混沌の魔女と獣人の子   作:鉄鎖亡者

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獣人国の街と文化 その9

 焚き火が落ち着き、肉の香ばしさだけがまだ微かに漂う頃。

 空は群青に沈み、星の光がぽつり、ぽつりと瞬き始めていた。

 

 私は火かき棒で薪を整え、炎が揺れるのを眺めながら、小さく息をつく。

 

 リルは食器を洗うため、小川へ行っていたが――程なくして戻ってきた。

 水気の残る木皿を抱えたまま、ぽすんと私の隣に腰を下ろす。

 

 焚き火の明かりに照らされた頬が、昼間の戦いの興奮と、食後の満足でほんのり赤い。

 

「……ねぇ、お母さん」

 

「うん?」

 

「今日の、わたし……どうだった?」

 

 思っていたよりずっと真剣な声音だったので、私は少し驚きつつも訊き返した。

 

「矢のこと?」

 

 リルはこくんと頷き、薪が弾ける音に紛れるような、小さな声で言う。

 

「最初、外したでしょ。あれ、悔しくて……。でも……最後は、ちゃんと仕留められたよね?」

 

「ああ、立派だったよ」

 

 私が迷わずそう答えると、リルは驚いたように目を上げた。

 

 星明かりよりも、焚き火の橙にきらめくその瞳が、まだ幼さを残しながらも、少しだけ大人びて見える。

 

「最初の一矢なんて、誰だって外すものさ。むしろ外した後、どう立て直すかが大事なんだ。リルは深呼吸して、風の流れを聞いて……ナナと一緒に狙いを整えた。あれで良いんだよ」

 

「……本当に?」

 

「本当さ。お母さんだって、何度も外してきたよ。だから、分かるんだ」

 

 リルは、肩の力をふっと抜いて微笑んだ。

 その表情があまりに自然で、まるで幼い頃、私にべったりくっ付いて離れなかった頃の面影を思い出す。

 

「お母さんは、怖くなかったの?」

 

「何が?」

 

「魔獣を相手にするの。……あんな大きい猪だったし」

 

 私は空を見上げた。

 焚き火の煙が夜風に溶け、細く伸びてゆく。

 

「怖いよ。いつだって。慣れなんてしないよ」

 

「えっ……、お母さんでも?」

 

「お母さん“だから”怖いんだよ」

 

「……えっと、どうして?」

 

 私はそっとリルの頭に手を置いた。

 肌触りの良い耳を畳むように撫で、しっとりとした感触を楽しむ。

 

「守るものがあると、怖さは大きくなる。けどね、その怖さは、足を止めさせるためのものじゃない。“慎重にあれ”っていう、自然からの忠告みたいなものだ」

 

 リルはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。

 

「……私、今日ね。外したとき、心臓がぎゅってして、手も震えて……それで、一瞬、嫌になりかけたの。『もうお母さんがやって』って」

 

「うん」

 

「でも、母さんの声が聞こえて……」

 

「私の?」

 

「『大丈夫、落ち着いて』って。ちゃんと聞こえた訳じゃないんだけど……でも、ぎゅっとお腹に力が入った気がしたの」

 

 少し胸が熱くなる。

 私が言った言葉は、緊張の只中、ろくに聞こえていなかったに違いない。

 

 しかし、リルはそれを克己心で乗り越えたのだ。

 

「聞こえていなくても、リルが“知っていた”から出来たんだよ。私が何度も言ってきたからね」

 

「そっか……。うん、そうかも」

 

 リルは膝を抱え、焚き火を見つめた。

 炎がその横顔をゆっくりと照らし、その影が地面に揺れる。

 

 その姿は、まだ子どもで、でももう大人の影もチラついていて――。

 日々成長しているのだと、私自身再度確認出来た気がする。

 

「お母さん……」

 

「何だい?」

 

「わたしね……ううん、何でもない」

 

「途中で言い掛けて止められると、余計、気になるな」

 

 私は思わず笑ってしまった。

 だが、何を言いたいのか、何となく察せられる。

 

「リルはもう、自分の力で獲物を倒した。今日の一頭は、リルの“はじめて”だよ。胸を張りなさい」

 

「……うん」

 

 リルは照れたように笑ったが、その目には、どこか自分の無力さを宿していた。

 

 しばらく沈黙が続く。

 焚き火の音、遠くの虫の声、夜風のひそやかな流れ……。

 

 互いに言葉はなかったが、それらの音が代わりに話しているかの様だった。

 

 やがてリルは、私の肩に頭を預けてきた。

 ほんの少し、身体が重い。

 

 今日一日の疲れが、ようやく出てきたのだろう。

 

「お母さん……、アロガに会いたいな。傍に居ないの、寂しい……」

 

「分かるよ。いつも一緒だったもの」

 

 私はその頭をそっと撫でた。

 焚き火がぱちりと弾け、火の粉が星へと昇っていく。

 

 ――だが、この子にとって頼りになる(アロガ)が居ないこと。

 それそのものが、成長の糧になる。

 そう信じて、私はゆっくりと目を閉じた。

 

 

  ※※※

 

 

 翌日の朝早くから出発し、また草原を貫く道を進む。

 昨日は街から出た早々に襲われた事もあり、また何かあるのか警戒していたのだが……。

 

 しかし、拍子抜けする程、旅は順調だった。

 

 それは旅が更に二日、三日と続いても変わらない。

 いっそ呆気なく感じてしまい、リルも最初の緊張はどこへやら、弓を手放してしまう程、のんびり旅を楽しんでいた。

 

 そのうち草原は姿を消し、森の中に入ると、山道を進むようになった。

 公国との小競り合いは、もっと別の所で起こっているとの話は本当で、今のところ兵士一人の姿すら見えない。

 

