保存食を中心とした昼食を取ったあと、一つ森を抜け、また別の森へと入った。
こちらの森は日当たりが悪い“影森”だから、未だ夜露が残る草の匂いで満ちていた。
暗い森は弓矢の練習に、全く向いていない。
日当たりの良い森と違って、厄介な魔獣が潜んでいることも多く、だから手早く脱出したかった。
無論、そうした機微は森獣の方が余程、ヒトより心得ている。
その健脚をもってすれば、“影森”を抜けるの造作もなかった。
夕方前――まだ日が傾く前に森を抜け、広い平原に出た。
見渡す限り何もなく、ただ一本の道が貫く。
「良かった。やっと抜けた~……!」
リルが安堵の息を吐くと、私は苦笑しながら、その頭を撫でた。
「暗い森は怖いか?」
「怖くなんかないよ。ただ嫌いなだけ! ウチみたいな森じゃない森は、全部ダメな森なの!」
それは暴論だが、言いたい事は分かる。
誰だって、住み慣れた場所が一番落ち着くものだ。
「……でも、なぁんにもないね」
「この道を進めば、獣人国で唯一都会と言える街に着く。リルが望んだ、綺麗な寝床のある所だ。明日には着けるだろう」
「ホント!? やった!」
リルは殊の外喜び、御者台の上で跳ねる様にはしゃいだ。
それを見ていた私とナナは、何を言うでもなく目を合わせ、ただ苦笑を零した。
野宿を苦にしないリルだが、藁の寝床はお気に召さないらしい。
……まぁ、ノミが跳ねていれば、誰でも似たような反応になる。
慣れてくれないと、宿選びに苦労しそうだ、と思いながら、私は獣車を前に進ませた。
※※※
まだ陽は高いが、今日の所は野営の準備をする事にした。
リルが手にした弓を嬉しそうに抱いているからで、早く射ってみたいと、落ちつきなくしているからでもあった。
即座に夕食の準備に入れるよう、粗方用意だけして、私達は少し離れた場所まで移動する。
「さて、リル。弓の練習をする準備は出来た?」
「うん! 矢も全部持ってきた!」
リルは胸を張り、矢筒を背負っては自慢気に見せる。
その顔は期待で明るくて、しかし、ほんの少し緊張の影が混じっていた。
私は森獣を野原の端に座らせ、好きに食をさせる。
そうしながら、周囲の危険がないかざっと確認して、リルを前に立たせた。
「まずは姿勢から。弓はね、力よりも真っ直ぐ立つことの方が大事なんだ」
私は自分の姿勢を示し、リルに真似させる。
そうして背筋、肩、腕――ひとつひとつの位置を調整していく。
「ナナも良く見てやってくれ。風が乱れる時は、教えてあげると捗るだろう」
「はいはい、了解よ」
リルの後ろ付近を周遊しているナナが、気楽な調子で手を振った。
そうして、いよいよ姿勢だけは及第点と言えるものが出来ると、リルは少し緊張した面持ちで矢を番える。
私はその後ろで、姿勢を支えながら言った。
「胸で吸って、背中で引く……手で引かないで、背中を意識する。さぁ、射ってみて」
アドバイス通りにリルは姿勢を正し、深い呼吸を繰り返す。
そうして、集中力を高めて、最後まで引かれた矢が指から離れた。
ひゅっ、と風を切る音と共に、矢は殆ど真横と言える軌道で飛んで行き、草むらへと突き刺さった。
「あ、あれ……?」
「ふふ、最初から当たる人は、早々いない。弓は失敗するところから、身に付けるものなんだ」
リルはあからさまにホッとして、また構え直す。
二射目は地面へ、三射目は高く空へ。
ナナが風を送ろうとして、逆に矢の軌道を乱した時もあった。
「ナナっ、いま送らなくていいの!」
「えぇ!? でもお陰で、少しは真っ直ぐ飛んだでしょ……!?」
リルは真っ赤になって抗議めいたものを口にしようとしたが、結局何も言わずに、矢を番え直す。
私はリルに分からないよう、こっそりと忍び笑いを漏らした。
