観光がてらの時間潰しも十分堪能した後で、ミカの「見せたいもの」を見る為に、私たちは宿へ戻った。
廊下を抜け、店の奥にある静かな部屋へ入ると、窓から柔らかな光が差し込んでいた。
その中心では、ミカが少し緊張した面持ちで待っていた。
近くにはミカの家族と思しき者達と、ララやガルオも参列している。
「……それで、今日なにするの? もう教えてくれるんでしょ?」
何やら緊張した雰囲気が漂う中、リルがそっと問いかけた。
ミカは小さく頷く。
「うん。今日はね、髪結いの儀。あたしが大人になる日なの」
リルは驚いたように目を丸くした。
「十二歳って言ってたよね? それなのに……もう?」
「そうだよ、それが私たち獣人族じゃ普通なの」
その言葉を聞いて、私は胸の奥が少し締めつけられる気がした。
リルが十二になった時、私はきっとまだ“子ども”と思っているだろう。
けれどこの国では、もう“自分の足で立つ者”と認められる。
獣人国では、子どもはとても愛され、大事にされ――。
そして恐ろしく早い時期に、大人の仲間入りになる。
無論、いきなり即戦力として期待されている訳ではないが、もう子どもだからと甘やかされる事もない。
だが、今日という日を、ミカが心待ちにしていたのは確かで、それは表情を見ればよく分かった。
しばらくすると、髪結い師が入室してきた。
落ち着いた毛並みを持つ年配の獣人女性で、節くれ立った手は年相応なものの、かくしゃくと背筋は伸び、その立ち姿は長年の経験を物語っていた。
「それじゃあ、ミカ。始めるよ」
「はい……、お願いします」
ミカは椅子に腰かけ、背筋をぴんと伸ばす。
まだあどけなさが残る肩が、興奮で震えているのが見えた。
そして真っ直ぐ前を向き、期待に溢れる顔をしている。
髪結い師はまず、櫛を使わずに指でミカの髪を梳きはじめる。
その度に、ミカの息がわずかに吸い込まれ、肩が揺れた。
「どうして、櫛を使わないの……?」
リルが私の袖を引いて、小声で尋ねた。
私は耳元でそっと答える。
「髪に触れた時の“流れ”を見るため、と言われているよ。この国では、髪は血筋や未来……その子の歩む道を示すものだと言われている。だから、手で感じ取るんだとか」
リルは神妙な顔で、目を瞬かせた。
「……何だか、不思議。お母さんも、私の髪を触ったら、何か分かる?」
「いやいや、お母さんにそんな事は出来ないよ。でも……、リルの未来はきっと明るいものになる筈だ」
「ほんと?」
「本当さ」
頷いて言うと、リルは嬉しそうに笑った。
そんなリルの髪を、私は指で漉く。
短かった髪は、もう肩口まで伸びていて、このぐらいの年頃ならば、よく似合う髪型になっている。
しかし、リルは私とお揃いの長さになる腰部分まで、まだ伸ばすつもりらしい。
髪結い師の方に視線を戻すと、そこではじっくりと時間をかけ、髪を束ねたり、少しほどいたり、また結び直したりしていく。
一本一本の動作が祈りのように静かで、私も息を潜めるほどだった。
「……きれい」
リルが小さく呟いた。
視線の先には、丁寧に編み込まれながら、大人びた輪郭を浮かび上がらせていく、ミカの横顔があった。
ほんの少し前まで幼かったはずなのに、まるで一本、芯が通ったかのようだ。
やがてミカの母親が、髪結い師へ一本の、淡い銀青の紐を捧げ渡す。
どうやら家から受け継いだ大切なもので、それが今、手渡される……と言うことらしい。
ミカの喉が、こくりと上下する。
「……これ、母さんの……」
髪結い師は静かに言った。
「今日からは、あんたのものだ」
その紐が、編まれた髪にそっと織り込まれ、最後の結び目がきゅ、と締まる。
その瞬間、身に纏う空気が変わった。
本当に、見えるのだ──大人になる瞬間というものが。
ミカがゆっくり振り返る。
大人びた表情を作ろうとしているのだろうが、頬が少し赤いのが可愛い。
「ど、どう……?」
リルは息を呑んだ。
「……すごいよミカ。さっきまでと全然違う……ほんとに、大人みたい……!」
そこへ母親が近づき、ミカの肩にそっと手を添えた。
言葉なんて幾らでも浮かぶのに、とその表情は物語っていたが……結局、ただ微笑むだけで終わった。
そして、二人に取っては、それで十分だった。
「素敵よ、ミカ。本当に……」
感極まって抱擁を交わす二人を、いつまでも見ていたかったが、そこへ髪結い師が近づき、静かに頭を下げた。
「これで、目出度く成人と相成った。今日からは、自分の歩く道を、自分の責任で歩いていかなければならない」
ミカは深く頷き、大きく息を吸った。
ほんの一瞬、幼い影が揺れたが……次の瞬間には、しっかりと前を向いている。
リルはその姿を、きらきらとした目で見つめていた。
この国では、十二年で大人になる。
