそうな青年を引き剥がし、獣車を村の中へと進ませた。
外からでも十分に臭ってきた悪臭は、中に入ると更に強烈な刺激臭として、鼻腔を直撃する。
「これは……、凄いな……」
「くじゃ~い……!」
リルは風の膜を纏っている筈だが、それを貫通する程の悪臭だった。
それも当然と言える。
悪臭の原因は、家畜臭だけに留まらず、ヒトの糞尿と、そこに獣脂までが混ざり合って、ここまで酷い臭いになっているのだ。
近くを通る獣人もまた、その臭いの発生源となっており、ツンとした臭いが鼻をつく。
「鼻が曲がるぅぅ~……!」
実際に鼻を押さえて言うリルに、私は窘めながら言った。
「そういう態度は止めなさい。リルだって誰か他人に、そういう真似をされたら嫌だろう?」
「そうだけど……。でも、なんでこんなに臭いの? 街でもさっきの村でも、こんなヒドいことなかったのに……!」
「原因は一つじゃないからね。髪を結って整えるのに使う油や、蠟燭の材料になる油、それらに獣脂を使っているのも、大きな要因だろう」
村に旅人が立ち寄るのは、相当性珍しいらしく、敢えて近寄ろうとする者はいない。
だが、それでも刺すような視線は、そこかしこから感じていた。
そして、彼らの結った髪には、油独特のテカリが見える。
獣脂は彼らからすると、とても身近で簡単に手に入るものに違いなかった。
そして、代替品となる油は植物由来で、それらはいずれも高価だ。
たから、どうしても安価な方を使わざるを得ないのだ。
道を進んで行くと、肥料作りをしている一人の女性に出会った。
じっとりとした視線を向けつつ、背中に背負った赤子を守るように、身体の正面を向けている。
素足で家畜の糞を踏み、それで発酵を促すという原始的な方法をしており、踏んで出た液体が生活用水路へと流れ込んでいた。
不衛生さに眉をしかめていると、リルから呻き声が漏れる。
「うぅ……っ!」
悪態こそ
それについては、特別咎めようとほ思わない。
リルからすれば、あり得ないことのオンパレードで、本当ならいますぐ回れ右したいくらいだろう。
だが、野宿続きは身体に堪える。
疲労の蓄積は馬鹿にならないものだ。
せめて屋根のある場所で、リルを休ませてやりたかった。
「狭い村だし、宿なんてないかもな……」
だが意外なことに、しっかり宿は存在していた。
宿屋の者が獣車を見つけ、丁寧にひと
部屋を用意してくれる。
藁敷きだが、綺麗に掃いた温かい部屋ではあるものの、全体としては薄汚れて見える。
こうした農村部の宿では、特に珍しくもないのだが……リルは激しい抵抗を見せた。
「ここで寝るの!?」
「そうとも。どうやら綺麗な部屋を用意してくれたみたいだし」
「どこが!? こんなの……、こんなの酷いよ!」
「落ち着きなさい、リル。こんなのは、ごく普通のことさ」
努めて穏やかに諭して言う私に、リルは藁を指差して言う。
「なんか、ピョンピョン跳ねてる、虫みたいのいるよ!?」
「それはノミだ。もっと上等な宿でもね、こうしたことは珍しくないものだよ」
「おかしいよ……。これが普通なの……? 外の世界、ばっちぃよ……」
明らかに落ち込んだリルに苦笑しながら、私は慰めの言葉を掛ける。
「大丈夫、マナ溜まりの上に作られた街や都市は、もっと衛生的だから。そういう所はね、文明や文化が発展してるし……そもそも、その前提でマナ溜まりを確保しているものでもある」
「でも……じゃあ、この先にそういう街って幾つあるの?」
「獣人国に限ったら、一つくらいかな……」
リルは絶望に顔を青くさせ、藁の布団を叩く。
「もう、ヤ! 外でした野宿の方がマシ! お家に帰りたい!」
「そうとも。早く帰るには、早くに寝て、早くに起きて……そして、早く移動を開始しないとね」
「でも、こんな所じゃ安心して寝れないよ……。ねぇ、お母さん、ホントにここじゃないとダメ?」
