焚き火が落ち着き、肉の香ばしさだけがまだ微かに漂う頃。
空は群青に沈み、星の光がぽつり、ぽつりと瞬き始めていた。
私は火かき棒で薪を整え、炎が揺れるのを眺めながら、小さく息をつく。
リルは食器を洗うため、小川へ行っていたが――程なくして戻ってきた。
水気の残る木皿を抱えたまま、ぽすんと私の隣に腰を下ろす。
焚き火の明かりに照らされた頬が、昼間の戦いの興奮と、食後の満足でほんのり赤い。
「……ねぇ、お母さん」
「うん?」
「今日の、わたし……どうだった?」
思っていたよりずっと真剣な声音だったので、私は少し驚きつつも訊き返した。
「矢のこと?」
リルはこくんと頷き、薪が弾ける音に紛れるような、小さな声で言う。
「最初、外したでしょ。あれ、悔しくて……。でも……最後は、ちゃんと仕留められたよね?」
「ああ、立派だったよ」
私が迷わずそう答えると、リルは驚いたように目を上げた。
星明かりよりも、焚き火の橙にきらめくその瞳が、まだ幼さを残しながらも、少しだけ大人びて見える。
「最初の一矢なんて、誰だって外すものさ。むしろ外した後、どう立て直すかが大事なんだ。リルは深呼吸して、風の流れを聞いて……ナナと一緒に狙いを整えた。あれで良いんだよ」
「……本当に?」
「本当さ。お母さんだって、何度も外してきたよ。だから、分かるんだ」
リルは、肩の力をふっと抜いて微笑んだ。
その表情があまりに自然で、まるで幼い頃、私にべったりくっ付いて離れなかった頃の面影を思い出す。
「お母さんは、怖くなかったの?」
「何が?」
「魔獣を相手にするの。……あんな大きい猪だったし」
私は空を見上げた。
焚き火の煙が夜風に溶け、細く伸びてゆく。
「怖いよ。いつだって。慣れなんてしないよ」
「えっ……、お母さんでも?」
「お母さん“だから”怖いんだよ」
「……えっと、どうして?」
私はそっとリルの頭に手を置いた。
肌触りの良い耳を畳むように撫で、しっとりとした感触を楽しむ。
「守るものがあると、怖さは大きくなる。けどね、その怖さは、足を止めさせるためのものじゃない。“慎重にあれ”っていう、自然からの忠告みたいなものだ」
リルはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「……私、今日ね。外したとき、心臓がぎゅってして、手も震えて……それで、一瞬、嫌になりかけたの。『もうお母さんがやって』って」
「うん」
「でも、母さんの声が聞こえて……」
「私の?」
「『大丈夫、落ち着いて』って。ちゃんと聞こえた訳じゃないんだけど……でも、ぎゅっとお腹に力が入った気がしたの」
少し胸が熱くなる。
私が言った言葉は、緊張の只中、ろくに聞こえていなかったに違いない。
しかし、リルはそれを克己心で乗り越えたのだ。
「聞こえていなくても、リルが“知っていた”から出来たんだよ。私が何度も言ってきたからね」
「そっか……。うん、そうかも」
リルは膝を抱え、焚き火を見つめた。
炎がその横顔をゆっくりと照らし、その影が地面に揺れる。
その姿は、まだ子どもで、でももう大人の影もチラついていて――。
日々成長しているのだと、私自身再度確認出来た気がする。
「お母さん……」
「何だい?」
「わたしね……ううん、何でもない」
「途中で言い掛けて止められると、余計、気になるな」
私は思わず笑ってしまった。
だが、何を言いたいのか、何となく察せられる。
「リルはもう、自分の力で獲物を倒した。今日の一頭は、リルの“はじめて”だよ。胸を張りなさい」
「……うん」
リルは照れたように笑ったが、その目には、どこか自分の無力さを宿していた。
しばらく沈黙が続く。
焚き火の音、遠くの虫の声、夜風のひそやかな流れ……。
互いに言葉はなかったが、それらの音が代わりに話しているかの様だった。
やがてリルは、私の肩に頭を預けてきた。
ほんの少し、身体が重い。
今日一日の疲れが、ようやく出てきたのだろう。
「お母さん……、アロガに会いたいな。傍に居ないの、寂しい……」
「分かるよ。いつも一緒だったもの」
私はその頭をそっと撫でた。
焚き火がぱちりと弾け、火の粉が星へと昇っていく。
――だが、この子にとって頼りになる
それそのものが、成長の糧になる。
そう信じて、私はゆっくりと目を閉じた。
※※※
翌日の朝早くから出発し、また草原を貫く道を進む。
昨日は街から出た早々に襲われた事もあり、また何かあるのか警戒していたのだが……。
しかし、拍子抜けする程、旅は順調だった。
それは旅が更に二日、三日と続いても変わらない。
いっそ呆気なく感じてしまい、リルも最初の緊張はどこへやら、弓を手放してしまう程、のんびり旅を楽しんでいた。
そのうち草原は姿を消し、森の中に入ると、山道を進むようになった。
公国との小競り合いは、もっと別の所で起こっているとの話は本当で、今のところ兵士一人の姿すら見えない。
