玄関をくぐった瞬間、鼻に入ったのは干し薬草と焼きスープの香りだった。
床は磨き込まれた木材で、長い年月に踏まれた跡が、艶となって光っている。
壁には獣人国では良く見る、狩猟して得た大きな角装飾と、旅人の安全祈願の護符が飾られていた。
受付の奥には帳場机があり、その前に座っていたひとりの若い女性が顔を上げ、帳簿を閉じて立ち上がった。
「ミカ、今度は強引に、お客さん連れて来なかったでしょうね? ……あっ、ご挨拶の前に大変な失礼を。ようこそ、いらっしゃいませ」
柔らかな灰色の毛並みを持つ狼族の女性で、年は二十そこそこだろう。
姿勢はきびきびしているが、顔立ちには微かな疲れがのぞく。
「こちら、わたしの従姉のララ=イルファ。今は“女将代行”なんだよ」
ミカが胸を張ると、ララは困ったように眉を寄せ、しかし丁寧に頭を下げた。
「母が亡くなってから、私が宿を切り盛りしています。どうぞ、お疲れでしょう。お部屋へご案内しますね」
その声音には、若さに似合わぬ責任と、背筋に溜まった緊張みたいなものがあった。
部屋へ案内される途中、未だに付いて来ていたミカが、自慢気に言う。
「ララ姉ちゃんね、今度結婚するんだよ!」
「へぇ……? それはお目出度い」
「おめでと、ララさん!」
「ありがとう、ございます……」
リルは純粋に、その慶事を言祝いだのだが、ララ本人の返答は、どうにもぎこちない。
「……だがどうにも、貴女はあまり……喜んではいないようだ」
「いえ、そういう訳ではないんです。私は……私達は、本当に望んで結婚したいと思っています。でも、父が……」
あぁ、と不意に腑に落ちた。
娘を思う父親としては、誰が相手でも良い、とは思わないものだ。
強く愛するからこそ、娘には相応の相手を望む。
頼り甲斐があるだとか、人格だけでなく財産もあるとか、細かな条件は様々だろうが……いずれにせよ、より良い相手を、と考える。
その気持ちは、分からないでもなかった。
ララはこちらの意図を理解した顔の後、苦い笑みを浮かべて続ける。
「私は……。人族と結婚するつもりなんです」
歩みを止めず、しかし声は沈んでいく。
「でも父は、“血が濁る”と反対していて。仰るとおり、公国との問題もあって……いえ、あの人は公国人ではないんですけど……。でも、うちの一族は特に純血を重んじる方で……」
言葉の端に、獣人社会が抱える“壁”が滲んでいた。
獣人国で混血自体は珍しくなく、むしろ人族との子は身体が丈夫で美しい、と評判の地域すらある。
だが、一部の古い家柄では、血統の誇りを守ろうとする傾向が強い。
ララの指先が、無意識に胸元の小さな銀の飾りに触れた。
きっと、恋人からの贈り物だろう。
「……彼のことは愛しているし、とても大切に思っています。でも、父の気持ちも分かるんです……。“人の匂いは薄くて、群れの絆が弱くなる”……なんて、古い考えだとは思うんですけど」
そう語る横顔は、強く生きようとする若い娘のものだった。
それに対し、リルはただ静かに耳を傾けている。
私は、決して軽々しく言うべきでない、と分かりながらも、それでもそっと声をかける。
「あなた自身は、後悔のしない道を選べばいい。血より大切なものは、時として……互いを想う気持ちだから」
獣人国という場所で、反対されている結婚という話を聞かされると、嫌が応にも一人の女性が思い出される。
彼女は置いていくしかなかった男のことを悔い、そしてほんの少しの間、愛の結晶をその腕で抱く為に生きた。
私はリルの肩を抱き寄せ、手の平からその温もりを感じ取る。
「結婚が全てではないし、出来なかったとしても、幸せを模索する方法はあると思う。だから変に思い詰めて、自らを追い詰めたりしないように。味方というのは、案外自分では気付けないだけで、近くにいたりするものさ」
ララは驚いたように瞳を揺らし、そして小さく微笑んだ。
「……そうですね。ありがとうございます。旅の方にこんな話、重いですよね。すみません」