「他に宿なんてないからね。我慢するか、寝ている間も風の膜を張り続けるか、そのどちらかしかないな」
「お母さんが、何とかして!」
「駄~目。自分の事は自分で出来るよう、リルもそろそろ自覚して良い頃だ。勿論、リルの手に負えない事は、お母さんが代わりにやるけど……出来る事はやりなさいね」
リルは大変不服そうにしていたが、結局それ以上、文句を言う事はなかった。
ナナは現在、姿を消しているから、リルの内側から、何事か諭されたのかもしれない。
夕食を終えて一息つき、後は休むだけとなった頃——。
部屋の戸が、トントン、と控えめに叩かれた。
「……どなたかな?」
開けると、小さな少女が祖母らしき女性に手を引かれて立っていた。
少女の脚には、古い打撲痕が残っている。
「旅のお方……。精霊の御力を使える方だと……、村で聞きまして……。どうかこの子を診ては頂けませんか……」
祖母の声は震え、必死で、切実だった。
そして、治療を望む声は、それだけに留まらない。
その後ろに続いて多くがひしめき合い、治療を望む声を発している。
肩を痛めた木こり、咳に苦しむ少年、足を挫いた母親、全身が赤くかぶれた女性……。
眼病に罹り、腫れた両目から目ヤニを溢れさせる小児もいる。
リルに癒やせる者もいれば、到底手に負えない病気の者まで、実に様々だ。
それが部屋の前に溢れていて、しかも後続が続いて止まらなかった。
「さっき、若者を助けたって本当ですか?」
「娘を治してやってください、どうか……!」
「お代は無理ですが、代わりに何でもしますから……!」
次々と、戸の外に集まる人影。
膝を折って懇願する者さえいる。
「ね、ねぇ、お母さん……。これ? お母さんが言ってたのって、これのこと?」
「……そう、これが“力を使うことの代償”、で、よくあるパターンの一つだ。時として、善意は善意を呼ぶけれど、それだけで済むとは限らない」
「逆のことも……、ある?」
「というより、誰かを救おうと思ったらね、目の前の一人だけでは足りない、と言う事もあるのさ。手を差し伸べるなら、全員を救う覚悟と力がないと、不十分な事がね」
「わたし……、余計な事しちゃった?」
しゅん、と耳を垂れるリルに、私は笑って撫でてやる。
「そんな事あるものか。言ったろう? リルを誇らしく思うと。手に負えない事は、代わりにやるとも言ったよ。今はまだ、リルは学びの時だ。――後は、お母さんに任せなさい」
戸の向こうからは、人々の声が途切れることなく届く。
夜の冷たい空気に、それはまるで波のように押し寄せていた。
その光景を見て、私はふと思う。
村の入り口辺りで、青年一人の怪我を見た時は、まさかと疑うだけだったが……。
この人数ならば呪いが原因かも知れず、決して馬鹿にしたものではなくなる。
――私に魔力を使わざるを得ない状況……。
もしこれがそうだと言うのなら、私こそが事態を解決せねばならなかった。
「お母さん、どうするの? わたしも……、わたしも出来そうな事は手伝うよ。出来ることがあれば、だけど……」
「うん、ありがとう、リル。流石に、この人数は手に余る」
優しさは、生まれつきの才能のようなものだ。
今回は、その優しさが招いた様なものだが、だからこそ責任を取りたがっている様に見える。
私の方にも、断る理由はなかった。
そんなリルが、小首を傾げて尋ねる。
「お母さんでも大変なの? もっと、パッと治せない?」
「出来なくはない。……出来なくはないけど、それじゃあ解決とは言えないね」
「……どうして?」
詳しく説明しても良いが、今も数を増やす治療希望者を放置する訳にもいかない。
実際に作業をしながらの方が良さそうだ。
春の夜気はまだ冷たい。
けれど、部屋の外には人々の息が白く揺れ、その不安と期待が戸越しに伝わってきていた。
「口より手を動かした方が良さそうだ。……さぁ、始めるよ、リル」