 旅人にとっては巻き込まれずに済む貴重な道とも言え、だからだろう。

 山道を進む程に、そうした旅人の姿が見えるようになった。

 

「何か……、ヒトが増えたね」

 

「大抵は旅の剣士とか、冒険者かな。通行証を発行して貰えるのも、大体その辺だから」

 

 そんな話をしていると、周囲を薄く覆っていた霧が晴れ始めた。

 谷風が鋭く吹き抜け、木々の梢を震わせる。

 

 私は森獣の足を止めさせ、前方の尾根を見上げた。

 ――ようやく、見えてきた。

 

「……あれが、国境の砦だよ、リル」

 

 まだ距離はある。

 だが、山肌の向こうに異様な“角張った影”が張りつくように聳え、自然の形とはまるで違う直線が、灰雲を切り裂くように伸びていた。

 

 まるで山そのものが鉄と石を纏い、牙を剥いた獣に変じたかのようだった。

 それを見たリルは息を呑む。

 

「……なんだか、怖い形してる」

 

「そう感じるなら、リルは正しい感性を持っているね」

 

 私は答えながら、視線を砦に固定した。

 距離を置いて眺める砦は、平地の城よりもはるかに威圧的だ。

 

 険しい山の尾根にそのまま喰い込むように築かれ、壁面は自然の岩肌と融合して、どこまでが人工物で、どこまでが山なのか区別がつかない。

 

 だが、その“曖昧さ”こそが、外敵への最初の罠となっている。

 

「壁が……斜めに、刺さってるみたい……」

 

 リルの言葉は幼い感想に聞こえるが、しかし的確だった。

 

 砦の外壁は、山風を受け流す構造と聞いている。

 しかし遠目には、まるで鋭利な刃のように傾斜し、こちらへ向けて攻撃的に反り立っているようにしか見えない。

 

 その上部には、巡回する衛兵の影がちらつき、こちらへの敵意しか感じられなかった。

 

「お母さん、あれ……門は、どこ?」

 

「正面の谷筋から入るのが、本道だと思うけど……」

 

 私は谷を見下ろした。

 砦の麓は深い切れ込みになっており、谷底には濃い霧が漂っている。

 

 霧の中には、木の柵や逆茂木が断片的に見え、明らかに“通りにくく”作られていた。

 

「砦の連中は……外から来る者を、明らかに歓迎していないな」

 

「え……どうして? あそこにいるの、獣人たちなんでしょ?」

 

 私は少し悩み、正直に答えた。

 

「国境っていうのは、争いが起きると真っ先に血が流れる場所なんだよ。そして今や、あの砦は公国が占拠している」

 

 リルは難しそうな顔付きで、眉根をひそめてに言った。

 

「通るだけなんだよね? 獣人国との……その、争い? そういうのと関係ないんだし……」

 

「向こうからすれば、私たちは“何者か分からない怪しい者”だ。素直に通す理由がないんだな」

 

 敢えて口にはしないが、獣人であるリルを伴っている事も、通さない理由になるだろう。

 

 聞いた話が本当ならば、公国の者達は獣人である、という理由だけで敵意剥き出しにしてくる。

 

 私は砦を見つめ、じっと観察した。

 

 山の上層部には、魔獣避けの結界柱が並んでいたが、その光すらどこか鋭く、冷たい。

 砦を中心にして、山風の流れが変わっているのも分かる。

 

 風は砦に当たる前に渦を巻き、まるで自然すら、砦を避けて迂回しているようだった。

 

「お母さん……あの砦、なんだか生き物みたいだね」

 

 そう言ったリルの声は震えていた。

 

「そうとも言えるかもね。敵を拒み、攻撃し、時に喰らう。……そういう魔物が棲み着いているのさ」

 

 深く息を吸うと、強くて冷たい風が肺に刺さる。

 

「でも、ここ以外に道はないからね。まさか戦場の真ん中を通るわけにはいかないし、だとしたら、ここを何とか素通りするしかないんだけど……」

 

 リルは頷いたが、砦から目を離さないままだ。

 その気持ちは、よく分かる。

 

 私でさえ、あの石の塊から吹きつける圧を感じているのだから。

 ――近づけば、さらに圧は増すだろう。

 

 そう確信しながら、私はリルの肩にそっと手を置いた。

 

「心配しなくていい。どれほど物々しい砦でも、私の敵じゃない。幻術で姿や通行証を誤認させてみようか。……運が良ければ、それで通れるだろう」

 

「運が、良ければ……なの? お母さんが使う魔術なのに?」

 

「よく覚えておきなさい。魔術には、基本的に反抗術というものが存在する。炎を出す魔術があれば、炎を防ぐ魔術がある、みたいにね」

 

「じゃあ、誤魔化す魔術があれば、それを見破る魔術もあるんだ」

 

「そう、その通り。そしてこの場合、曝く方が有利になるからね。幻術を完璧に見破れなくても、使われてる事が解れば十分だ。通行証から反応が出れば、自分は偽物で通ろうとしてます、って言ってる様なだから」

 

「そっかぁ……」

 

 リルは妙に納得して、それから拗ねたように言った。

 

「ぜんぶ分からなくていいって、なんかズルい……」

 

「隠されたものの正体が、分からなくていいからね。……だから、そもそも運なのさ。こういう砦だから、見破る為の魔術秘具くらい、用意してそうだ」

 

 軽く言いながら、私は胸の奥で、別の警戒心をひっそりと研ぎ澄ませる。

 

 ――本当に“通るだけ”で済むかどうかは、まだ分からない。

 砦は沈黙したまま、私たちを睨みつけていた。

 

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