混沌の魔女と獣人の子   作:鉄鎖亡者

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獣人国の街と文化 その8

 旅を再開し、獣車に揺られて道を進む。

 魔猪の残滓が風に溶け、草と土の匂いが再び穏やかさを取り戻した頃――。

 

 私は手綱を手繰りながら、ふと遠い日の記憶を思い出していた。

 

「……こういう時、必ず思い出す」

 

 リルが首を傾げる。

 

「なにを?」

 

 私は柔らかく微笑んで応えた。

 

「昔、私がまだリルくらいの年だった頃。師匠に教わった“命の扱い方”をね」

 

 風が頬を撫でた。

 記憶の中の景色も、こんな風に春の匂いをさせていた。

 

 

  ※※※

 

 

 私が初めて“命”に向き合う事になったのは、師と一緒に西大陸の“万巻の塔”に出入りしていた頃の事だ。

 

 あの人はエルフすら舌を巻く知識人でもあったが、同時に強くもあった。

 ただ強いだけではない。

 

 剣を振るう姿も、魔術を操る眼差しも……そして、敵に死を与える瞬間でさえ、一つの曇りもなかった。

 

 まるで四季の移ろいの様に自然で、必要を必要として受け止める人だった。

 だが同時に、大変不遜な人柄でもあり、自分と身内とを明確に線引きしていた。

 

 

 

 ある日、師は私に小さな獣を狩らせ、その亡骸の前に座らせた。

 

 まだ幼かった私は、獲物の体温が残っているというだけで、生と死の近さが怖かった。

 

 師は私の隣に静かに腰を下ろし、血で濡れたナイフを取り上げながら言った。

 

「ただ“恐い”で終わらせるな。お前は魔女になるんだから。恐いと思ったなら、“なぜ恐いのか”を見つめな」

 

 その声は厳しかったけれど、不思議と深い安心感を含んでいた。

 

「命はな、奪うことも受け取ることも、同じ重さだ。重さから目を逸らす者は、必ずいずれ、自分自身を傷つけるのさ」

 

 そう言って、師は獣の胸にそっと触れた。

 

「いいか。命は“獲物”でも“資源”でもない。流れ、巡り、また戻ってくるものだ。奪う時は、返す時があると理解しろ。その上で、感謝したいなら好きにしな。……あたしは、しないけどね」

 

 その言葉は子どもの私には難しかった。

 

 けれど、師は言葉を続けながら、獣の毛並みを整え、瞳を閉じさせ、その亡骸が“ひとつの生”として美しく見えるように扱っていた。

 

 言葉とは裏腹に丁寧な手つきなのは、それこそが本音だと思っていたのだが……。

 決してそうではないのだと、大分あとになって知ることになる。

 

 だが、当時の私はその姿を見て、悟ったつもりになっていた。

 

 ――命は、道具のように雑に扱っていいものではない。

 ――相手が獣でも魔獣でも、必ず“終わりは丁寧に”するべきだ。

 

 師は私の感慨を胡散臭そうに見て、長い長い沈黙を置いてから、こう言った。

 

「殺すと決めた瞬間、お前は責任を背負う。その責任は、“最後まで見届ける覚悟”で果たせ」

 

 その言葉は、今でも胸の奥に深く残っている。

 

 

 

 別の日、私は師に質問したことがある。

 

「命が大事なら、どうして戦うの?」

 

 師は少し笑って、私の頭を軽く小突いた。

 

「傷つける為に戦うんじゃない。必要だから――失わぬ為に戦うんだ」

 

 そして、私の小さな手にそっと木剣を乗せた。

 

「お前にもいつか、自分とそれ以外を守りたくなる時が来る。その時、迷わず力を使えるように――。だから、“命の重さ”を知っておけ」

 

 その言葉こそ、私が最初に教わった事だったかもしれない。

 

 

  ※※※

 

 

 リルの前で魔猪の亡骸を埋め終え、私はゆっくりと立ち上がった。

 

 それまで黙って話を聞いていたリルが、不思議そうに私を見上げる。

 

「お母さん……その師匠の人って、優しいの?」

 

「さて……、優しかったかどうか……。素直にそういうの、表に出す人じゃなかったからね。その上、厳しかったのは間違いなくて、言うことがコロコロ変わる」

 

 私は師の気まぐれに振り回されていた日々を思い出して、ふっと笑った。

 

