翌朝は、朝がすっかり明けた頃に宿を出た。
獣車の手綱を掛け直し、荷の具合を確かめる。
リルはもう慣れた様子で、いつもの荷台の定位置に腰を下ろした。
毛布を膝に掛け、まだ少し眠そうに目をこすっている。
「寒くない?」
「だいじょうぶ。それより、早く森に帰りたい……。アロガいないんだもん……」
そう言って、リルの手が宙をまさぐる。
いつもなら、アロガの頭が有るような位置だ。
リルが時々……そして、多くは私がブラッシングしているお陰で、アロガの毛皮は撫で心地が良い。
手慰みというか、手癖と言うべきか。
とにかく撫でる事が動作の一部と化す程なので、それがないせいもあって、寂しく感じてしまうのだろう。
こればかりは、ナナがどれだけ気を紛らわせようとしても無理だ。
何くれと話し掛け、機嫌を取ろうとしているが、リルは寂しさを募らせるだけだった。
「うぅ~……、アロガぁ~……」
代わりにナナの頭を撫でたのだが、その感触の違いにすぐ放り投げてしまった。
「き、傷付くわね、そういう態度……。まぁ、アロガの代わりは出来ないって、分かってるけど……」
そう言いつつ、アロガに嫉妬めいた気持ちを抱いていそうな視線を向けた。
それからふと、ナナは顔を上げて不思議そうな顔をする。
「リル……あれ、なにかしら?」
ナナが指さしたのは、街の中心――広場の方角だった。
人の気配が、異様に濃い。
まだ朝早くだというのに、ざわめきが風に乗って届いてくる程だ。
「……スゴい人だかりだね、何だろ?」
「さぁて、何が起きているやら……?」
私は分からない振りをしつつ、首をかしげる。
このまま無視して通り過ぎようとした所、リルの好奇心に満ちた視線を向けた。
「いこっ! お母さん!」
「いやいや、行かないよ。アロガに会いたいって言ったばかりだろう? そっちに寄ったら、もっと帰る時間が遅くなってしまうよ」
「えぇ~……!? でもでも、楽しそう……!」
「いやいや、楽しい事などあるものか。むしろ、嫌な物を見ることになるよ」
「お母さん、あそこで何やってるか、知ってるの?」
一瞬、言葉に詰まったものの、そんな事はおくびにも出さずに言う。
「そんな事あるもんか。でもね、お母さんくらいになると、大体分かってしまうんだな」
「ふぅ~ん……。でも、行きたいっ!」
リルは昨日もお祭りと思って、肩透かしを受けているので今度こそは、と思っているのだろうが……。
残念ながら、リルが行っても楽しい事にはなっていないだろう。
「ねぇ、お母さん! おねがい! お~ね~が~い~……っ!」
仕舞いにはグズり始め、私は深く溜め息を吐いた。
「やれやれ、仕方ない……。少しだけだよ」
「やった!」
「でも、本当に楽しい事にはなってないから、そこの所は覚悟しておきなさい」
獣車を脇に寄せ、広場へ向かう。
そうして近づくにつれ、人の輪もはっきりと見えて来た。
老若男女、獣人も人間も入り混じり、笑い声や囃し立てる声が飛び交っている。
そして――、見えた。
広場を取り囲むように立つ石柱、そこに逆さ吊りにされた男達がいる。
昨日、逆上して返り討ちにされた冒険者達だ。
しかも、装備や肌着まで、全部脱がされた全裸状態だった。
手足を縛られ、口には猿ぐつわもされている。
顔が真っ赤に染まっているのは、何も逆さ吊りだけが原因ではない。
羞恥と屈辱による涙と鼻水で、ぐしゃぐしゃになっているからでもあった。
そして、近くの地面には、木板を乱暴に組み立てた粗末な立て札が、その憐れさを演出するように立っていた。
『自分達は好きでやっています。邪魔しないで下さい』
「……うわぁ、なにあれ……」
リルが、思いきり引きながら、小さく声を漏らしていた。
だが、周囲の野次馬はその反対で、むしろ遠慮がない。
「ははっ、見ろよ! 昨日まで威張ってた剣士様だぜ!」
「どうしたぁ? 風邪引くぞぉ? ああ、逆さだから血が上って暑いくらいか!」
「服も剣も無くなって、やっと身の丈ってやつだろうかね?」
「好きでやってるんだろ? なら、もっと誇らしそうにしろよ!」
遂には石や、乾いた泥が投げられ、中には腐った果物さえ放たれた。
男達は必死に何かを訴えようとしているが、猿ぐつわのせいで、「うー」「んぐっ」という、情けない音にしかならない。
それがまた、憐れな笑いを誘う。
「聞いたか? 助けてくれって言ってるぞ、たぶん!」
「違う違う、もっと見てくれって言ってるんだろ!」
嘲笑と侮辱。
悪意を娯楽にした光景――。
リルの手が、私の袖を掴んだ。
顔は、はっきりと嫌悪に歪んでいる。
そして、ぷい、と顔を背けた。
「……もういい」
その一言は、小さく震えていた。
私はすぐにリルの前に立ち、視界を遮ると、肩に手を置く。
「だから言ったろう? あんなもの、見なくていいんだ」
声を低くして、リルを落ち着かせながら言った。
「少し……意地悪な見世物になり過ぎた。あれは自分達のしたことに対する、当然の報いでもあるけど……。確かに、少し調子に乗ったかな」
あの逆さ吊りは私がやった事だし、あれが過剰な報復とは思っていない。
A級だとかいう、少し強いだけの事が誇りだったようだから、灸を据えてやったのだ。
しかし、見たいと言うリルを、もう少し強く止めるべきだった。
嫌な思いをする事は、半ば予想出来ていたのに……。
