私達の前に茶器を置いてからも、オンブレッタは部屋を辞去しようとはしなかった。
胸元にトレイを抱いて、興味深そうにリルを見つめている。
その視線を怖く感じたのか、リルが私の腕にしがみついては顔を伏せる。
オンブレッタの熱意あり過ぎる視線に、私まで不穏なものを感じ始め、つい咎める様な視線を飛ばした。
「リルを怯えさせないで貰えるか。余り人に慣れてないんだ」
「あっ、これは失礼を……!」
オンブレッタは素直に詫びて、丁寧に頭を下げる。
その態度から悪気があっての事ではない、と分かった、
ただし、それにしてはリルを見る目は異常だった。
値踏みしている訳でもない。
かといって、差別する目でもなかった。
その視線を言葉にするなら、純粋な興味、という事になるだろう。
何をそこまで、と思うものの、悪意でないなら、強く咎められるものでもなかった。
私はリルの頭を撫でてから、オンブレッタの方に手を向ける。
「さぁ、リル。初めて会った人にするご挨拶は?」
「んぅ……。あの、リルですっ! はじめまして……」
「まぁ、可愛らしいっ! 私はオンブレッタって言います。レッタお姉ちゃんで良いですよ」
「レッタ……おねえちゃん?」
リルが上目遣いにそう言うと、胸元に抱いていたトレーが、めこりと凹んだ。
「ん゙んん……っ! リルちゃん、可愛いっ! 抱き締めて良いですかっ!」
「駄目だろ。いま目の前でトレーを握り潰そうとした危険人物に、リルを抱かせて堪るか」
「そんな、殺生な……!」
オンブレッタは本気で悲しんでいたが、ここは譲れなかった。
可愛い可愛いと連呼しながら、リルが潰されるのを座視する訳にはいかないのだ。
しばし、ガックリと項垂れていたオンブレッタだが、ラーシュが入室して来て顔を上げる。
ラーシュの手には、先ほど言っていた通り、何枚も重ねた羊皮紙が握られていた。
私達と対面の席に座ると、疲れた息を吐いて、羊皮紙をテーブルの上に投げ捨てる。
「それで……、気になってたんですけど!」
「おいおい、待て待て。俺が来たのに、まだ無駄話続けようってのか?」
本来、ラーシュが来たのなら、速やかに退室しなければならない立場だ。
それにもかかわらず、オンブレッタは普通に雑談を続けようとしていた。
咎められたオンブレッタは、むしろ当然、と悪びれることなく頷く。
胸元で歪んでいるトレイが、力説すると共に、更に歪んだ。
「だって、今の内に訊いておきませんと! さっきから仲睦まじ気な様子ですけど、リルちゃんはやっぱり……紫銀の
「そうだ、私の娘だ」
「あぁ、そうなんだぁ……!」
オンブレッタは感激して目を輝かせていたが、その対象的にラーシュは深く項垂れる。
口から吐く息から魂が漏れていそうな程、そこからは暗い雰囲気を醸し出していた。
「前から、お子さんがいるって話、お聞きしてはいましたけど、私はてっきりギルド長を袖にする口実だと思ってたんですよ。全然、お子さんをお連れ下さいませんでしたし……!」
「荒くれ者が目立つギルドに、可愛い幼子を連れて来て堪るか。……だが、リルもそろそろ、分別を付けられて良い年頃だ。社会勉強の為にも、少しずつ街に触れさせようと思っていた所で……」
「なるほど、ちゃんと考えがあっての事だったんですねぇ……!」
話を聞いていたリルは、私の言葉にピンと耳を立て、期待に満ちた視線で見上げた。
「ほんと!? また、街にこれる?」
「あぁ、少しずつな。毎週、毎月、とは行かないし、これから冬だから、尚さらそういう話にはならないが……。リルはこれから、遊ぶだけじゃなくて、学ぶ事も取り入れて行かなきゃならない」
「まなぶ……? おべんきょ?」
「そう、そういう事も含めて、色々だ」
勉強と聞くと、街に遊びに行けることなど、すっかり吹き飛んでしまったようだ。
意気消沈して顔をうつむかせている。
今は遊びたい盛りだから、尚の事だろう。
しかし、リルがこれからどう生きるにしろ、学びは失わない財産となるし……。
何より、リルには必要なことだ。
それは単に、子供教育という枠組みを越えた、非常に重要な部分だ。
それに気付けるのはずっと先の事だろうが、始めるのに遅すぎるのは問題だった。
冬の間は自然、外には出なくなるから、勉強の時間は増えていくことだろう。
