リルの元へ帰ると、丁度目を覚ます所だった。
アロガの腹の内側で丸まっていたリルは、私が横へ座り直すタイミングで瞼を震わす。
「うぅ……、うぅん……っ」
アロガの柔らかい腹部に、顔を押し付け寝返りを打つと、丁度私と目が合う。
額に掛かった髪をやんわりとどかしてやりながら、薄っすらと微笑んだ。
「おはよう、リル」
「お母さん……っ!」
リルは両手で、アロガの腹を強く押し込みながら立ち上がる。
それに迷惑そうな顔をさせたアロガだが、こうした容赦のなさはいつものことで、慣れたものだ。
リルはそのままの勢いで私に抱きつくと、胸の谷間に顔を埋めた。
「なんだ、甘えん坊さんだな」
「だって、途中いなかったから……!」
「おや、気付いてたのか……」
細く撫で心地の良い髪を指で梳きながら、困った様に笑う。
リルは胸の間から顔を上げて、不満そうに唇を突き出した。
「ぶー……」
「ぶー垂れても、お母さんにだって仕事があるからね」
「そうだけど……」
「それに明日……また少し、家を空けなきゃいけないし」
「えーっ!?」
リルは大仰に驚いて、目をまん丸に見開いては大口を開ける。
「ヤダヤダ! お母さん、いっちゃヤだ!」
「リルは強い子だ。それにアロガもいる。少しくらい平気だろう?」
「イヤー!」
リルは胸の中に顔を埋め、両手両足を使って私に抱きつく。
テコでも離さない構えだが、そうは言ってもやらねばならない。
私自身、リルから離れるのは辛い。
一時でも離れたくない気持ちは同じが、森の巡回は必要なことだ。
森の入口を何者かが通過したら、すぐに分かる様になっているので、侵入者がいるのは既に判明している。
その為の対処をする必要があった。
侵入したからといって、私たちが住む森の深奥に辿り着く事はない。
それが分かっていても、これを放置する事は出来なかった。
単に身の安全を守るだけでなく、これは森の平和を乱す事に繋がる。
将来への禍根を増やす事にもなろうだろう。
だから、不安の種を早期に摘み取る為にも、傍を離れて対処するのは必要な事だった。
「なるべく早く帰って来るから……。ほら、リルは私の子だろう?」
「うん……」
「私の子なら強い筈だ。良い子だから、我慢できるな?」
「うぅ、ん……。うっ、ゃっ、やぁぁぁ……!」
とうとうリルは、抱きついたまま泣き出してしまった。
子供だけで長い時間を過ごすのは、アロガがいても不安だろうと思う。
食事の準備にしても、リルがやる必要はなく、勝手に出てくる。
だから衣食住に関して、全く心配することはないのだが、母を思う気持ちだけはどうしようもなかった。
「ほら、もうすぐ夕食だ。その前に汗と涙を流そう」
リルのお尻に手を当てて、抱きつく姿勢のまま持ち上げ、立ち上がる。
未だ泣き止まない愛しい子を抱きかかえ、風呂場へと連れて行った。
風呂場と言っても、そう大した作りをしていない。
ひと一人が入れる程大きな桶という程度で、すのこと屋根だけがある、非常に簡素な造りだ。
下水道までは無理だが、排水路があって近くの川へ繋がっている。
だから、周辺を汚すことも、水浸しにする心配もなかった。
リルをそこに連れて行くと、服を脱がしている間に、桶の中へ魔術で出した水を溜めていく。
「さぁ、両手を挙げてぇ……。はい、脱げた〜!」
脇下から手を入れてやれば、すぽんと服が抜けて、リルの頬が揺れた。
そうして丸裸にしてやって、自分の服も縫いで籠に入れる。
脱衣所などという気の利いたものはなく、雨風を凌げる程度の衝立があるだけで、外からは丸見えだ。
しかし、誰かが見てくる心配もないので、外の視線を気にしない開放的なものだった。
洗い場で小さな椅子に座らせて、リルの頭を洗う。
自家製シャンプーを使い、小さな頭を泡立てた。
「ほら、目を瞑って……」
「んー……!」
目を瞑っている間、何故か両手も強く握る。
一滴足りとも目に入れない、という力みが表れているかの様だ。
洗い直しがないよう、しかし雑にならない様に洗うと、木桶を取り出して大桶からお湯を掬う。
魔術で呼び出したのは水だが、それも今ではすっかり良い塩梅のお湯となっていた。
畑での野菜選びや、食事の準備、除虫剤作りをした時の火力調整など、私を助けてくれる存在が身近には多くいる。
このお湯もその一つ、という訳だ。
しっかり洗った頭を、木桶で掬ったお湯で洗い流す。
「ぴゃぁぁぁ……!」
適温とはいえ、今日一番に被るお湯は、それなりに刺激がある。
