翌朝、柔らかい朝日が街の屋根を照らし、獣人国の大通りは既に活気づき始めていた。
本日はミカとの約束があり、それまではまだ少し時間がある。
それで時間を潰す傍ら、観光でもしようと宿の玄関を出たのだが、その途端、リルは目を丸くして立ち止まった。
「お母さん……、すごい……!」
その声に、私は思わず笑ってしまう。
小さな胸が、溢れんばかりの驚きでいっぱいになっているのが、もう背中から見ても分かった。
獣人の街は、人間の街とまったく違う種類の賑わいを見せていた。
それは、ただの喧騒とは違う。
騎獣たちの爪が石畳を叩く軽快な音。
長身の狼族が低く喉を鳴らし、挨拶を交わす声。
猫族の子らが屋根の上を跳ね渡る足音。
鳥族が軽やかに翼を広げ、軒から軒へ滑るように飛ぶ風切り音。
ヒトと交わって暮らす獣人は、ヒトの暮らしに合わせて種族の特性を表に出したがらないから、こうした光景は新鮮だった。
だが今は、それらが全部混ざり合って、街そのものが“生き物”のようにさえ感じる。
リルは、耳をそばだてて、キョロキョロ戸見渡した。
「ねぇ、お母さん! 空飛んでる人がいる! 本当に飛んでる人が……!」
「あれは鳥族の商隊だろう。荷物を運んでるんだ」
「わぁ……! 足で持ってる……!」
たしかに、鳥族の青年が器用に脚で荷袋を抱え、滑空していく。
リルは口を開けたまま、しばらくその姿を追っていた。
通りを進むと、獣人の市場が見えてきた。
リルは私の袖を引っ張り、目を輝かせる。
「いい匂い……! お肉? それとも……お香?」
「どっちもかな。ここはそういう国だから」
煙草の葉を混ぜた薬草の香りと、炭火で焼かれる肉の匂いが空気を満たし、そのどちらにも敏感な獣人たちが、鼻をひくつかせながら行き交っている。
道を歩く傍ら、リルはいずれ一つの屋台を指差した。
「あのお肉、丸くて大きい……!」
「あれは“アグルの丸焼き”だ。この国の名物だな」
「食べてみたい!」
屋台の店主――大柄な猪族の男が、ニカッと牙を見せて笑った。
「お嬢ちゃん、見る目があるな! 今日は脂がよく乗ってるぜ!」
リルはおずおずと私を見上げ、仕方なく苦笑して言う。
「買って帰ろうか。でも……、手は服で拭かないように」
「うん!」
リルは喜びを全身で表し、ぴょんっと跳ねた。
更に進むと、街角で豹族の兄妹が四足歩行の、見上げる程の大きな獣――森象に乗っていた。
「お母さん、あれ……! あんなおっきい動物に乗ってもいいの!?」
「まぁ、確かに……。ちょっと交通が混雑しそうだけど……禁止されてはいないな」
「えっ……、されてないの? 歩くのもゆっくりなのに……」
「走れば速いんだよ。でも、重さで周囲が揺れるからね。街中で走るのは禁止されてる。だから、あぁなっちゃうんだな。街中までの乗り入れを禁止しないのは……うぅん、昔ながらに続いてるからかな」
「へぇ……」
リルは一歩近づき、森象の目を見た。
森象は穏やかに瞬きを返し、鼻を軽く揺らした。
「わぁ……、優しそう……!」
そう言っては喜び、リルはそれからも、街のあちこちで同じような驚きを繰り返した。
狼族の衛兵の大声にびくっとしたり、薬草店で巨大な犬型の獣人が空き瓶を洗っているのを見て固まったり、猫族の子供が背丈より高い荷物を軽々と運ぶのを見て拍手したり……。
鳥族の老女が滑空して買い物袋を運ぶのを見て「魔法みたい」と呟いたりもした。
そのひとつひとつが、リルにとっては、世界の広さそのものだった。
私はその横で、リルの肩越しに街を眺めながら思った。
――リルには、まだ見えていない景色がたくさんある。
――そして私は、それをできる限り見せてやらないといけない。
密かな決意を固めていると、リルが小さく息を呑む音が聞こえた。
