城壁の門を背後に、賑やかな喧騒が遠くへ引いていく。
私とリルは森獣の引く獣車に揺られ、草原へ踏み出した。
ほんの少し進んだだけで、街の喧騒は驚くほど遠のく。
代わりに、柔らかい土を踏む感触と、春風が草を撫でる音が耳に染みこんできた。
冷たい空気が残っているとはいえ、日差しは穏やかで、旅の再開にはちょうど良い陽気だった。
リルはいつものように、何かを発見しては私の袖を引っ張る。
「お母さん、あれ見て! あの花、これまで全然、見なかったよね」
「あれは“鈴白草”だな。土が柔らかい場所を好む花。朝露が付くと鈴みたいに揺れるから、そう呼ばれる」
「へぇ……、なんか可愛いね」
私は笑って頷き、それから森獣の調子を聞くように手綱を揺らした。
すると、ちらりと横を向いて鼻を鳴らす。
問題ない、と伝えてくれて、視線を前方へ向け直した時――。
森獣が突然、その首をぐいと高く上げた。
思わず、背筋に冷たいものが走る。
獣は気配に敏感なものだ。
森獣ともなれば、その察知能力は他の――例えば馬よりも鋭い。
その嗅覚には、間違いない信頼が置けた。
「……止まれ」
私は手綱を引いて、森獣の足を止めた。
リルもまた、瞬時に気を引き締め、声を潜める。
「何か来るの?」
「森獣が反応してる。恐らくは……」
風向きを読むように、私は耳を澄ませた。
遠くで……地を蹴り、草を踏む微かな音。
それに混じって、落ち着きのない何かの荒い息遣いが聞こえる。
やがて、草むらの向こうで何かが跳ねた。
次の瞬間、灰色の皮毛をした猪獣が草原から飛び出してきた。
明かな興奮状態で、こちらに直進して来る。
「――っ!」
リルが息を呑んで、弓に矢を番えた。
ナナも姿を現し、リルの肩に手を添える。
その用意の良さ、そして反応の良さに及第点を与えつつ、私は猪獣に視線を固定する。
目が合った瞬間、低く湿った唸り声が上がった。
その音には、知性のない飢餓の色がしっかりと混ざっている。
リルが小声で、しかし叫ぶ様に言う。
「お母さん……!
「……うん、良いよ。練習の成果を見せる時だ。でも今は、二射目を考えず、当てることだけ考えなさい」
次の瞬間、向こうもざわりと大きく揺れた。
敵意を受けて、あちらも単なる獲物ではなく、狩人だと認識したようだ。
その意識が力となって、陽炎の如く大気を歪ませる。
単なる突進が、大木さえへし折る武器となるのは、私も良く知っている。
――猪獣“ロウグレイト”。
森を荒らす厄介な獣で、街の近くに出るのは珍しい。
「リル、あれは飢えている程に、手が付けられなくなる相手だ。正確に、目を狙わなければ止まらないから……前言を撤回しよう。今度ばかりは、ナナに補助して貰いなさい」
「はいっ!」
私も一応、腰の武器に手をかけながら、森獣に横へ出るよう促す。
そうするとすぐに身構え、低く唸った。
その瞬間、ロウグレイトが四肢を踏みしめ、跳びかかる姿勢を取った。
──街を出て、わずか数十分。
旅路はもう、波乱の幕開けらしい。
私は深く息を吸い、それから囁く様に言った。
「来るよ──リル、集中だ」
リルはこくりと頷き、弓に番えていた矢をゆっくりと引き絞った。
春の草原に、戦いの気配が満ちてゆく。
「リル、深く息を吸いなさい。焦らないで、真っ直ぐ飛ばすのを第一に考えなさい」
今の私は、手綱を操るだけで精一杯だ。
森獣はロウグレイトが距離を縮める程、背を向けて逃げ出そうとする。
しかし、リルの狙いやすい角度を維持する為、私は無理やり方向を修正した。
一歩、地面を蹴り付ける度、ロウグレイトの筋肉が膨張している気がする。
灰色のたてがみを逆立たせ、体勢を低くすると、更に速度が増した。
ロウグレイトの揺さぶりに、リルの手元が震え、照準が上手く定まらない。
より正確に、と思う度、矢は放たれず――そしてその分、彼我の距離が縮まった。
「ナナ、風をお願いっ……!」