旅人にとっては巻き込まれずに済む貴重な道とも言え、だからだろう。
山道を進む程に、そうした旅人の姿が見えるようになった。
「何か……、ヒトが増えたね」
「大抵は旅の剣士とか、冒険者かな。通行証を発行して貰えるのも、大体その辺だから」
そんな話をしていると、周囲を薄く覆っていた霧が晴れ始めた。
谷風が鋭く吹き抜け、木々の梢を震わせる。
私は森獣の足を止めさせ、前方の尾根を見上げた。
――ようやく、見えてきた。
「……あれが、国境の砦だよ、リル」
まだ距離はある。
だが、山肌の向こうに異様な“角張った影”が張りつくように聳え、自然の形とはまるで違う直線が、灰雲を切り裂くように伸びていた。
まるで山そのものが鉄と石を纏い、牙を剥いた獣に変じたかのようだった。
それを見たリルは息を呑む。
「……なんだか、怖い形してる」
「そう感じるなら、リルは正しい感性を持っているね」
私は答えながら、視線を砦に固定した。
距離を置いて眺める砦は、平地の城よりもはるかに威圧的だ。
険しい山の尾根にそのまま喰い込むように築かれ、壁面は自然の岩肌と融合して、どこまでが人工物で、どこまでが山なのか区別がつかない。
だが、その“曖昧さ”こそが、外敵への最初の罠となっている。
「壁が……斜めに、刺さってるみたい……」
リルの言葉は幼い感想に聞こえるが、しかし的確だった。
砦の外壁は、山風を受け流す構造と聞いている。
しかし遠目には、まるで鋭利な刃のように傾斜し、こちらへ向けて攻撃的に反り立っているようにしか見えない。
その上部には、巡回する衛兵の影がちらつき、こちらへの敵意しか感じられなかった。
「お母さん、あれ……門は、どこ?」
「正面の谷筋から入るのが、本道だと思うけど……」
私は谷を見下ろした。
砦の麓は深い切れ込みになっており、谷底には濃い霧が漂っている。
霧の中には、木の柵や逆茂木が断片的に見え、明らかに“通りにくく”作られていた。
「砦の連中は……外から来る者を、明らかに歓迎していないな」
「え……どうして? あそこにいるの、獣人たちなんでしょ?」
私は少し悩み、正直に答えた。
「国境っていうのは、争いが起きると真っ先に血が流れる場所なんだよ。そして今や、あの砦は公国が占拠している」
リルは難しそうな顔付きで、眉根をひそめてに言った。
「通るだけなんだよね? 獣人国との……その、争い? そういうのと関係ないんだし……」
「向こうからすれば、私たちは“何者か分からない怪しい者”だ。素直に通す理由がないんだな」
敢えて口にはしないが、獣人であるリルを伴っている事も、通さない理由になるだろう。
聞いた話が本当ならば、公国の者達は獣人である、という理由だけで敵意剥き出しにしてくる。
私は砦を見つめ、じっと観察した。
山の上層部には、魔獣避けの結界柱が並んでいたが、その光すらどこか鋭く、冷たい。
砦を中心にして、山風の流れが変わっているのも分かる。
風は砦に当たる前に渦を巻き、まるで自然すら、砦を避けて迂回しているようだった。
「お母さん……あの砦、なんだか生き物みたいだね」
そう言ったリルの声は震えていた。
「そうとも言えるかもね。敵を拒み、攻撃し、時に喰らう。……そういう魔物が棲み着いているのさ」
深く息を吸うと、強くて冷たい風が肺に刺さる。
「でも、ここ以外に道はないからね。まさか戦場の真ん中を通るわけにはいかないし、だとしたら、ここを何とか素通りするしかないんだけど……」
リルは頷いたが、砦から目を離さないままだ。
その気持ちは、よく分かる。
私でさえ、あの石の塊から吹きつける圧を感じているのだから。
――近づけば、さらに圧は増すだろう。
そう確信しながら、私はリルの肩にそっと手を置いた。
「心配しなくていい。どれほど物々しい砦でも、私の敵じゃない。幻術で姿や通行証を誤認させてみようか。……運が良ければ、それで通れるだろう」
「運が、良ければ……なの? お母さんが使う魔術なのに?」
「よく覚えておきなさい。魔術には、基本的に反抗術というものが存在する。炎を出す魔術があれば、炎を防ぐ魔術がある、みたいにね」
「じゃあ、誤魔化す魔術があれば、それを見破る魔術もあるんだ」
「そう、その通り。そしてこの場合、曝く方が有利になるからね。幻術を完璧に見破れなくても、使われてる事が解れば十分だ。通行証から反応が出れば、自分は偽物で通ろうとしてます、って言ってる様なだから」
「そっかぁ……」
リルは妙に納得して、それから拗ねたように言った。
「ぜんぶ分からなくていいって、なんかズルい……」
「隠されたものの正体が、分からなくていいからね。……だから、そもそも運なのさ。こういう砦だから、見破る為の魔術秘具くらい、用意してそうだ」
軽く言いながら、私は胸の奥で、別の警戒心をひっそりと研ぎ澄ませる。
――本当に“通るだけ”で済むかどうかは、まだ分からない。
砦は沈黙したまま、私たちを睨みつけていた。