ボーダナン大森林――。
千年を生きる“本物”の魔女が棲むと突き止めたこの森へ、再び足を踏み入れるとは、正直なところ思ってもいなかった。
ミッコラは、ゆっくりと行軍する隊列の中で、乱暴に汗を拭った。
エルフの師団に混じって歩く自分の存在を、どこか遠くから眺めているような気分でついて行く。
(あの森に……また)
胸の奥が、ひどく冷える。
三年前――。
少数精鋭での“浸透任務”があった。
エルフの上層部は魔女の所在を探るため、選ばれた二十名を森の奥に送ったのだ。
その選別は特別優秀な戦士の中から選ばれ、人間であるミッコラが、エルフの隊長から見出された時は、誇らしい気持ちで満たされたものだった。
そして、結果は壊滅。
罠を回避し、魔獣を回避したものの……。
魔女に不意を打たれ……まず、部隊の半数がやられた。
最終的に生き残ったのは、ミッコラただ一人だ。
(隊長も……、あの隊長ですら……)
記憶の奥に、血に染まった彼の姿がよぎる。
たった一晩で仲間が消えていった光景が、喉の奥に鉄の味を蘇らせた。
「……ミッコラ、大丈夫か?」
隣を歩く若いエルフの弓兵が、心配そうに囁く。
ミッコラは無理にでも、笑みを作って応じた。
「ええ。少し……、森を見て思い出しただけ」
「やっぱり、お前だけが生き残ったって件……本当だったんだな。この作戦でも、前線に駆り出されるとは思わなかっただろ?」
「まぁ、ね……。でも、余らせる戦力なんてないから、押し込む事になったんでしょうね」
「魔女の最新の手口を、知っている事だしな」
「知っている、と言えるかどうか……。あれは完全に遊ばれていたもの。見せた手口なんて、それこそ小指の爪先程度だと思う」
弓兵は完全に言葉をなくし、唖然とした表情を見せた。
それぐらい、前回の浸透作戦に参加した兵達の実力は高い。
それを誰より知るミッコラは、彼の視線から逃げるようにして、前方へ顔を戻した。
そこには――千人近くの師団が列をなし、首輪を付けた囚人兵が、その間に混じって歩いている。
鎖の金具が、金属的な悲鳴をあげているのを見て、ミッコラは眉をしかめた。
(囚人兵まで……、森に送るなんて)
その事実こそ、この作戦が尋常ではない証拠だった。
後方から怒鳴り声が響く。
「進め! 立ち止まるな! 囚人兵、列を乱すな!」
「俺たちは捨て駒かよ……。こんな森、帰れるかどうか……」
「隊長! 手紙を……家族に、せめて手紙を書かせてください! 今回は、いつもの魔女もどきとは違うんでしょう!? 出立前に作戦の全容を聞かされていなかったんです!」
泣きながら懇願するエルフ兵が、仲間に押さえつけられる。
ミッコラはそこから視線を切って、静かに息を吐いた。
(分かる……分かるわ。私だって相手が本物の魔女だと知っていたら、参加していたかどうか……)
森は、奥に進む程に暗くなる。
枝葉が空を覆い、日光は細い糸のようにしか落ちてこない。
足元の苔はねっとりして滑りやすく、湿った風に、獣の匂いが混じっていた。
そして――。
「止まれ! 罠だ!」
号令と同時に、ミッコラの背筋がびくりと跳ねた。
数秒後、地面が破裂するように盛り上がり――。
土と石の柱が無数に突き出し、先頭を歩いていた兵士らが瞬時に串刺しになった。
悲鳴が木霊し、血の霧が舞う。
ミッコラは咄嗟にしゃがみ込み、続いて起きた衝撃波に耐えた。
(前回とは違う! 前は“浮遊”の靴で回避出来ていた……!)
地形を完全に把握した者が仕掛けた、迷いのない殺傷罠だった。
そして、考える程に当然、という思いも湧いてくる。
通じなかった罠を、そのまま採用し続ける理由がない。
これまで時間はあったのだ。
その間に改良するなり、新たに別の罠などを設置するなり、出来ることは多かったに違いない。
そして、列が乱れたところへ、別の脅威が迫ってくる。
――ガアァッ!!
低く唸る咆哮。
茂みが裂け、背に骨の棘を生やした狼型の魔獣が、影の群れとなって飛び出してきた。
「魔獣だ!! 構えろ!!」
号令で弓矢が飛び、槍が突き出される。
だが魔獣は、あまりにも数が多かった。
囚人兵の一団が押し倒され、あっという間に血の池が出来る。
ミッコラは槍を逆手に構え、目の前へ飛びかかる一頭を斬り払った。
「はぁっ!!」
刃が骨を断ち、黒い血が散る。
だが、斬っても斬っても、次から次へ湧いてきた。
(やっぱり……、森そのものが敵なのよ。魔女はまだ、姿を見せてもいないのに……!)