「お母さん……この街、すごいね。色んな人がいて……みんな、楽しそうで……」
「空元気な所もあるだろう。直ぐそこでは、公国との争いが激化しているから。でもだからこそ、普段通りの生活を維持しようとしているのかもしれない」
「そういう、ものなんだ……。ぜんぜん、そんな感じ、しないのにね」
「まだ戦火が、ここまで来ていないからね。でも、拡大させない努力は間違いなくしている筈で、その雰囲気は今もあるよ」
「そうなの? ぜんぜん、分かんない……」
リルは周囲を見渡して、活気に溢れるばかりの通りを見やる。
そんなリルの頭を撫でながら、私もまた遠くを見ながら言った。
「それは努力している誰かのお陰だね。国境まではもう、三日の距離だ。逃げ出す者が列を成していても、本当は不思議じゃないんだ」
それが見えないのは、為政者が有能だからか。
それとも、彼ら獣人が現実を否定し、見たい虚実にしがみ付いているからか。
リルは胸の前で、両手をきゅっ、と握りしめた。
「わたし……もっと、いろんなところを見てみたい」
「あぁ、見せてやりたいな。もっと多く、もっと多様に……」
呪いが疼く胸を押さえながら、私は笑顔でその言葉を返した。
※※※
リルと一緒に露店の並ぶ通りを歩いていると、遠くで人だかりが揺れ、ざわめきを耳が拾った。
「……騒ぎ? 何かあったのかな」
「さて……?」
リルは興味と警戒が半々で、騒ぎの方向に行こうとした。
特に止める事もなく、私もそれについて行く。
ここから聞こえる罵倒めいた言葉からしても、騒ぎの内容は想像が付く。
危険はごく少ないと見て、リルの好きにさせた。
私の予想が正しければ、起こっている騒動は、リルが獣人国をより知るには良い内容だろう。
人垣の隙間から覗き込むと、そこでは怒鳴り声が飛び交っていた。
何やら緊迫した空気……にも思える。
「おい、わしの孫の尻尾のふさふさ具合は、この街一番だって言ってんだろうが!」
「はぁ? うちの息子の耳の立ち方を見ろ! 朝日に向かってすくっと伸びるんだぞ! もしも大会なんてあったらなぁ、まず優勝まちがいなしだ!」
「なんだと!?」
「やるか!?」
今にも一触即発の勢いで、胸ぐらをつかみ合う二人の男がいた。
――どちらも立派な体格の獣人で、その周りでは通行人たちが「また始まったよ」と半ば苦笑いしながら眺めている。
それを見たリルは呆然とし出口を開けた。
「な、なにこれ……。喧嘩、じゃない……?」
「違う。獣人の人たちって、子どもを本当に大事にする民族なんだ。自慢も愛情の一部で……だから時々、ちょっと熱が入りすぎる」
ちょうどその時、別の獣人の母親らしき人が割って入った。
「はいはい! 二人とも落ち着きな! まったく……大の大人が、働きもせず何やってんだい! アンタんちの店、亭主が帰ってこないってカンカンだよ!」
「おぅ……、そりゃ……ヤバイな」
「スマン……」
どうやら、この二人の男性と家族な訳ではないようだ。
だがどちらにしろ、どこの国でも肝っ玉の据わった母に、男は弱いものらしい。
その母親が、意気消沈した男二人へ、勝ち誇った笑みを浮かべる。
「大体、うちの娘が昨日初めて爪を研いだんだから、今日のところはうちの子が一番なんだよ!」
「なんだと!?」
「何ぃ!? それはまた、全然別の話だろうが!」
場はさらに熱を帯びる。
周りの住人たちは、慣れた様子で「まあ今日も平和平和」と笑いながら通り過ぎていく。
リルもまた、ついに緊張を飛ばして笑った。
「……すごい国だねぇ」
けれど騒ぎの中心では、子どもたち本人はどこ吹く風で、尻尾を振ったり転げ回ったり、親の熱戦など気にも留めていない。
それを見て、更にリルは微笑んだ。
「でも、なんか……
私はリルの言葉に頷きながら、胸の奥が少しだけ和むのを感じていた。
「そうだな……。いい街だよ、本当に」