「いつの事だったか……。あれは十年以上前の話だ。一人の女を連れて、逃げだそうとした男がいた。儂は妻の実家に顔を出している時、それを目撃した……」
ガルオは顔を上げ、遠い眼差しを外に向けた。
その目には、憐憫と哀悼が籠もっている。
「東にある、存続だけは長い士族らの村でな……。逃げ切れないと悟った男は、女だけでも逃がそうとした。普通、どちらか一方でも捕まれば、『嫁取り』は失敗と見做されるものだが……」
ガルオは顔を顰め、それからやるせない溜め息をつく。
「男はそれでも激しく抵抗した。捕縛を買って出た若い衆も、それで白熱してな……。非は当然、男の方にあるから、その暴力も苛烈なものになっていった」
「分かる気がするよ……」
「元より、若いのは血の気が多いものだ。それもあって、私刑は凄惨なものになり……男は体中の骨を折られて死んだ」
私は我知らず、リルを抱き寄せては、その肩を強く抱いていた。
その手にも力が籠もる。
「お母さん……?」
「儂はな……実に凄惨で……、醜い現場だと思った。それを見た時、『嫁取り』なんぞという風習も、それをさせるだけ思い詰める状況も、作るべきではない、とも思った」
言葉こそ粗いが、その芯には娘を思う温かさがあった。
ガルオは外に向けていた視線を戻し、再び私を見る。
「だが、だからと言って、やはり人族の男と結ばれるのには抵抗がある。だから、結婚自体は認めても、式には参加しない。あれにもそう伝えてある」
「そうか……」
今やララにとっての親は、このガルオしかいない。
その親が参列しない結婚式など、外聞が悪いどころではない筈だ。
しかし、ガルオは許より反対していた立場で、『嫁取り』に走られるぐらいならば、と飲み込んだ。
ガルオとしては、十分譲歩している格好だろう。
ララとしては、認めてくれるなら全面的に……と考えているのかも知れないが、異種族同士の結婚となれば、譲った方だろう。
反対はしていない。
認めてもいる。
だが、全てを祝福できるわけでもない。
“許容”と“戸惑い”が入り混じった、獣人の誇りならではの葛藤が、そこには見え隠れしていた。
いずれにせよ――。
私としては、それだけ譲歩してくれたなら十分では、と思ってしまう。
リルの母――ニコレーナの末路を知っているだけに、尚更だった。
「お母さん、肩いたい」
「あぁ、ゴメンよ、リル……」
私は咄嗟に力を抜き、今度はその肩を優しく摩る。
ガルオは頭をガシガシと掻くと、そのまま背を向けてしまった。
「まったく……、儂も娘の事を言えんな。客人に聞かせる話ではなかった……。すまないが、忘れてくれ」
「そうするよ。完全に拗れてる訳でもないんだ、後は当人たちの心の持ち様の問題だろうさ」
実際に結婚し、家族となり、子が産まれ、ガルオも孫と接する内に、より親密になるかもしれない。
それは実際、その時にならなければ分からないだろうが、いずれにせよ……私が仲裁に入る問題ではなかった。
だがそれでも、亡き友を思い、老婆心ながらに述べる。
「認められないのは辛いことだ。正面からの反対でなくとも、式への不参加は大きなシコリとして残るだろう。娘には気付かれる程度の位置で、遠くから見守るのはどうかな」
「ふむ……。まぁ、考えておこう」
素っ気なく頷き、ガルオは今度こそ完全に背を向けた。
それは拒絶の姿とも取れたが、声音は優しいままだ。
態度ほどに、悪く思っている訳ではないのだろう。
「私達は旅の途中で、直ぐにでも経つ予定だ。ここで聞いた話も、きっとすぐに忘れるだろう。……だが今は、良き家族関係を築けるよう、祈っているよ」
「そう願う。……良き滞在を」
※※※
夕刻が近づき、宿の一階の食堂には獣脂の灯りがともり始めていた。
厨房からは、肉と野菜を炒める香ばしい匂いが広がり、旅人などの宿泊客がまばらに座って夕餉を待っている。