けれどそれは、あくまで“大人の始まり”に過ぎなかった。
※※※
儀式が終わると、ミカは鏡の前で何度も髪を触りながら、照れくさそうに笑っていた。
あの編み込みは確かに見事で、少女の輪郭を一つ上の段へ押し上げている。
しかし、目の奥の輝きだけは、まだ子どもの面影を色濃く残したままだ。
そんなミカの袖を、リルが遠慮がちに引く。
「ねえ、ミカ……」
ミカは振り向き、少し大人ぶった顔を作った。
「なぁに? もう“子ども扱い”されないあたしに、何か用?」
「んひひ、凄いんだ。……じゃなくて、えっと……大人になるって、どんな感じ?」
その問いに、ミカは目を瞬かせ、そしてふっと苦笑した。
「わかんないよ。髪を結んだくらいじゃ、急に変われないよね。でも……」
編み込まれた髪にそっと触れ、ミカは言葉を続けた。
「責任を持たなきゃって思う。今日からは、自分で選んだことを、自分で背負わなきゃいけないんだって……。そんな感じ」
リルは真剣に聞き、そして真剣なままに頷いた。
その表情はあまりにも真っ直ぐだ。
今リルは一体なにを考えているのだろう。
「ミカはきっと、大丈夫だよ。だって……優しいもん」
ミカは照れたせいか、耳を忙しなく動かす。
「……リルは可愛いね。可愛いこと言ってくれて、嬉しいよ。……ありがとう」
ミカはリルの手を、そっと握った。
「優しい大人になるよ。きっとね。約束」
二人の間に、温かな空気が流れた。
旅先で……それも一夜で得られる友情は、それほど多くない。
旅人はただ過ぎ去るのみで、街の住人もそういうものだと、特別に友誼を結ぼうとしないものだ。
だが時々、こういう縁を結べる事もある。
だからこそ、旅は面白い。
やがて、私は二人に声をかけた。
「そろそろ行こうか。昼までに、街を出るって約束だったからね」
ミカは一度だけ深く息を吸い、それから笑顔を作った。
「うん、そうだった。行かないとね。──リル、またいつでも来て。大歓迎するから」
リルもそれに、満面の笑みで返す。
「うん、絶対来る!」
そこにあるのは、有り触れた悲しい別れではなく、ただ温かい別れがあった。
※※※
宿の前まで出ると、ミカとララの二人が見送ってくれた。
どちらの顔も晴れやかで、別れを惜しむ以上に、出会いを喜んでくれていると分かる。
「また来てねー!」
「どうか、お気をつけて」
私は軽く会釈し、リルは元気いっぱいに手を振り返す。
森獣の獣車もしっかり用意されていて、私たちの姿を見つけると、鼻を鳴らし、尻尾を振って歓迎してくれる。
「さて、行こうか」
宿は快適で、柔らかな寝具でゆっくりと休むことも出来た。
野宿続きで疲れた身体が、しっかりと癒やされ、リルも元気いっぱいだ。
私は荷を確認し、森獣の背に手を置いた。
「お前も頼むぞ」
返事こそなかったが、鼻息を盛大に鳴らして意を示した。
どうやら、こちらも十分休めたようで、問題なしと判断し、宿から出立する。
獣車の御者台に乗り込むと、リルは荷台の方に乗り、離れていく宿とミカ達に、いつまでも手を振っていた。
※※※
獣車はゆったりと道を進む。
昼が近づくにつれ、街は少しずつ賑わいを増していった。
広場を抜けると、子どもを背に抱いた獣人の母親たちが、互いに挨拶を交わし合っている。
その光景に癒やされながら更に進み、街を囲む城壁を抜けた途端、空気が変わった。
都会の靄が消え、森と平原の匂いが戻ってくる。
深く吸い込むと、胸の奥にまで澄んだ気配が届いた。
リルが荷台から身を乗り出しながら、ぽつりと呟く。
「ミカ……すごく、きれいだったね」
「そうだな。リルも結いたくなったか?」
「……別に、そう言うんじゃないけど……。わたしも、十二になったら大人の儀式、受けるのかなぁ?」
私は手綱から片手を離し、振り返ってリルの肩に手を置いた。
「獣人国生まれじゃないから、別にそういうのはない。……ガッカリさせたかな」
「ううん、それは本当に別にいいの。どっちって言うと、ちゃんと大人になれるのかなぁって……。そっちの方が心配」
「リルはリルだ。ミカとは当然、違う道を歩くだろうけど……きっと素敵な大人になれる。お母さんが保障するよ」
リルは照れくさそうに笑い、顔を背けた。
その仕草がまだ幼くて、また愛おしい。
街がだんだん遠くなり、風が私たちの髪を撫でてゆく。
背後から聞こえる喧騒は少しずつ薄れていき、やがて森獣たちの足音と、草原を渡る風の音だけになった。
――また、旅は続く。
あと三日ほど進めば、いよいよ国境、ロウランが示してくれた関所になる。
主要街道から逸れた場所故に、警備や警戒も薄いと言うが、果たしてどこまで信用すべきか……。
ともかくも、森獣は軽快な足運びで道を走り、髪が風に流され後方に靡く。
今は難しい事は抜きにして、心地よい風を感じていたかった。