リルは、ぎゅっと唇を噛む。
「……あんな風に、されるのもヒドいけど……。まわりの皆もヒドいよ……」
「いいかい、リル。覚えておきなさい」
私は、リルの額に軽く手を当てた。
「誰かを貶めて笑う場所からは、何も良いものは生まれない。リルがそれを悪く思うなら、そうした行いもせず、近付かない様にしなさい」
一瞬、広場を振り返る。
逆さに吊られた男達と、それを笑う群衆……。
「……行こうか」
リルの手を引き、踵を返す。
獣車へ戻る途中、リルは一度も振り返らなかった。
荷台に座り直し、毛布に包まれるのを見て、私は手綱を取り、静かに森獣を進ませた。
広場の喧騒が、次第に遠ざかっていく。
「……お母さん」
「なに?」
「強くても、あぁなっちゃうこと、あるんだね」
「そうとも。間違った力を身に付けて、間違った事に使うとね……」
彼らはもう、この王都で仕事は受けられないだろう。
どこか自分達を知らない場所で再起するか、そう出なければ、廃業だ。
獣車は大通りを抜けて街を離れ、朝靄の奥へと進んで行った。
※※※
王都を発ってからの道のりは長く、それでいて穏やかだった。
獣車の方も頑丈な物を用意してくれたらしく、これまで車輪が外れたり、車軸が歪むなどの事故も起きていない。
順調そのものだった。
森獣の歩みもまた軽く、呼吸に乱れもない。
この健脚があれば、程なく目的地へ到着出来るだろう。
私は手綱を緩く保ち、道の先を読む。
ここは何度も通った道だ。
街から街へ、国から国へ……。
リルと出逢うまで、私はそうして生きてきた。
起伏の癖、風の抜け方、木々の並び――どれも身体が覚えている。
そのリルはと言うと、荷台の縁に腰掛けて、弓を手に背筋を伸ばしている。
「構えは良いわね。……でも、肩に力が入り過ぎじゃない?」
「うん……? こう?」
リルは弓矢の練習中だ。
ナナと構え方について、あれこれと模索している最中だった。
ナナのアドバイスを受けて、少しだけ力を抜くと、弓が自然な角度に落ち着く。
ナナが嬉しそうに頷いた時、パッと顔を上げる。
「……来るわよ」
小さな声が私の耳に届くと同時に、リルはナナへと顔を向けた。
「魔獣?」
「そう。まだ遠いけど、いい練習になるんじゃない?」
その言葉を耳の端で捉えつつ森の縁を見ると、確かに影が動いていた。
猪ほどの大きさはないが、素早く移動している。
逃げる気も、こちらを試す気もある、半端な距離で右往左往しているので、中々難しい相手だ。
「リル、行けそう?」
「……うん」
ナナの問いにリルは息を整え、弓を引く。
そうして、ゆっくりと引かれ、放たれた矢は――。
飛距離が足りず、地面に刺さった。
続けて射った矢は、木の幹に当たって弾かれる。
「う~んっ、惜しい!」
ナナが腕を振って、指を鳴らした。
だが、その次に放たれた矢は、真っ直ぐ飛んで命中した。
致命傷ではないが、当たってはいる。
リルは弓を習い始めて、まだ日も浅い。
それを思えば、十分すぎる成果だ。
「今度は風、使ってみる?」
「うん。お願い」
次の矢が放たれた瞬間、風が道を作った。
矢は湾曲しながらも、揺れず、迷わず、まるで導かれるように飛ぶ。
――そして、魔獣の頭部に見事、命中した。
「わ……!」
思わず、リルが声を上げる。
その後の的中率は流石なもので、風が整えれば、面白いほど良く当たる。
だが、風を使わないと、途端に横へ逸れたり、飛距離が足りなかったりした。
「……むぅ」
リルは弓を下ろし、少しだけ頬を膨らませながら唸る。
「どうしたの?」
「当たる時と、当たらないと時の差が、はっきりしすぎて……」
私はそこで、ようやく話に割って入って笑った。
「それでいいんだよ」
「……え?」
「今はね、自分の力と、借りた力の違いが分かることが大事で、当たるかどうかは二の次さ。ナナの力がなくとも当てられる様になるには、もっと練習が必要だ」
「お母さんも、たくさん練習した? どのくらい?」
「お母さんは、弓矢が苦手でね……。毎日やってた訳でもなかったし、大体……十年ってところかな」
「そんなに!?」
大袈裟に驚くリルに、私は笑みを深くして言葉を投げ掛ける。
「リルはお母さんより、よっぽど筋が良い。そんなには掛からないよ。……それより、ご覧」
私は道の先の遠く、地平線の向こうに見える、かすかな影を示した。
「あ……!」
リルも気づいたらしく、目を凝らす。
「あの街……!」
「そう、いつも行ってる、あの街だよ。帰って来たんだ」
そう告げると、リルの顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ……!」
「森まで、もうほんの少しの辛抱だ」
獣車は変わらぬ歩みで進み、懐かしい街の影が、少しずつ大きくなる。
リルが嬉しそうに声を上げた。
「もうすぐ、おうちだね!」
私はそれに頷き返し、密かな安堵の息を吐いていた。
リルを我が家で育てるようになってから、これほど長く、我が家を空けた事はない。
シルケもさぞ心配しているだろうし、もしかすると、ふて腐れているかもしれなかった。
ここまで来たら、一気に帰りたい所だが、それより前にやる事がある。
それが終われば、ようやく帰宅だ。
私はジクジクと痛む脇腹に手を添えて、震える息を、こっそりと吐いた。