「しかも癇癪持ちで、夕方に雨が降ったとか、遠くの雲の形が気に食わないとか、そんな理由で課題を与えられたよ」

 

「えぇ~……!? それってヒドいよ! ヒドくない?」

 

「まぁ、理由なんて何でも良かったんだろう。課題を与える為に、無理やり理由を考えていただけだ。それに……そのおかげで、今の私がある、とも言えるしね」

 

「でも、お母さんからそんな風にやられたら……、きっとムッとするよ。ムカっムカだよ」

 

「私はしないから大丈夫さ。それに、そんな可愛い顔で言われてもね。……うぅん……、逆に言いたくなってきた」

 

 茶目っ気を出して言うと、リルは私の袖を握って左右に引っ張る。

 

「ヤダヤダ! お母さんはそんなヒドい事しないよね? さっき言ったもんね?」

 

 何も答えず笑みを深くすると、リルは抱き着いておでこをグリグリと擦り付けた。

 

「ヤ~ダ! 違うって言って! お願い!」

 

 流石にそろそろ虐めすぎたと思って、私は片手で抱き返しながら笑う。

 

 風が枝を揺らし、ナナがふわりとリルの肩に舞い降りる。

 ナナは当然冗談だと分かっていて、私達の遣り取りを見て笑っていた。

 

「んもぉ~、しらないっ!」

 

 からかわれたと分かったリルは、ナナを伴い荷台の方へと離れていく。

 その後ろ姿を見ながら、ふと思った。

 

 ――あのとき師に教わったものが、今度はリルへ受け継がれていく。

 

 命の重さも、命を扱う礼儀も、そして、守りたいものを守る勇気も。

 それを思うと、胸の奥に温かい光が灯った。

 

 

  ※※※

 

 

 陽が傾き、森の影が長く伸び始めた頃。

 私は道沿いの小さな丘――風の通りがよく、背後に茂みの少ない場所――を休息地に選んだ。

 

「リル、今日はここにしよう。風が弱いけれど、左右から自然の通り道がある。煙がこもらず、匂いが広がりにくい。魔獣避けに丁度良いだろう」

 

「うん!」

 

 リルは森獣を木陰に誘導し、私は周囲を見渡す。

 空は茜に染まり始め、世界が静かに一日の終わりを告げようとしていた。

 

 本日は気温が、あまり上がらなかった。

 だからだろう。地面にはわずかに朝露が残っており、乾いた枯葉の下には湿った土が顔を覗かせていた。

 

「リル、こういう時はまず、火を安全に扱える場所を整えるんだ」

 

 私は枝を払って浅い穴を作り、石を輪に並べて囲った。

 火の熱を保ち、外へ余計な火の粉を散らさない為に、これは欠かせない。

 

 リルはその横で細めの枝を集め、ナナがそれを浮かせてるりと円を描いた。

 

「お母さん、ナナが乾かしてくれてる」

 

「助かるよ。濡れた枝じゃ火が上手く育たないからね」

 

「ふふん、そうでしょ?」

 

 ナナはふわふわと揺れながら、私の向けた眼差しに胸を張った。

 

「さて、リル。火起こしの方法は覚えているかな」

 

 私が火打ち石を取り出しながらいうと、リルはナナそっくりに胸を張って頷く。

 

「うん、ちゃんと出来るよ!」

 

 手つきはまだまだ不慣れだが、言うだけあって、火花自体はきちんと上がっていた。

 

 何度かうちつけて居る内に火花がぱちりと弾け、枝に移り、やがて淡い炎が石の輪の中で揺れる。

 

 夕焼けの赤と、焚き火の橙。

 その二つの色が混じりながら、旅の空気を温かなものに変えていく。

 

 私は荷台から、昼間に切り分けておいた魔猪の肉を取り出した。

 といっても、魔猪の肉は通常の獣肉よりずっと密度が高く、夕食に使うのは手のひら大の薄い塊二つ程で十分だ。

 

「リル、覚えてるかい? この赤い筋の流れに逆らって切ると、固くなるって言ったろう?」

 

「うん! “層に沿わせる”ってやつ」

 

「そう、それ」

 

 肉には魔力の通り道だった薄い光の線が、まだ薄く残っている。

 それを避けるように斜めに包丁を入れ、そぎ切りにしていく。

 

