砦の夜は、思いのほか静かだった。
石造りの壁は昼の喧騒を吸い込み、冷えた空気だけを残している。
私は簡易的に用意された部屋で寝台に腰掛け、リルの様子を窺っていた。
「……お母さん」
毛布を胸元まで引き上げたまま、リルが小さく声を掛ける。
「閉じ込められた人、大丈夫かな」
予想していた問いだった。
あの南塔の部屋に置いていかれた公弟を、リルは最後まで目で追っていた。
「大丈夫さ」
私は即答するが、返す言葉を慎重に選ぶ。
「危険な目にも、ひもじい思いにも遭わない。あの人はね、そういう扱いを受ける立場にある人だから」
リルは、少し考え込む。
「……でも、本当に逃げないのかな。地下にも沢山……兵隊さんが居るんでしょ?」
私は隣に座り、リルの髪を梳いた。
「そうだね。だからこそ、考えなくちゃいけない事もある」
目線を合わせ、しっかりと理を問いた。
「あれらを閉じ込めているのはね、罰する為じゃないから。むしろ、安堵しているだろう」
「どうして? 閉じ込められてるのに……そうだよね?」
「そう、それは間違いない」
私はどう説明すべきか考えつつ、リルの頭を撫でた。
「地下の兵士達はね、攻撃しろと言われたら逆らえない。そして、攻撃を続行していたら、自分達がどうなっていたか……想像出来ない程、馬鹿じゃないだろう」
リルは、すぐには納得しなかったが、それでも私の言葉を咀嚼して、それからふと首を傾げた。
「でも、もし何か……悪い事しようとしてたら? 戦うと負けるのは分かるよ。お母さん、とっても、強いもん。でも、そうじゃなくて、ただ逃げようとしてたら……?」
「それも大丈夫。お母さんがしっかり注意して見るし、その上官こそが、今はこちらの手先だから。しっかりと睨みを利かせてくれているよ」
魔術効果は決して長いものではないから、都度、掛け直してやる手間はある。
だが、それだけのリターンが見込めた。
彼は職務に忠実なだけでなく、罰を喜々として行うサディストでもある。
代官には、部下の兵士達を味方ではなく、獣人の集団に見えるよう、幻術内容を調節しておいた。
部下達からの説得の言葉は、彼が毛嫌いする獣人の策略として映るだろう。
何かしらを企てようとも、苛烈な罰で応じるに違いない。
ただし、全てを代官任せにするつもりはなく、私もまた、何度か顔を出して確認するつもりだ。
その事をわざわざリルに言う必要はないが、安心材料はあるのだと、しっかり説明した。
私はリルの頭をもうひと撫でして、手を離す。
「だから大丈夫、安心おし……。眠れそう?」
「うん。ちょっとだけ、怖いけど……」
私は毛布を掛け直し、額に軽く口付ける。
「お母さんは起きて見張っているからね。……だから、怖がることなんてないんだよ」
それでも、地下に兵士たちが監禁されているという事実が、リルの小さな胸を締め付けているのは分かった。
だから、私は灯りを消さなかったし、夜通し起きていることに決めた。
砦全体に意識を向け、僅かな異変すら感じ取れるようにする。
リルが寝息を立てるまで、私は手を離さなかった。
※※※
翌朝、まだ夜明け前の事だった。
砦に別の気配が近付いているのに気が付いた。
しばらくすれば、整然とした足音が聞こえ、抑えた声まで聞こえてくる。
そこには緊張を孕みつつも、無駄のない動きが感じられた。
「来たか……」
リルを起こさぬよう立ち上がると、私は砦の表に出る。
既に開門されたまま、放置状態にあった砦は、彼らを難なく迎え入れた。
ほどなくして、隊列の中からセフィリアが姿を現す。
昨日までの、旅の従者の装いではない。
土汚れなども綺麗に落とされた、正装に近い皮革で作った軽装鎧を身に付けていた。
その背後には、明らかに精鋭と分かる獣人兵たちが並んでいる。
「ご無事で良かった……!」
セフィリアは、そう言って駆け寄ってきたが、すぐに姿勢を正した。
「父も来ています。前線を離れる危険は重々承知なれど、直接確認したいと……」
そうして姿を見せたのは、雪原狼族の将軍らしく威圧感のある体躯で、また威厳ある皮鎧を身に付けた男だった。
どこまでも武骨な戦士風にも見えるが、その目は将たる者に相応しく冷静だった。
「……公弟殿下を捕縛した、と聞いた時は、我が耳を疑った」
「そうだろうな」
私は同意して、大きく頷く。
むしろ、罠だと疑う所だろう。
だが、その情報を持ち帰ったのが自分の娘で、そして血を絶やすまいと逃がす為、信頼できる護衛として選んだ男となれば、話が別だ。
