混沌の魔女と獣人の子   作:鉄鎖亡者

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獣人国の街と文化 その6

 城壁の門を背後に、賑やかな喧騒が遠くへ引いていく。

 私とリルは森獣の引く獣車に揺られ、草原へ踏み出した。

 

 ほんの少し進んだだけで、街の喧騒は驚くほど遠のく。

 代わりに、柔らかい土を踏む感触と、春風が草を撫でる音が耳に染みこんできた。

 

 冷たい空気が残っているとはいえ、日差しは穏やかで、旅の再開にはちょうど良い陽気だった。

 

 リルはいつものように、何かを発見しては私の袖を引っ張る。

 

「お母さん、あれ見て! あの花、これまで全然、見なかったよね」

 

「あれは“鈴白草”だな。土が柔らかい場所を好む花。朝露が付くと鈴みたいに揺れるから、そう呼ばれる」

 

「へぇ……、なんか可愛いね」

 

 私は笑って頷き、それから森獣の調子を聞くように手綱を揺らした。

 すると、ちらりと横を向いて鼻を鳴らす。

 

 問題ない、と伝えてくれて、視線を前方へ向け直した時――。

 

 森獣が突然、その首をぐいと高く上げた。

 思わず、背筋に冷たいものが走る。

 

 獣は気配に敏感なものだ。

 森獣ともなれば、その察知能力は他の――例えば馬よりも鋭い。

 

 その嗅覚には、間違いない信頼が置けた。

 

「……止まれ」

 

 私は手綱を引いて、森獣の足を止めた。

 リルもまた、瞬時に気を引き締め、声を潜める。

 

「何か来るの?」

 

「森獣が反応してる。恐らくは……」

 

 風向きを読むように、私は耳を澄ませた。

 

 遠くで……地を蹴り、草を踏む微かな音。

 それに混じって、落ち着きのない何かの荒い息遣いが聞こえる。

 

 やがて、草むらの向こうで何かが跳ねた。

 

 次の瞬間、灰色の皮毛をした猪獣が草原から飛び出してきた。

 明かな興奮状態で、こちらに直進して来る。

 

「――っ!」

 

 リルが息を呑んで、弓に矢を番えた。

 ナナも姿を現し、リルの肩に手を添える。

 

 その用意の良さ、そして反応の良さに及第点を与えつつ、私は猪獣に視線を固定する。

 

 目が合った瞬間、低く湿った唸り声が上がった。

 その音には、知性のない飢餓の色がしっかりと混ざっている。

 

 リルが小声で、しかし叫ぶ様に言う。

 

「お母さん……! ()って良い……!?」

 

「……うん、良いよ。練習の成果を見せる時だ。でも今は、二射目を考えず、当てることだけ考えなさい」

 

 次の瞬間、向こうもざわりと大きく揺れた。

 敵意を受けて、あちらも単なる獲物ではなく、狩人だと認識したようだ。

 

 その意識が力となって、陽炎の如く大気を歪ませる。

 単なる突進が、大木さえへし折る武器となるのは、私も良く知っている。

 

 ――猪獣“ロウグレイト”。

 森を荒らす厄介な獣で、街の近くに出るのは珍しい。

 

「リル、あれは飢えている程に、手が付けられなくなる相手だ。正確に、目を狙わなければ止まらないから……前言を撤回しよう。今度ばかりは、ナナに補助して貰いなさい」

 

「はいっ!」

 

 私も一応、腰の武器に手をかけながら、森獣に横へ出るよう促す。

 そうするとすぐに身構え、低く唸った。

 

 その瞬間、ロウグレイトが四肢を踏みしめ、跳びかかる姿勢を取った。

 

 ──街を出て、わずか数十分。

 旅路はもう、波乱の幕開けらしい。

 

 私は深く息を吸い、それから囁く様に言った。

 

「来るよ──リル、集中だ」

 

 リルはこくりと頷き、弓に番えていた矢をゆっくりと引き絞った。

 春の草原に、戦いの気配が満ちてゆく。

 

「リル、深く息を吸いなさい。焦らないで、真っ直ぐ飛ばすのを第一に考えなさい」

 

 今の私は、手綱を操るだけで精一杯だ。

 森獣はロウグレイトが距離を縮める程、背を向けて逃げ出そうとする。

 

 しかし、リルの狙いやすい角度を維持する為、私は無理やり方向を修正した。

 

 一歩、地面を蹴り付ける度、ロウグレイトの筋肉が膨張している気がする。

 灰色のたてがみを逆立たせ、体勢を低くすると、更に速度が増した。

 

 ロウグレイトの揺さぶりに、リルの手元が震え、照準が上手く定まらない。

 より正確に、と思う度、矢は放たれず――そしてその分、彼我の距離が縮まった。

 