「いいさ。流れていく人だからこそ、後腐れなく話せる、と言うこともあるだろうから」
私が笑うと、ララは深く息をつき、再び女将としての顔に戻った。
「その言葉に救われる思いです。――どうぞ、こちらへ。良いお部屋がありますの。この宿でも一等、上等な部屋ですわ」
※※※
ララに案内されて、二階の一番奥の部屋へと通された。
扉を開けた瞬間、清々しい木の香りが流れ込んでくる。
室内は、獣人国らしく素朴でありながら、どこか温かな気遣いがあった。
大きな梁がむき出しで、天井は高い。
窓の外には白壁の街並みと、遠くに広がる草原が見え、風が通り抜けると、草の匂いがほのかに混ざる。
ベッドは獣人用の広い作りで、私とリルなら余裕で二人横になれるものだ。
毛織の敷物は分厚く、ふわりと沈む弾力が心地よかった。
壁には旅人向けの注意書きが掛かっているが、そこにも獣爪の模様が刻まれていて、遊び心が垣間見える。
リルは部屋に入るや否や、きらきらと目を輝かせた。
「お母さん! あのね、ここ見終わったら、ちょっと探検して来てい~い?」
「いいとも、一緒に行こう。走ってはいけないよ。他の人に迷惑かけてはいけないから」
「はーい!」
元気よく返事し、部屋の形や装飾などを見物すると、尻尾と共に髪も揺らしながら、リルは直ぐさま駆け出していった。
「走るなと言ったのに……」
有り余る好奇心は、どうやらリルを止めてくれないらしい。
私は荷物を置くだけ置いて、リルの後を追って階段を降りる。
すると、廊下の先で誰かと話しているのが見えた。
相手は、がっしりとした体格の狼族の男で、白に近い灰色の毛並みに、深く刻まれた目尻の皺が見える。
老いてなお鋭さを失わぬ、森狼の長のような風格があった。
掃除道具を持っていなければ、どこぞの傭兵かと、勘違いしたかもしれない。
リルがその逞しい腕を見上げているところに、私は近づいた。
「リル、どうかしたのか?」
「ううん、ぶつかっちゃったから、謝ってたの」
「あぁ……。だから、気を付けなさい、と言ったのに」
「いや、儂も小さなお客さんが見えておらんかった。済まなかったな、嬢ちゃん」
そう言って、厳めしい顔に笑顔を貼り付け、リルの頭をぐりぐりと撫でた。
声こそ低いが、その実、穏やかで優しいヒトらしい。
もしかすると、この人がミカの言っていた叔父さんだろうか。
つまり、ララの父親――。
「うちの娘が失礼した。ララさんの父親かな……?」
「あぁ、そうだ。ガルオ=イルファと言う。表のことは娘に任せ、儂は裏方に徹している。部屋のことで不満があれば、儂の方に言うといい。可能な限り対応しよう」
「あぁ、いや……。部屋について不満はないんだが……」
「うん! ふかふかで、キレイで、良い匂いした!」
リルが満面の笑みで言うと、ガルオは嬉しそうに破顔して、またリルの頭を撫でた。
そこで、どうせなら、と個人的な疑問を投げ掛けようとし……少々、思い留まる。
他人の家庭の事情だから、深く所まで突っ込むんで訊くのは、むしろ無礼になるだろう。
しかし、かつての友と似た境遇を知った手前、どうにも無視出来なかった。
「――ララの結婚の件、反対だと聞いているが……」
この父の威圧感を前にすれば、娘が苦悩するのも無理はないだろう。
ガルオは「ふむ」と短く唸ると、掃除道具を小脇に抱え、腕を組んでから口を開いた。
「反対は、しておらん」
「――え?」
私だけでなく、話を聞いていたリルまで声を上げた。
「でも、聞いたよ。ララお姉ちゃんから、直接……」
「客人に何を話しているんだ、あいつは……」
重い溜め息をついたものの、話を切り上げるつもりはないらしく、話はそのまま続く。
「ともかく、反対したのはあくまで、最初の頃だけだ。あの男がララに本気なのは、見ていれば分かったことだ。それに……いや、それで『嫁取り』に走られても困るからな……」
「あぁ……」
私は言葉を返せず、押し黙る。
そんな私を、リルは不思議そうに見ていた。