公弟殿下――その名を聞いた瞬間、胸の奥に、嫌な冷たさが走った。
覚えがある。
いや、忘れようとしても忘れられない。
かつて公国の主――公主が、竜を従えようとした事があった。
正確には、“従える”などという生温いものではないく、支配し、利用し、兵器にしようとして、その卵に手を伸ばした。
そのとき私も関わり、竜の側に立って、卵を守るため奔走した。
だからこそ分かる。
あの家系は力を過信し、抑圧と暴力で以て、他を従わせようとする。
公国という名も、伊達ではない。
元は隣国の王制下にあった公爵家。
王がいた時代、その庇護と特権のもとで力を蓄えた家だ。
だが、王国は変わった。
獣人融和政策を掲げ、血ではなく民意を選び、共和国となった。
――それを、彼ら公爵家は拒んだ。
獣人と人が対等である世界を認められず、
王なき国を“堕落”と断じ、独立を宣言して自らの足で立つことにした。
その結果、現在に至る。
この砦の過剰な警戒。
この苛烈な取り調べ――。
獣人に対しては見せしめを――そして、共和国側に対しては、“情報”の遮断を兼ねている。
ここまで執拗に取り調べるのは、仕事熱心が理由なのではない。
共和国に、援助だの支援だの、“正義の口実”を与えない為だ。
――もっとも、それも時間の問題でしかないのだが。
共和国の成り立ちを思えば、いずれ介入は避けられない。
だからこそ、一日でも、一刻でも、引き伸ばす為に、たとえ獣人一人でも通さない様にしている。
それにしても――。
……何て、間の悪い。
私は心の中で悪態をついた。
ロウランに謀られたか……と一瞬、そう思う。
だが、すぐに思い直した。
悪魔は言っていた。
私に、魔力を使わざるを得ない状況を作り出す、と。
もしかすると、これが
目の前には、剣士と従者――いや、従者に扮した獣人が追い詰められている。
助けるか。
それとも、無視するか。
どちらを選んでも、代償はありそうに思えた。
そして剣士の方もまた、この絶望的状況を、よく理解しているだろう。
何しろ、数が違い過ぎる。
この場で戦うのは、正しく自殺行為でしかなかった。
視線が僅かに動いて逃げ道を探すが、包囲は最初から完成している。
「んぅ……」
その時、リルが私を縋るように見上げた。
その目には不安と不満、そして何より――信頼がある。
――お母さんなら、きっと何とかしてくれる。
そう信じ切った目だった。
思わず息が詰まり、そして胸がきしんだ。
――この子の期待に応えない訳にはいかない。
母として、師として、リルには“正しい”事をする姿を、見せておきたかった。
そうして、私は不意に顔を上げる。
砦の最上階の、細長い窓の奥に人影に向けて。
こちらを見下ろすあの影が、例の公弟殿下に違いない。
だが、見下ろしているのは分かっても、その顔までは判別出来なかった。
だが、視線だけは確かに感じる。
兵士たちは、完全に戦闘態勢を完了しており、剣、槍、弓をそれぞれ構えていた。
特に弓が拙い。
いつでも、命令一つで殺せる距離でありつつ、剣では絶望的なまでに遠い距離だ。
「ふぅぅぅ……」
私はゆっくりと息を吐き、リルの頭に手を置いて、それから息をゆっくりと吸った。
私に残された命は、全てリルの為に使うと決めている。
魔力は出来るだけ使いたくなかったが、今回の件も、きっとリルの礎となるだろう。
使うと決めた途端、脇腹から胸に掛けて、呪いが疼いた。
まるで、呪いそのものが嗤っているかのようだ。
私はリルに笑って見せて、それからこの状況を打破する覚悟を決めた。
そのタイミングを同じくして、剣士が、低い声で、しかしはっきりと告げる。
「――逃げろ」
従者の肩を、強く押す。
その声には演技も虚勢もなく、ただ、覚悟だけがあった。
私と同じ、命を投げ打つ覚悟だ。
剣士は腰から剣を抜く。
金属が空気を切る澄んだ音。
その一歩が、石畳を踏み鳴らした瞬間――。
弓弦が、鳴った。
矢が飛び、一本目を剣士は身を捻り、紙一重で躱す。
続く二本目。
踏み込み、刃の腹で叩き落とす。
――中々、出来る。
反射と判断、どちらも一級だ。
だが、弓士の数だけ矢は飛んでいる。
三本目、四本目、五本目……。
少し遅れて放たれた矢が、一斉に剣士を襲う。
これは、もう技でどうにか出来るものではない。
剣で払える数ではなく、そして避け場もなかった。
剣士の目が、わずかに見開かれる。
その瞬間。
――私が一歩、踏み出した。
脇腹に、痛みが走る。
呪いが魔力の使用に反応し、その度に肌を覆う面積を増やした様に感じた。
それを無視して、私は魔力を解き放つ。
「――“暴風の盾”」
低く呟いた声に応じ、空気が吼えた。
私たちの前に、目に見えぬ壁が立ち上がる。
渦を巻く風は刃のように鋭く、しかし秩序を持った流れが、飛来した矢を悉く弾いた。
触れた瞬間、軌道を狂わされ、あるものは弾かれ、あるものは砕かれ、あるものは力を失って、地面に落ちる。
乾いた音が、次々と石畳に響いた。
剣士は無傷で、同じく狙われていた従者にも怪我はない。
ただし、二人とも動けずにいた。
ただ呆然と、風の壁の内側で立ち尽くしている。
代官が、眉一つ動かさず、変わらぬ笑みを浮かべたまま命じた。
「……続けろ。二射目」
魔術はその使用に時間が掛かる。
今のは予め準備出来ていたとしても、連発は不可能と見たのだろう。
常識に照らせば、これは代官が正しい。
訓練を受けた弓の斉射に、普通の術士は追い付けない。
――だが、ここに居るのは、普通の魔術士ではなかった。
弓が、再び引き絞られる。
だが、放たれた矢は、同じ結果を辿った。
暴風に弾かれ、翻弄され、あるいは力なく落ちる。
一本の矢さえ、二人に届かない。
広場が、静まり返った。
兵士たちの間にざわめきが走り、弓を引く腕が迷いを帯びる。
砦の空気が、それで変わった。
私は盾を維持したまま、前に出る。
リルは私の背後で、小さな手で外套を掴んで付いて来ていた。
「……まぁ」
私は高台を見上げ、次いで最上階の窓――そこにいる公弟殿下の視線を、はっきりと感じながら口を開いた。
「――この先は」
静かに、しかし威圧を込めて言う。
「無用な流血になる」
代官の貼り付けた笑みが、初めて歪んだ。
私は、風の向こうで構えたままの剣士を見る。
彼はまだ、現状に戸惑って身動き出来ず、真意を測りかねて私を凝視していた。
――選択は、もう済んだ。
母として、教訓を与える者として、私はここで退くつもりは一切なかった。