砦を後にして、道を走り続ける。
すると、次第に空気が変わったのが分かった。
それはリルも同じだった様で、嬉しそうに笑う。
「リルにも分かる様になったか」
「うんっ! だって、風が違うもん。――ね、ナナ!」
張り詰めたものが解けたせいか、リルの表情は明るい。
それに同意するようにナナが姿を現し、その背中に乗っかると、訳知り顔で頷いた。
「まぁ、精霊にも一応、なわばりってものがあるしね。風の流れにも癖が出るのよ。リルに分かって当然かも」
リルはナナの言に胸を張って、それから私に視線を向けると、目を輝かせる。
「もうすぐ、おうち?」
「そうだなぁ……。急ぐにしろ、王都には立ち寄ってみようか。この国で一番栄えている都市だ。見ておくのも悪くない」
遠くに見える山並み……その向こうに、我が森と愛しの家がある。
だが、そこに至る経路上に王都があるのだから、そこで観光がてら一泊するのも、リルにとって、良い経験になるだろう。
「この国で一番って……。いつも行く街より大きいの?」
「あれとは比べものにならないよ。あそこはどちらかと言うと、田舎寄りだからね。だから全然、小さい」
「えぇ~……っ!? ウッソだぁ……!」
大袈裟に驚いて否定するリルに、私は笑って応える。
「だったら、自分の目で確かめてご覧。どうせ行くのは決定みたいなものだから」
「むぅ……」
リルが信じられないのも、ある意味で仕方ない。
何事も自分の目で見て、体験してみない事には、真の理解は出来ないものだ。
それからしばらくは、誰も口を開かなかった。
今や石の威圧も、兵の視線もなく、ただ、獣車の車輪が大地を踏む音と、森獣の息遣いが一定の調子で続くだけだ。
「……静かだね」
リルが、ぽつりと呟く。
「うん、静かだ。お母さんは、こういう静けさが好きだな」
「森とは違うけど、でも……わたしも好き」
私は手綱を軽く緩める。
森獣も緊張から解き放たれたのが分かるのか、歩調を少しだけ緩めた。
国境を越える、というのは、ただ線を跨ぐことではない。
空気の質が変わり、ともすれば土の質も変わるのだ。
張り詰めていたものが、少しずつ解けてていく。
やがて、街道の先に――。
遠く、だが確かな存在感をもって、王都の姿が見え始めた。
「……あれが」
リルが荷台の縁に手を付いて、身を乗り出す。
「そう、共和国の王都――かつて王の居た都だよ」
――まだ十五年。
王国から、共和制へと切り替わってからの年月だ。
古いものと、新しいもの。
折り合いの付いたものと、まだ軋んでいるもの。
それらすべてを抱え込んだまま、膨れ上がった大都市。
近づくにつれ、その街の輪郭がはっきりしてくる。
「ホントだ……! ホントに大っきい!」
まず目に入るのは、城壁だ。
王国時代の名残である石壁は、今もそのまま使われている。
だが、上部へと新たに設けられた見張り台には、新たな旗竿が掲げられていた。
王家の紋章ではなく、円環を描く三つの手、共和国の紋だ。
「王様のお城は、もうないの?」
リルが不思議そうに尋ね、私はそれに頷いた。
「あるにはあるけど、あれはもう“城”とは呼べないだろう。でも、古くから住んでいるヒトは、未だにそう呼んでいたりするかもね」
中央に聳える建造物は、確かに王城だったものだ。
だが、尖塔の多くは削られ、軍事的な威圧を減らされている。
代わりに増築されたのは、横に広がる庁舎群だった。
王の居城から、議会と行政の中心へ――。
その変化は、建物そのものに刻まれている。
王都へと続く道は良く整備されていて、広いだけでなく、良く均されていた。
荷台の揺れは目に見えて落ち着き、そうして城壁の門に近づくと、往来の多さに圧倒される。
人間と獣人。
背丈も、毛並みも、耳の形も異なる者たちが、同じ列に並び、同じ検問を受けている。
それは私達が良く行く街でも同様だったが、何しろ数が桁違いなので、そこでもリルは圧倒されていた。
「次、獣車一台!」
門番の声は、事務的だ。
だが、差別の色はない。
身分証を確認し、積荷を一瞥し、通す。
手早く無駄がなく、ただそれだけで終わった。
「……普通だね」
リルが、少し拍子抜けしたように言う。
「こんな所で、何か特別って事はないさ。でもね、その“普通”こそ、皆で勝ち取ったものなんだよ」
私は微笑んで講釈を始める。
その昔、モンティやミーナが居る場所で、リルにも解説した事だ。
「昔はね、獣人ばかりが差別されていたし、一緒の門を使うことも許されなかった。獣人が持ち込む品は違法品に違いない、なんてケチを付けられて、没収される事もしばしばだった」
「ヒドい!」
「それで正しい取り引きなんて、出来たものじゃない。そういう大きな差別、小さな差別が積み重なったから、今の共和国が生まれたと言っても良いだろうね」
「皆、ガマン出来なくなっちゃったんだ」
「そう、抑え付けるだけではね、より強い力で反発されるのさ」
門を抜けた瞬間、音が押し寄せてきた。
人の声、獣の鳴き声。