セフィリアは我が目で見た事、起こった事を、つぶさに報告した事だろう。
そして、無視できないと理解したから、こうして足を運ぶ事になっている。
「では、案内を始めても宜しいか?」
「待て。それよりも、本当にそなた一人でこの砦を落としたのか?」
「貴方の娘から聞いたとおりだ。それ以上の説明が、必要とは思えない」
「ふぅム……」
将軍は顎の下をゴリゴリと摩り、考え込む素振りを見せたものの、セフィリアからの視線を受け取り頷く。
まるで、無礼を働くとどうなるか、とでも言いたげな視線だ。
そういう反応も分からないでもないから、私は苦笑するだけに留め、手の平を砦へと向ける。
「では、公弟殿下の所へ案内しよう」
自ら先頭に立って内部に入り、幾つかの通路と、狭い階段を上って南塔へと到着する。
入り口前に敷いた陣に発動した形跡はなく、そして中に居る気配も一人のまま変わりない。
私は陣を解除して扉を開けると、中に入って横に退けた。
続けて、将軍の護衛と思しき兵士が先に入り、その後にようやく将軍の番だった。
確認は短かった。
公弟はその矜持から自ら名乗り、身分を示し、何一つ取り繕わなかった。
それを黙って聞いていた将軍は、しばらくして深く息を吐いた。
「……間違いない。確かに公弟だ」
そして、私を見る。
「あなたの判断と行動がなければ、戦は……より大きく凄惨なものとなっていた……!」
称賛の言葉が続いたが、正直なところ、そんな事に興味はなかった。
「引き渡しは、これで終わった。私の役目も終わりだな」
将軍は一瞬、言葉に詰まる。
「……せめて、我が陣での休息を。歓待させるし、褒美も受け取って貰わねばならん! 娘が渡した装飾品では、到底……!」
「いや、結構だ」
言葉を全て聞き終わるより前に、私は首を横に振る。
「義理は果たした。元よりそういう約束で、貰った物にも十分、満足している」
実際には興味がないだけで、褒美の内容がなんであれ、断るつもりでいた。
用事が済んだ以上、関わる理由がなかったからだ。
「地下牢には、砦の兵士と代官も居る。そちらの処分も、好きにすると良い。私はこれ以上、関わらない」
「いやいや、待て。待って欲しい……!」
将軍は尚も食い下がろうとしたが、私の表情を見て、無理と悟り諦めた。
「……分かった。そこまで頑ななのだ、仕方あるまいが……しかし、忘れないで欲しい。いつでも我ら
「機会があれば、是非そうさせて貰うよ」
それだけ言って、私は南塔から出ていく。
この後、公弟がどういう目に遭うかなど、全く興味の外だった。
恐らくは交渉材料として扱われるのだろうが、獣人達の恨みは根強く、処刑を望む声も出るかもしれない。
それもまた、私には関係ない事だ。
考えを放棄して、私はリルの眠る部屋へと向かう。
中に入ると、既にリルは目を覚ましていた。
少し恨みがましい視線を向けて、唇を尖らせている。
「ずっと傍に居るって、言ったのに……」
「あぁ……、怒らないでおくれ。来てしまった以上は、案内しないと彼らも途方にくれてしまう」
それよりも、と私はリルの手を取った。
「早く出よう。余計な時間を食ってしまった」
「うんっ!」
朝食は獣車の荷台で取ることになるだろう。
砦を出る直前、セフィリアから声が掛かかる。
「獣車の荷台は、こちらで元通りにしておきました。いくつか、つまらぬ物ではありますが、御礼の品も載せてあります。どうぞ、無事な旅路を祈っております」
見れば確かに、見慣れぬ荷物が積まれている。
恐らくは食糧で、金品の譲渡を固辞した事を聞いた彼女が、慌てて用意したのだろう。
「ありがとう。この短い時間で……、とんだ迷惑を掛けてしまった様だ」
「まさか、その様な……! 大した物を用意できず、申し訳ない程です。心ばかりの御礼ですが、是非ともお受け取り下さい」
その恐縮する様は、見てるこちらが申し訳なくなる程だった。
私は改めて礼を言うと獣車に乗り込み、手綱を取って走らせる。
そのタイミングで、セフィリアは背筋を伸ばして敬礼を取り、幼いながらも精一杯の威厳を乗せて、声を張り上げた。
「我らに大恩ある彼女らに対して! 最大限の敬意を込め! ――敬礼ッ!」
道の両脇に立っていた兵は、一糸乱れぬ動きで、それに応じた。
「わぁ~……っ!」
リルはその威風堂々たる姿に目を奪われ、感動の声を上げる。
彼らは私達が石門を抜けた後も、変わらず姿勢を維持し、姿が見えなくなるまで、いつまでもそれは続いていた。