 切り口はしっとりとしていて、魔猪独特の香り――野草と鉄の中間のような匂い――が立った。

 

「今日は村の人達から貰った、“ロウカ草の塩漬け粉”を使おうか」

 

 ロウカ草は旅の定番で、乾燥させて粉にすると、ほのかな甘味と香りを加え、肉の匂いも和らげてくれる。

 

 リルが小さな木皿に粉を広げ、そこに肉を並べる。

 粉が肉の表面でしっとりと溶け、淡く輝いた。

 

「ナナ、お願い。軽く風を通して」

 

 風がそっと肉を撫でる。

 余分な粉を飛ばしつつ、香りだけを残す繊細な風使いだった。

 

 これで調味料は、ごく薄く肉の内部まで染み込んでくれるだろう。

 魔猪は味が濃いので、少し吹き飛んだくらいが丁度良いかもしれない。

 

 焚き火が安定し、灰の下から赤い炭が顔を出し始める。

 私はその上に小さな鉄板を置いた。

 

 じゅ、と肉が触れた瞬間の小さな音が耳に心地良い。

 

「……わぁ、いい匂い……!」

 

 リルは両手を胸の前で握って身を乗り出す。

 猪魔獣の肉は焼くと、野性的な香りの中に甘い香りが混ざる。

 

 筋が多い肉のはずだが、魔力の層が細かい熱を均等に伝えるため、焼きムラが起きにくいのだ。

 

 肉の表面がほんのりと金色を帯び、脂が弾けて火に滴る。

 

 ぱちっ、ぱちっ――。

 

 夕暮れの静けさに、焚き火と肉の音だけが響く。

 私はその音を聞きながら、昔の師の言葉を思い出していた。

 

『命が黙るって事はないものさ。美味くなる時も、そうでない時も、必ず声を出す。それが分からないと、あたしに肉を饗するなんて無理な話だ。だから、とっとと覚えな』

 

 師の声が、今でも焚き火の音に混ざるような気がする。

 気のせいだとしても、今のその余韻に浸っていたかった。

 

 だが、横から受けるリルの視線に気付いて、意識を目の前の火に戻した。

 

「リル、ここを見てご覧。表面がまだ赤くて柔らかいだろう? でも――」

 

 私は指先で肉の縁を少し押す。

 筋が細かく震え、一瞬だけ光の筋が浮かぶ。

 

「……光った?」

 

「これが“中心がまだ生”の合図。魔力は死後二日程は残留するから、普通の獣よりも保存が利くがわりに、火の通りも悪い。だけど、この光が三度ほど弱まれば、丁度良い火加減になるんだ」

 

 そうして、火を通すことしばし――。

 二度目、三度目と光はゆっくりと薄れ、肉全体がしっとりと弾むようになった。

 

「そろそろ、食べ頃だ」

 

 私は肉を木皿に盛り付け、リルの前に置く。

 ナナが興味深そうに覗き込むので、そちらにも皿を置いた。

 

「あら、いいの? 旅の間は、お肉って貴重じゃない?」

 

「そんな顔されて、ナナにだけ出さないのも気が引ける。それに、必要ならまた、リルにお願いするさ」

 

「うん、やるよ! 今度はもっと上手くやる!」

 

「うん、期待してるよ。さぁ、お上がり」

 

「いただきます……!」

 

 リルは早速、小さく割いた肉を口に運んだ。

 噛んだ瞬間、目を見開く。

 

「……うんっ……! すごい……昨日の獣肉より、もっと、なんていうか……肉なのに、草のいい匂いがする……!」

 

「魔猪は森の恵みを、たっぷり食べてるからね。それが肉に宿っているんだろう。そのおかげで、旅でも栄養がつきやすい」

 

 リルは幸せそうに頬を緩め、まだ肉の残っている皿を突き出した。

 

「お母さん、もっと食べたい!」

 

「せめて、全部食べからにしなさい」

 

 ナナが苦笑しながら、自分の分を取り分けた。

 

「ほら、分けてあげる。魔女の方だって、しっかり食べなきゃならないんだから。あんまり奪っちゃ可哀想よ」

 

 夕焼けは完全に沈み、空が藍色に染まっていく。

 風は穏やかで、森獣の吐息も規則正しい。

 

 焚き火の赤が、今日一日の疲れと、明日への静かな力を、命の糧に感謝しながら受け入れていた。

 

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