こうしてリルが声を上げるのは、いつもの事だ。
尻尾までピンと立って、非常に可愛らしい。
次にやはり自家用石鹸を使って身体を洗い、尻尾まで念入りに洗い終わると、お湯を切って立たせた。
「ほら、湯船に入っておいで」
「はぁ〜い」
リルの背丈からすると大桶の嵩は高く、湯船に座ると口までお湯に浸かってしまう。
だから膝立ちでのままでいるのが基本だ。
しかし、それでは肩までお湯に浸かれない。
どっち付かずになって、湯船の中で中腰になってみたり、犬掻きをして浮いたりと、中々に忙しなかった。
だから私も手早く洗うのを終わらせる。
腰まで掛かる髪は本来なら、簡単に終わるものではないが、魔術を使えばシャンプーを使うのも、そしてリンスを染み渡らせるのも簡単だ。
そうして、髪を螺旋状に纏めて頭頂部で固めると、身体も同様に手早く終わらせ、最後にアロガの方へ顔を向けた。
基本的にリルとべったりくっ付いて離れないのに、お風呂と聞けば付かず離れずの距離を取る。
「ほら、アロガ。お前も洗ってやるから」
そう言うと、アロガは一目散に逃げて行った。
水遊びは好きなのに、洗われるとなると嫌うから困ったものだ。
「仕方ない……。まぁ、今はまだ汚れも目立たないから良いか……」
連れ戻すのは簡単だが、ムキになる程ではない。
それで私は素直に湯船へと入った。
入浴に適した湯船は、何物にも代え難い程、心地が良い。
うっとりと溜め息をついた時、リルが私の身体を椅子代わりに乗ってきた。
いつもの事――というより、そうした方がリルの身長的に丁度良く湯船に浸かれる。
肩が僅かに湯船から出る程度だし、頭と背中を預けられるから落なのだ。
私はというと、湯船から肩を出して、大桶の枠に両手を乗せて天を仰いでいる。
真上は屋根があるから見えないが、そもそも小さな屋根――。
少し視線をずらせば、森の境と夕焼けに染まる空が良く見えた。
リルも同様に空を仰ぎ、時々湯船に顔を沈めては、ぶくぶくと息を吐いている。
「……ほら、危ないから顔を出しなさい」
「ねぇ、お母さん……」
「ん……?」
「リルもね、いっしょにいきたい」
「森は危険に溢れてるんだ……。リルが入るのは早すぎる」
私が外敵から護ってやれるとしても、そもそも森を歩くだけでも危険が付きまとう。
好奇心旺盛なリルは汎ゆる物に興味を持ち、そして注意が散漫となるのは想像に難くない。
それに、やはり自分の身を自分で守れる実力があって、初めて森歩きを許されるものだ。
何が危険か、何に注意を払うべきかは、その実力が根底にあって初めて可能になる。
余力と言い換えても良い。
その余裕が、初めて外への注意と警戒に向けられる力となるのだ。
「でも、でも……」
しかし、そうした説明をしても、今のリルでは理解できないだろう。
だから今は、とにかく駄目と言い聞かせるしかなかった。
「リルに寂しい思いをさせてるのは分かってる。でも、我慢してくれ……」
「んぅ……。イヤだけど……、がんばる」
「偉い子だ」
そう素直に褒めて頭を撫でる。
湯気で張り付いた前髪を横へ流していると、リルが顎先を湯に沈めながら言ってきた。
「ねぇ、お母さん……。リルもそのうち、もりにいける?」
「そうだな、その内だな……」
「いつ?」
「いつ、か……。うぅん……」
リルには良く言い聞かせているし、アロガの方が森の危険を良く知っているので、入って行くのを決して許さない。
だからリルが知っているのは、何も見えない林影だけだ。
木々の葉は良く繁り、だから少し離れた場所から、すぐ暗がりへと変わる。
家の周辺は木々が密集していて、特に見通しが悪かった。
だから、その暗がりこそを恐れているものの、森の危険について正しく理解している、とは言い難い。
リルも五歳になった事だし、確かにそろそろ教え始めても良い頃合いだった。
「いつから入り始めても良いか……、それは今すぐに決められない」
「むぅ……」
「でも、入るための準備をし始めるのは良いのかも。戦闘の訓練だとか、読み書きの練習とか……」
「やる!」
リルは勢い良く振り返り、それで湯船が揺れた。
「そうか、大変だぞ。頑張りなさい」
「うん、がんばる!」
一つ展望が開いたことで、それまでの不満顔が嘘の様に晴れやかったになった。
明日すぐどうこう、という話ではないのに、既にやる気になっている。
このままでは興奮して寝付けないかもしれない。
今からアレコレ質問攻めに合う事を考えながら、湯船で腕を振り回すリルを宥めすかした。