「ナナ、風をお願いっ……!」

 

「任せて!」

 

 肩の上から跳ねるように浮かび上がったナナが、小さな旋風を生み出す。

 だが――。

 

「っ……!」

 

 放った矢は風に押されて威力こそ増したが、魔獣の前足をかすめ、地面に突き刺さるだけで終わった。

 

 魔獣は怒ったように咆哮を上げ、さらに速度を増して突進してくる。

 

「落ち着いて、リル。矢は急がなくていい。魔獣が迫って来るのも、今は無視しなさい」

 

「む、ムリだよぉ~!」

 

 悲鳴を上げつつ、リルは次の矢を番える。

 私は距離を保つ努力をしつつ、魔獣の動きが見やすい位置へと移した。

 

 リルは既に逃げ出したいくらいだろうが、私が代わってやる訳にはいかない。

 これは、実践訓練だ。

 

 一応、腰の武器に手を備えてはいるが、それはあくまでも防御だけ――倒すのはリルでなければならない。

 

「リルなら出来る! 自分を信じなさい。まだ十分な練習時間は取れてないけど、真っ直ぐ飛ばせる様にはなったろう?」

 

 先ほど命中しなかったのは、緊張で真っ直ぐ飛ばせなかったからだ。

 流石のナナも、その軌道を修正する範囲に限界がある。

 

「真っ直ぐさえ飛ばせれば、後はナナが上手くやる!」

 

「わ、分かった!」

 

 返事と共に、リルから深く息を吸う音が聞こえた。

 リルにとっては、明かな敵意を漲らせ、突進してくる魔獣など、驚異でしかないだろう。

 

 深呼吸一つで、ロウグレイトは更に距離を詰めるのだから、恐怖で震えても仕方がない。

 

「リル、風で道を作るわ!」

 

 ナナが前方に流れを作り、草が一斉に逆立った。

 魔獣は突進しながらも、その風に押されるように、軌道を僅かにゆがめた。

 

「……今!」

 

 私の合図と共にリルの弓が鳴り、矢が真っ直ぐに飛ぶ。

 そうして、風に導かれた矢は、魔獣の右眼へ吸い込まれるように突き刺さった。

 

 ロウグレイトはよろめき、勢いのまま土を削って倒れ込む。

 実に十数歩分、地を滑ったあと、ついに動きを止めた。

 

 リルはしばらく息を詰めたまま、弓を僅かに下ろす。

 完全に戦闘態勢を崩さないのは、私が普段から口酸っぱく言っているからだ。

 

 特に手負いの獣は、死んだと思っても反撃してくる恐れがある。

 簡単に警戒を解いたら、次にやられるのは自分の方だ。

 

「……や、やった……?」

 

 しかし、五秒待っても、ロウグレイトは動き出そうとしない。

 新たに矢を番えつつ、リルは半信半疑のままだった。

 

 私は微笑み、そっとリルの背中に手を置く。

 

「上手く貫通して、脳まで到達したようだ。良くやったぞ、リル。それに最初の失敗を、きちんと“次”に活かした」

 

 私が褒めると、ナナがくるくる回っていつもの定位置――背中から抱き締め、肩口から顔を覗かせた。

 

「本当よ。リル、よくやったわ!」

 

「うんっ、へへ……! ナナもありがと!」

 

 リルは弓を手に掲げながら、照れくさそうに笑った。

 その横で、私は興奮状態の森獣を何とか落ち着かせ、停止させるのに四苦八苦する。

 

 そうしてようやく停止させた後、御者台から下り、魔獣の死骸の前で私はひとつ息を吐いた。

 街を出たばかりなのに、間が悪いのか、何なのか――。

 

 私を中心として、良くないものが纏わりついている様に感じ、そしてそれは悪化の一途を辿っているように思える。

 

 だが同時に、リルの成長を確かに感じ取れてもいた。

 悪い所だけ見れば、何事も悪く見えて当然だが、リルの成長確認という良い面もあった。

 

 今はそう思って前向きにいよう。

 だが、それより――。

 

 今しがた仕留めた、このロウグレイトをどうするべきか迷う。

 一番簡単なのは、穴を掘って落とし、燃やして埋めてしまう事だ。

 

 食料の備蓄に不安があるなら、いっそ解体して肉を得る事も考えるのだが、今は十分な余裕がある。

 

 だが、ふと思い立って、今も荷台でナナとはしゃぐリルを呼ぶ。

 どうせならば、ここで解体方法も学んで貰おう。

 

 リルが知るべき知識は沢山あり、そしてこれもいずれ、必ず役に立つ知識に違いなかった。

 

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