そういう意味でも、街には中々行けるタイミングがない。
消沈させたリルの頭を、優しく撫でる。
嫌だと態度で示していても、撫で続ければ、自然と尻尾も揺れた。
リルは尻尾の感情を隠せない。
だから私にも、自然と口の端に笑みが浮かんだ。
「はぁん……、お母さんの顔ですねぇ」
オンブレッタが感嘆にも似た息を吐き、しみじみと呟く。
「いや、他の誰かに見られなくて良かったですよ。そんな優しげな笑顔が見られるなんて、わたし思いませんでした」
「……変な顔してたか?」
頬を擦りながら言うと、オンブレッタは逆です、と力説する。
トレイはその力説に押されて、更に歪む。
既に最初の面影はなく、トレイは無様なオブジェと化していた。
「いや、紫銀の方って言ったら、いつも冷たい無表情ってのが相場だったじゃないですか。優しげな視線や、優しげな言葉でさえ、掛けられた人なんていないと思いますよ」
でも、と一度言葉を切って、リルの方へと視線を移す。
「リルちゃんを見る時や諭す時は、母性と言いますか……。母の愛が溢れていて……。そういう笑顔を向けられたら、男だったらコロっと行っちゃいますよ。うちの長なんて、それでショック受けてるじゃないですか」
「お前に……、本当に子がいるなんて……」
打ちひしがれたラーシュは、頬が痩けてさえいるかのように見えた。
しかし、私は嘘など言ってこなかったし、頑なに信じなかったのは向こうの方だ。
「だから、前から言ってたろう。私に気を向けるのは止めろ。もういい歳なんだから、さっさと嫁さん探せよ」
「俺はお前が良かったんだよぉぉぉ……!」
ラーシュはそのままソファーに横倒れになって、しくしくと泣き出した。
見ているだけ――いや、視界に入れているだけで鬱陶しい。
「そして、私は無理だと何度も言ってたけどな……。興味がない、口説こうとするな、そう何度も言ったぞ」
「言ったけどよぉ……! 一度フラれて諦めるなんて、俺には出来なかったんだよぉぉ……!」
ラーシュは突っ伏したまま慟哭した。
今までずっと脈ナシと伝えて来たし、二人だけで食事を共にしたことさえない。
誘われる事はあったが、常に拒否し続けていた。
それなのに、もしかしたら、を期待できるラーシュの方にこそ問題がある。
「まぁ、お美しい方ですからねぇ。でも、明らかに高嶺の花だったじゃないですか。今でも付き合いが継続してるだけでも、感謝する所ですよ。まぁ、それだけ相手にもされてない、って事かもしれませんけど」
「どうしてお前は、そう傷に塩を塗ること言うんだよ!? 大体――ッ!」
ラーシュはソファーから勢い良く顔を上げ、指を一本突き付けた。
「一体、その野郎はどういう男だ! この俺が見極めてやる!」
「何でギルド長に認められる必要あるんですか。最初から無関係じゃないですか」
「お前は何で、そういう心にもない事言うんだ? 同じ男として、気になるに決まってるだろ!」
「でも、リルちゃん結構、大きいですよ。最初から出番なかったんじゃないですか?」
その言葉に、ラーシュの動きが止まる。
胸に何かが刺さった体勢で、呼吸も荒く震えていた。
「ねぇ、リルちゃん? リルちゃん何歳?」
「リル? リル、五さい!」
「あらぁ、ちゃんとお歳を言えるなんて、偉いんだぁ……!」
「んひひ……!」
リルが笑うと、オンブレッタは悶えて身体を左右に揺らす。
そうしてしばらくトリップしていた彼女だが、ふと我に返って質問を飛ばした。
「うちのギルド長じゃないですけど、でも紫銀の方を射止めた男性は気になります。
ねぇリルちゃん、お父さんってどういう人?」
「んぅ……、おとぅさん? おとぅさんってなぁに?」
「え……? お父さん知らないの?」
「しらない」
それまであった、どこか明るい雰囲気が一気に固まる。
空気が一気に重くなり、二人から窺うような視線が向けられた。
リルが言ったのは真実だ。
リルは父親の存在を知らない。
そして、記憶になくて当然だった。
いつか話す機会はあると思った。
それが今日の様な日とタイミングとは思わないが、簡単に言うには良い機会かもしれない。
私はリルの頭を撫でつつ、ラーシュとオンブレッタを見ながら言った。
「リルに父親はいない。……そして、これからも会う事はないだろう」