倒れた魔猪を前にして、私はその鼓動が完全に停止しているか確認した。
獣が死んだ後の静寂というものは、時に重く、深い。
ましてや魔力を宿す魔猪は、息絶えてなお、体内に微かな“余韻”を残している。
「リル、ここからは少し丁寧に見るところだ。ちゃんと覚えておきなさい。狩った命を、無駄にしない為にもね」
「はいっ!」
リルは真剣な面持ちで頷いて、弓矢を荷台に置いて寄ってくる。
その顔には幼さと、向き合う覚悟が同居していた。
私もそれに応えるべく、心構えを師のものへと変える。
――さて、始めよう。
魔猪の体は、まだ皮膚の下で淡く光っていた。
魔力が筋肉繊維を走り、残り火のように揺らめいているのが、その理由だった。
「まず、これを鎮めないと、刃が跳ね返されてしまう。魔力が付与されたナイフを使う、という手段もあるけど、それは緊急用だな」
「どうして? 切れるなら、どっちでも良さそうなのに……」
「適切な処理をするとね、肉が美味しくなる。逆を言うと、無理な解体は肉を不味くさせるのさ。どうしても急いで、その場を離れたい、とか理由がない限り、正しい方法が好ましい」
「……はいっ!」
リルが理解の色を示すのと同時、私はリルの掌を取って、死体に向けさせる。
「体内に残る魔力の波――それがどの方向に流れ、どの筋を走っているか、それを感じなさい」
「どうやって?」
「普段、ナナと魔法を使う時と同じだ。集中してご覧。触れずとも分かるくらい、強く感じられるだろう」
リルは言われるがまま、掌を翳し……それから何度となく頷く。
「うん、分かる……。これが魔力の波なんだ……」
「そう、つまりそれが、“余韻”と言う訳だ。見ていなさい。魔力はね、ここを落ち着つかせれば、それに倣って全体が静まる」
私はリルの手を取りながらゆっくりと動かし、体表の心臓付近に持って行く。
そこで魔力の放出を促せば、光が吸い込まれるように揺らぎ、そして次第に収束していった。
皮膚の隆起も収まり、魔猪の体がまるで深く眠ったかのように弛緩した。
「あ……」
思わずリルが息を漏らす。
「生き物だった力が、抜けていくみたい……」
「そう、正にその通り。これをしないと、刃が魔力の逆流を受けて暴れたり、肉が硬くなったりする。――まず“鎮めること”。それが魔獣解体において、大切なことだ」
リルは真摯に頷き、それから死体の体表を、慰撫する様にそっと撫でた。
「リル、ここを触ってごらん」
私は魔猪の肩のあたりを軽く押して見せた。
分厚い皮の下、肉との間に、わずかな空洞のような感触がある。
「……ちょっと、へこむね」
「そう、それが“境目”だ。魔猪の皮は硬くて分厚いけれど、この境目を見つければ刃は素直に通る」
私は小刀を抜き、境目に沿ってそっと当てた。
刃が触れた瞬間、リルの目の前で、皮がわずかに波打つ。
「魔力が完全には抜けきっていないから、皮が反応する。でも、心配いらない。これはただの名残りみたいなものだからね」
軽く刃を滑らせると、皮は僅かな切り裂き音と共に開いた。
その下には、猪魔獣特有の淡い赤紫色の繊維層が広がっている。
「ここがね、魔獣の特徴。魔力が流れていた道筋が、色で残る。普通の獣には見られない特徴だ」
リルは真剣な表情で覗き込み、驚いたように息を呑む。
「怖い……。でも、ちょっとキレイ……」
「その両方を感じなさい。それが命を扱う感性になる」
リルは顎を引く僅かな動きで首肯し、繊維層を見つめていた。
私は皮の端を少しつまんで持ち上げ、小さく上下に揺らすようにしながら、ゆっくりと小刀を引いた。
猪魔獣の皮は人の手の平ほどの厚みがあり、硬い鎧のような質感をしているが、境界を正しく捉えていれば、まるで縫い目をほどくように外れていく。
「皮を乱暴に引くと、残留魔力で崩れてしまう。こいつは魔力の質によって肉の味が変わるから、“魔力の流れ”には、特に気を付けること」
皮の裏側には、淡い金色の筋――魔紋が走っている。
魔力の通り道そのものだ。
「そしてこれが、魔力が特に濃く流れる場所。時に紋様みたいに見えることから、魔紋と呼ばれる」
「まもん……」
リルが指を伸ばしかけた所で、私は制するように軽く手を添える。
「触るのはいいけど、逆立てないように。魔紋は毛と違って、生きていた力の記録でもある。逆向きに撫でると、体内の魔力の余燼が暴れる事さえあるからね」
リルはこくりと頷き、そっと一本の紋を指でなぞった。