それから――。
ある程度失敗を重ねたあと、私はリルの背に手を添えた。
「リル。まず、矢を“当てよう”としてはいけない。風の音、草の揺れ、体の軸……まず、周りを感じなさい」
「……はいっ!」
リルは大きく深呼吸を繰り返すと、ある時その肩がふっと緩んだ。
ナナも気配を潜めて、そよ風のように静かになる。
「……いいぞ。放して」
ヒュン、と風切り音を放って、矢は的代わりの木の幹、その横をかすめた。
「あぁ、惜しい!」
「ほんと!?」
リルの顔に喜びが広がる。
たった一度の軌道の変化だし、まだまだ命中はしていない。
それでも、子どもにとってのそれは、大きな進歩に違いなかった。
さらに練習を続け、十本射っては矢を回収し、回収しては矢を射って――。
そんな事を十数度繰り返した後、リルの姿勢はかなり安定してきた。
風向きをナナが優しく整え、私も息を止めて見守る。
そうして、未だに集中力を切らさない、リルの矢が放たれた。
す、と滑るような音がし――。
次の瞬間、矢は木の幹に、ぱすっと音を立てて刺さった。
「やった!」
リルは跳ねるように振り返る。
「当たった! ちゃんと当たったよ、お母さん!」
「うん……よくやった。よくやったね、リル」
嬉しさで耳が赤くなっているリルの頭を抱き寄せ、それから指先を改めた。
剣を握って鍛えられている手だが、何度となく射ったせいで、赤く擦り切れてしまっている。
「放っておくと、明日が大変だ。軟膏を塗っておこう」
「あたしが癒やすわよ、それくらい」
ナナがリルをベタベタに褒めながら、こちらに顔を向けて言う。
「勿論それでも良いが、指先の艶が無くなってしまうからね。両方使えば良いんだ」
「うん! ありがと、お母さん! ありがと、ナナ!」
この子はどこまでも優しく……、どこまでも芯のある子に育った。
その笑顔を見ながら、胸の奥が、じんと熱くなるのを感じた。
※※※
「さて……。当てられたからと言って、それで終わりじゃない」
リルがえっ、と目を丸くした。
「旅の最中にも、使える様にならないといけないからね。実戦で大事なのは、“撃つ前の判断力”だ」
私は少し離れ、春草の中を歩き始めた。
そうして、リルからは見えづらい角度を探す。
「リル。森で音がしたら、まずどこを見る?」
「えっと……足跡がつきやすい所、風の流れが変わる所……」
「そう。それを“感じる”んだ。目だけじゃなく、身体の全体でね……」
言っている途中で、私は指を弾いた。
その瞬間、ナナが風の揺れを作る。
リルは咄嗟に反応し、そちらへ弓を向けた。
まだまだぎこちない動きだが、感覚は悪くない。
「次はもっと速くいくぞ」
「えっ――ま、待って……!」
私は石を投げ、動きを錯覚させ、森獣にも少し走らせて足音を作り、混乱した中から正しい方角を選ばせた。
リルは汗をかきながらも、ひたむきに続ける。
――大丈夫。この子は、自分で生きる力を必ず得られる。
そう、確信できた瞬間だった。
日が傾きはじめた頃、リルはとうとう座り込んで、へたり込んでしまった。
「はぁ……っ! つかれた……。でも……やれた……」
「よく頑張った。今日だけで、随分上達したなぁ」
私は水筒を渡し、リルの髪を優しく撫でる。
「明日からも、少しずつ練習を続けよう。今日みたいに、野営前の時間を使うとかね」
「うん…。ゼッタイ、全部当てられるようになる!」
リルの瞳は強い光で満ちていた。
これから先、どんな困難が来ても――。
その度に立ち向かい、この子はきっと、乗り越えようとしてくれるだろう。
だから……、私がいなくなっても――。
脇腹から胸全体にかけて、呪いがずきりと疼く。
リルの背中をそっと抱き寄せて、私はその痛みを飲み込んだ。