リルは、と言うと――。
宿の中を一通り見て回って満足した所に、誰かに声を掛けられていた。
「リルちゃん、探検はもう満足した?」
柔らかく、しなやかな尻尾を揺らしながら近づいてきたのは、昼間私たちをこの宿に案内してくれたミカだった。
茶色の毛並みが夕陽の照り返しを受けて、金色に輝いて見える。
犬族であるリルとは対照的で、明らかに猫族の少女らしい身軽さが垣間見える。
「ミカお姉ちゃん!」
リルはパアっと顔を明るくし、両手を振った。
この国に来てまだ間もないのに、もうこんなに懐いている。
ミカもまた両手を振り、リルの前に立つとその頭を撫でた。
「ねえねえ、さっきね、裏庭でちっちゃいフロル鳥の巣を見つけたの。卵があって、触ると温かいんだよ」
「えっ、見たい!」
リルは弾む声で答えた。
目の輝きからして、もう全身が“わくわく”で満たされているのが分かる。
私は二人に近づき、注意だけはしておく。
「巣を壊しちゃ駄目だぞ。親鳥にも気をつけること」
「はーい、お母さん!」
「わかってますって、リルちゃんは良い子だよ」
ミカが胸を張って答えた。
どうやらミカは、リルを“世話したくなる年下”として気に入ったらしい。
ミカは軽い足取りで裏庭へリルを案内し始め、私は少し離れた位置から見守ることにした。
二人の会話が、風に流れて聞こえてくる。
「ねぇリルちゃん、さっきから思ってるんだけどさ……耳、ちっちゃくて可愛いよね」
「ミカお姉ちゃんの耳のほうが、ふわふわだよ! 触ってもいい?」
「いいよ、くすぐったくしないなら」
ミカが頭を傾けると、リルは遠慮なく両手で猫耳を包み込んだ。
ミカは「ん〜」と嬉しそうに目を細める。
「柔らかい……!」
「ふふっ、ありがと。リルちゃんの手、あったかいね」
しばらくして、リルが満足して手を離すと、ミカはある一点を指差した。
「ほら、あれだよ。あの枝の間」
低木に作られた巣だった。
余りに小さな木だから、抱えてやれば、その巣を上から見ることも出来る程だ。
リルはつま先立ちになって覗き込む。
「……卵だ。ほんとに、ぽかぽかしてる……!」
そして、リルはそっと両手で卵を包み込み、その温かさを感じて微笑んだ。
私は、静かにその光景を眺めながら、胸の奥で思う。
――リルはどこまでも自然体で、嫌味がない。
だから自然と、誰にでも好かれるのかも知れなかった。
いや、と改めて思う。
ヒトとヒトは、本来そうしてあるべきなのだ。
他人と自分の溝なんて、本当はとても小さい。
そこに踏み入る……あるいは、踏み込んで行けると思わせる気持ち。
それが誰にでも備わっていたら、きっと争い事はもっと小さく、そして簡単なものになっていただろう。
私が思案に耽っている間にも、二人の間では何かしらの遣り取りがあったようだ。
ミカはリルを見つめ、声音を落とした。
「リルちゃん、明日もいるの? ぜひ見ていって欲しい事があるんだけど……」
「えっと……」
リルは困った顔をして、こちらを見つめる。
今は急ぎの旅で、明日の朝には経つと、リルには伝えてあった。
ダメだ、と伝えようとしたところ、リルはそれを敏感に察知し、目尻にみるみる涙が溜まっていく。
リルの涙には、私も弱い。
仕方なく、首をゆるゆると振り、両手を腰に当てて言った。
「仕方ない……、お昼までだよ。それ以上は、流石に遅く出来ないからね」
「うん、ありがとう、お母さん! ――やった、やった! ミカお姉ちゃん、なに見せてくれるの?」
「んふふ~! まだヒミツ!」
「えぇ~!?」
リルは聞かせて、聞かせて、とせがみながらじゃれ付き、そして二人は手を繋いで裏庭を駆けていく。
夕陽に照らされる、その小さな背中を眺めながら、私はそっと息を吐いた。
「……いい友達が出来たな、リル」
その光景は、旅の疲れや脇腹から広がる痛みが、少しだけ軽くなる瞬間だった。