「すべすべ……。生き物の道って感じがする……」
「おや、なかなか良い事を言うね」
「んひひ……!」
皮をすべて剥ぎ終えると、丸めて横に置いた。
厚い皮は荷にすると重いが、加工すれば丈夫な革になる。
幾らか路銀の足しになるだろうし、荷台にはまだスペースに余裕があるので、持って帰る事にした。
次に魔猪の腹に手を当てる。
そこにはまだ微かな温度があり、空気よりずっと温かい、生き物としての残滓が残っていた。
「リル、ここは少し慎重に見るところだよ。……大丈夫?」
「うん……、見たい。ちゃんと」
私は微笑み、小刀の背を使ってお腹の線をなぞった。
刃は使わず、まず指先で“中の気配”を探る。
「開く場所を間違えると、魔猪の場合は魔力袋が破裂してしまうことがある。そうすると肉がズタズタになってしまうし、内蔵が破れたら臭くてとても食べられない」
「んぇ~……、イヤだね」
「だから、――ここを避けて、こっちを通す」
私は示しながら、ゆっくりと刃を当てた。
鉄の匂いと魔力の香りが混ざったような、独特の気配が漂う。
腹を静かに開くと、中には規則正しい配列で臓器が収まっていた。
ただの動物とは違い、魔猪の臓器には淡い光の模様が浮かんでいる。
リルは息を詰めこそしたが、後ずさったりなどはしない。
「これが……ほんとに、お腹の中……?」
「そうだよ。でも、怖がるばかりではいけないよ。ここはしっかり、学ぶところだ。どこにどういう命の働きがあるか、観察してみなさい」
私は中を見せながら、わざと刃を入れず、指で軽く臓器を避けて空間を作る。
実際の解体で必要な工程とは違い、あくまで“形を見せる”だけの動作だ。
「ここは魔力袋。ほら、鼓動は止まっているけど、魔力がゆらゆらしているだろう?」
「……ほんとだ。なんか、灯りが消えそうで……消えてないみたい」
「そう、それこそが命の名残、とも言えるだろうね。そしてここからが、旅の糧を得る時、大事な部分だ」
私はそう言ってリルに強く認識させてから、肩を軽く押して見せた。
「魔猪はね、普通の猪と違って、“硬さの層”が幾つもある。魔力を使って走るとき、自分の魔力で傷付けるのを防ぐ為だ。……だからこうして、指で押すと層ごとに弾力が違う」
丁寧に説明すると、その都度リルは真剣な目で観察した。
「ホントだ……。こっちは固いけど、こっちは柔らかい」
「その感覚を覚えておきなさい。料理に使えるのは柔らかい層、保存向きなのは固い層。旅をする時は……、必要に応じて選ばないといけない事もある」
私は刃を入れ、魔力筋の流れに沿って肉を外していく。
魔力筋はきらりと光り、まるで細い糸の束のようだ。
それを避けるように切ると、肉はしっとりとした赤色を保つ。
「筋の流れを読むのは難しい。こればっかりは経験だ」
「どう食べればおいしいか考えたら、分かるようになるかな」
「それは面白い考え方だな。……うん、そっちの方が、リルにとっては覚えやすいかもね」
「……わたし、本当にお母さんみたいに、読めるようになるかなぁ?」
「なるとも。リルはもう、ちゃんと命を見て、感じている。そうだろう? 最初の一歩として大事なことを、ちゃんと理解しているんだ。だから、大丈夫」
私は必要分だけを切り分けると、リルに顔を向けてお願いする。
「残りを風で冷やしておくれ。保存するのに良い具合にね」
「そんなこと出来るの? 風の力で?」
きょとんと見返すリルに、私はしかと頷く。
「風の応用力の高さは、何度も教えただろう? これもその内の一つさ。どうすればいいか教えてあげるから、言うとおりにやってご覧」
※※※
すべてを終えると、私は魔猪の額に手を置いた。
草原の風が静かに吹き、ナナがふわりとリルの肩に戻った。
「ありがとう。ほら、リルもきちんとお礼を言うんだ」
「んっ! ナナ、ありがとう!」
「どういたしまして」
自慢気に胸を張るナナに、私からも少し言い添える。
「ナナの力は、戦う為に使えるだけじゃなく、多方面でリルを支える力になる。それをこれから覚えていこう」
「はいっ!」
リルが元気よく頷くのを見て、私は解体されきった死体に手を合わせた。
それに倣って、リルもまた小さく手を合わせる。
「お母さん……命って、ただの“物”じゃないんだね」
「そうだな。狩る時も、使う時も、そして捧げる時も――。最後まで向き合うのが、命を扱う者の礼儀だよ」
リルは強く頷く。
その横顔が、少しだけ大人びて見えた。