森の奥が、濃い闇となって口を開いていて、そこから圧力にも似た何かを感じた。
――“見られている”。
森の奥で、千年の魔女が静かにこちらを観察するような――そんな気配が、肌を刺す。
(また戻って来てしまった……。この場所に)
ミッコラは、槍を握る手を震わせながらも一歩、また一歩と前へ踏み出した。
後ろへ退いた者から死ぬ。それを前回の戦いから学んだ。
だが、森の深部へ進むほど、罠はさらに苛烈に――そして、魔獣の数は更に多くなった。
空気は重く淀み、耳鳴りのように低い囁きが風に混じる。
まるで、この森全体がお前たちを帰さない、と言っているかのようだった。
※※※
罠が爆ぜ、魔獣が群れを成して襲いかかるたび、負傷者の数原増えていった。
しかし、深手を負った者も、腕を噛み千切られた兵士すら、すぐさま回復術士が治療を施す。
「動くな! 再生術をかける!」
青白い光が流れると肉が繋がり、血が止まり、兵士は再び武器を握って列に戻った。
魔術治療があるが故に、倒れても即座に復帰できる。
そのため行軍は止まらず、死者も実際の被害の割には少ない。
――しかし。
(損害は少なくても……被害は、とんでもなく大きい)
ミッコラは、周囲の表情を見て悟る。
治療で肉体は戻っても、精神に刻まれた恐怖の傷までは消えない。
それでも部隊は、無理やり魔術で精神を高揚され、奥へ奥へと進んでいく。
だが森は……嘲笑う様に、罠の質を上げていった。
突然、地面が口を開けるように割れ、落下した先には無数の石槍が待つ。
あるいは、木々の根が意志を持ったかのように伸び、兵士の脚に絡みついて締め上げる。
更には、幻惑の霧が漂い、仲間同士を敵に見せかけて斬り合わせたりもした。
どれもミッコラには、見覚えのない罠だ。
(……三年前の浸透作戦では、これらの罠は回避出来ていた……。いや、作動していれば、これと同じ目に遭っていたの……?)
多くの兵が再三の治療により体力を削られ、囚人兵の中には精神が崩壊した者も出始める。
そして森の深部に、地響きが鳴り渡った。
「前方、巨大魔力反応! いや、これは――!」
茂みを押し分け現れたのは、岩肌のような身体を持つ巨人――ゴーレムだった。
しかし、ただのゴーレムではない。
銀色に光る外殻が、その身体を覆っている。
刃を弾き、鈍器の衝撃すら伝わらないミスリル銀の装甲だ。
魔力の通りが良く、魔力の扱いが巧みならば、凄まじい力を発揮する素材だ。
それが、火を纏うもの、水を滴らせるもの、風を渦巻かせるもの、雷光を纏うもの――。
それら四属性に加え、無属性の計五種がそれぞれ十体ずつ、合計五十体出現している。
「五十……だと!? 師団規模への迎撃に充てるには、余りに過剰だぞ!」
誰かの叫びが絶望に震え、ミッコラは槍を構えながら唇を噛む。
(あの魔女が、何の策も講じず安穏としていた筈がない。準備する時間なら、十分にあったんだから……!)
激しい戦闘が始まった。
炎のゴーレムは、周囲の木々が燃えないことを良いことに、遠慮なく炎で焼き払う。
水のゴーレムは足元を泥沼に変えて兵士を沈める。
風のゴーレムは斬撃の嵐を巻き起こし、雷のゴーレムは触れた者の心臓を止めた。
兵士たちの多くは、治療によって何度も立ち上がったが、ついに――。
「後退だぁぁぁ!!」
叫びと共に、陣形が崩れる。
百名、二百名と櫛の歯が欠けるように削られ――。
最初千人近くいた師団は、ついに半数を下回った。
しかし、撤退まではしない。
逃げれば容赦なく、森が背後から飲み込むだろう。
その確信だけは確かで、だからあくまでも、体勢を整える為の後退だった。
そうして多数の犠牲を出しつつ、何とかまた進める様にはなったが、最初の頃とは違い、傷を完全に癒やす事など不可能だった。
悠長にしていると、ゴーレムが襲い掛かるか、そうでなければ魔獣の餌食になるだけだ。
ミッコラは血を拭い、足を引きずりながら進む。
決死の思いでゴーレムを打ち倒し、魔獣を返り討ちにしながら、部隊は進む。
そうして――。
(ここまで来た……! ここまで、来てしまった……!)
森が不意に途切れ、視界が開けた。
そこには不自然にも、ぽっかりと空を見せる丸い広場があった。
その半分は畑で、小麦や野菜などが植えてあり、そして中央には、木造の邸宅が静かに佇んでいる。
古びてはいるが、手入れの行き届いた木造家屋だ。
森の主が住むにはあまりに質素で、しかし圧倒的に場違いな佇まいでもあった。
兵たちの息が止まる。
その屋根の上――。
月を背に、ひとつの影が立っていた。
風に長い外套が揺れる。
逆光で顔は見えない。
だが、その立ち姿は超然たる存在感を発揮させるには十分だった。
満月が影の輪郭を白く縁取る。
屋根の上の人影は、ゆっくりと兵団を見下ろしていた。
誰かが震える声で呟く。
「……あれが魔女、本物の魔女なのか……?」
ミッコラは、槍を握りしめる。
頭の奥で蘇るのは、三年前の夜の記憶だ。
仲間たちが消されていった音、隊長の最後の叫び、そして自分だけが這い出したあの暗闇――。
月光がその影を縁取り、まるでその者を飾るかのように光を与えている。
――そういえば。
かつて、誰かエルフが言っていた言葉を、ミッコラは不意に思い出していた。
――真なる魔女には、月下の光がよく映える。
明らかに畏怖する感情であったものの、同時に美を美として認める響きがあった。
そしてそれが、正しく、その通りの光景が目の前にある。
その存在は、美しく、冷たく……そして、恐ろしい。
その影はゆっくりと一度、身を翻してこちらを見据えた。
逆光のため、表情は判別できない。
だが、立ち姿と佇まいだけで――確信が胸を締めつける。
彼女が三年前に、自分の仲間を全滅させた“災厄”であることを。
ミッコラは、過去と現在の狭間で、ゆっくりと息を吸い込んだ。
月光に照らされた女の影から、敵意が暴風として叩き付けられ、それと同時に魔力の奔流が吹き荒れる。
その時になってようやく、沈黙の中から戦闘開始の怒号が響き渡った。