「任せて!」
肩の上から跳ねるように浮かび上がったナナが、小さな旋風を生み出す。
だが――。
「っ……!」
放った矢は風に押されて威力こそ増したが、魔獣の前足をかすめ、地面に突き刺さるだけで終わった。
魔獣は怒ったように咆哮を上げ、さらに速度を増して突進してくる。
「落ち着いて、リル。矢は急がなくていい。魔獣が迫って来るのも、今は無視しなさい」
「む、ムリだよぉ~!」
悲鳴を上げつつ、リルは次の矢を番える。
私は距離を保つ努力をしつつ、魔獣の動きが見やすい位置へと移した。
リルは既に逃げ出したいくらいだろうが、私が代わってやる訳にはいかない。
これは、実践訓練だ。
一応、腰の武器に手を備えてはいるが、それはあくまでも防御だけ――倒すのはリルでなければならない。
「リルなら出来る! 自分を信じなさい。まだ十分な練習時間は取れてないけど、真っ直ぐ飛ばせる様にはなったろう?」
先ほど命中しなかったのは、緊張で真っ直ぐ飛ばせなかったからだ。
流石のナナも、その軌道を修正する範囲に限界がある。
「真っ直ぐさえ飛ばせれば、後はナナが上手くやる!」
「わ、分かった!」
返事と共に、リルから深く息を吸う音が聞こえた。
リルにとっては、明かな敵意を漲らせ、突進してくる魔獣など、驚異でしかないだろう。
深呼吸一つで、ロウグレイトは更に距離を詰めるのだから、恐怖で震えても仕方がない。
「リル、風で道を作るわ!」
ナナが前方に流れを作り、草が一斉に逆立った。
魔獣は突進しながらも、その風に押されるように、軌道を僅かにゆがめた。
「……今!」
私の合図と共にリルの弓が鳴り、矢が真っ直ぐに飛ぶ。
そうして、風に導かれた矢は、魔獣の右眼へ吸い込まれるように突き刺さった。
ロウグレイトはよろめき、勢いのまま土を削って倒れ込む。
実に十数歩分、地を滑ったあと、ついに動きを止めた。
リルはしばらく息を詰めたまま、弓を僅かに下ろす。
完全に戦闘態勢を崩さないのは、私が普段から口酸っぱく言っているからだ。
特に手負いの獣は、死んだと思っても反撃してくる恐れがある。
簡単に警戒を解いたら、次にやられるのは自分の方だ。
「……や、やった……?」
しかし、五秒待っても、ロウグレイトは動き出そうとしない。
新たに矢を番えつつ、リルは半信半疑のままだった。
私は微笑み、そっとリルの背中に手を置く。
「上手く貫通して、脳まで到達したようだ。良くやったぞ、リル。それに最初の失敗を、きちんと“次”に活かした」
私が褒めると、ナナがくるくる回っていつもの定位置――背中から抱き締め、肩口から顔を覗かせた。
「本当よ。リル、よくやったわ!」
「うんっ、へへ……! ナナもありがと!」
リルは弓を手に掲げながら、照れくさそうに笑った。
その横で、私は興奮状態の森獣を何とか落ち着かせ、停止させるのに四苦八苦する。
そうしてようやく停止させた後、御者台から下り、魔獣の死骸の前で私はひとつ息を吐いた。
街を出たばかりなのに、間が悪いのか、何なのか――。
私を中心として、良くないものが纏わりついている様に感じ、そしてそれは悪化の一途を辿っているように思える。
だが同時に、リルの成長を確かに感じ取れてもいた。
悪い所だけ見れば、何事も悪く見えて当然だが、リルの成長確認という良い面もあった。
今はそう思って前向きにいよう。
だが、それより――。
今しがた仕留めた、このロウグレイトをどうするべきか迷う。
一番簡単なのは、穴を掘って落とし、燃やして埋めてしまう事だ。
食料の備蓄に不安があるなら、いっそ解体して肉を得る事も考えるのだが、今は十分な余裕がある。
だが、ふと思い立って、今も荷台でナナとはしゃぐリルを呼ぶ。
どうせならば、ここで解体方法も学んで貰おう。
リルが知るべき知識は沢山あり、そしてこれもいずれ、必ず役に立つ知識に違いなかった。