金属が打ち合う音。
呼び込みの威勢良い声や、笑い声、はたまた口論まで。
石畳の道は広く、よく整備されているが、その両脇に並ぶ建物は、実に雑多だ。
王国時代の石造りの家屋。
獣人の体格に合わせ、天井を高くした木組みの建物。
そして、両方を折衷したような、まだ様式の定まらない家もあった。
看板もまた、様々だ。
文字だけの物、絵だけの物。
そして、文字と絵を併記し、種族を問わず理解できるよう工夫された物もあった。
ただし、これらはリルと良く行く街でも見掛けられる物で、特別な目新しさはない。
だから、リルの興味を引いたのは、もっと別の物だった。
「……いい匂い!」
リルが、鼻をひくひくさせる。
屋台が並ぶ通りでは、人間の焼き菓子の甘い香りと、獣人好みの香草を効かせた肉料理の匂いが混ざり合っている。
「お母さん、何か食べよっ!」
「そうだな……。ここの所、甘い物はご無沙汰だったし……、そろそろ我慢が利かないか」
旅暮らしの中で、甘い物を取るのはまず無理だ。
自分から付いて来るといった手前、我が儘を言う事こそなかったものの、その我慢もこの香りの前では限界らしい。
「どれでも良いよ。好きなのを選びなさい」
「どれが良いかなぁ。迷っちゃうなぁ……!」
リルは目を皿のようにして探す。
そうして、ふと通りの奥から流れてきた、甘い香りにひくり、と鼻を動かした。
「……あれ! あれにする!」
リルが指差した先には、薄く焼いた生地に、蜂蜜と果実の煮詰めを塗った、王国風の焼き菓子があった。
焼き立てだから、縁がぱりっとしていて美味しそうだ。
一口サイズで、一袋に十個入っていて、お手頃価格なのも嬉しかった。
「じゃあ、一つ貰おうか」
「うんっ!」
紙に包まれたそれを受け取り、リルは大事そうに手で包む。
しぱらく香りを楽しむ様に目を細め、一つ摘まんで口に入れた。
「んん~……っ! 中がね、しっとり! 甘い……!」
「でも、くどくないだろう?」
それは果実の酸味が残されているからで、砂糖よりも蜂蜜が主役だからだ。
リルが満足げに頷き、更にもう一つ口に含んでいると、通りの一角で言い争いが起きた。
「ヒトがいっぱいだと、大変だね……。やだな、ケンカかな……」
「いや……」
人間の商人と獣人の職人が、価格を巡って声を荒らげているだけだ。
あれでは、殴り合いの様な真似にはならない。
それ以前に、周囲が自然と割って入り、無事に事を収めていた。
争いはある。
だが、それを理由に争わない術を、この街は既に獲得している。
「良かった!」
リルは我が事の様に喜び、また一つ、口の中に菓子を放る。
私はそれに笑いながら、再び獣車を進ませた。
そうして中央広場に近づいた途端、周囲の景色が一変した。
広い円形の広場はこの都市のランドマークで、誰もが訪れる憩いの場でもある。
その中心に、かつて飾られていた王の像は既にない。
代わりに立つのは、人間と獣人が背中合わせに立つ、抽象的な石像だった。
誰が上でも、下でもない。
それが、共和国の象徴として掲げられていた。
「……前の王様は、この街の何処かに住んでるんだよね?」
「そう、街の端の方にある……かつて、別邸として使われていた屋敷にね」
私はそう答えて、リルに顔を向ける。
「見てみたい?」
「んーん、別にいいや! でも、王様がいないと、誰が王様の代わりをしてるの?」
「王様の代わりをね、一人じゃなくて、沢山のヒトでやろう、っていうのがこの国の形さ」
そう言って、私は広場をぐるりと見渡し、指を差した。
広場を囲む建物の一つ一つが、それぞれ役割を持つ。
議会堂。
裁定庁。
種族調停局。
救済院。
十五年という短さが、制度の多さに表れている。
失敗し、作り直し、また失敗し……、それでも前に進こうとする跡が、そこにはあった。
「……ねえ、お母さん」
リルが、少し真剣な顔で言う。
「ここって、いい国?」
私は、すぐには答えなかった。
獣車を進めながら、街を見渡す。
完璧ではない。
摩擦もある。
この国に付けられた傷は、まだ生々しく残っている。
それでも――。
「“なろうとしている国”……、かもね」
そう言って、今も広場を行き来し、すれ違う人間と獣人達を見た。
「違う誰かと一緒に生きようとしていて、それを当然と言える様に努力している」
リルはしばらく考え込み、それから、にっこりと笑った。
「なんだか、好きになれそう」
私はその横顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
王都という通称も、いずれ呼ばれなくなり、新たな呼び名が生まれるだろう。
昔の名を引き摺っているという意味でも、この国はまだ未完成と言える。
だが、未完成だからこそ、希望もまた、ここに集まっていた。
獣車は、街の奥へと進んでいく。
この、騒がしくて、不器用で――それでも、確かに未来を向いている都市の、更に奥へ。
獣車はのんびりと、その足を向けたのだった。