街へ入ったのは、結局お昼を少し過ぎた頃だった。
門前の往来は相変わらず賑やかで、荷車と獣車が行き交い、呼び込みの声が重なっている。
その中を、私たちの獣車はゆっくりと進んだ。
「お母さん、おなか空いた……」
小さく呟いたリルの声に、私は苦笑する。
「もう少し我慢しておくれ。中に入ってから、ちゃんとしたものを食べよう」
そう言って、保存食の干し肉と固焼きのパンを渡す。
不満そうな顔をしながらも、リルはそれを受け取り、もそもそと齧り始めた。
しかし、見慣れた街の空気は、リルにとっても落ち着くらしく、機嫌も少し良くなった。
行き交う顔の中に、見知った者が混じる様になると尚更だった。
獣車を広場脇に寄せ、一息ついたところで、私はリルの方を向いた。
「リル、実は……ひとつ、話していなかった用事がある」
「……なに?」
嫌な予感がしたのだろう。
リルの目が、森獣へと向く。
「この子はね、ここで売るつもりだよ」
「――えっ!?」
保存食を持った手が止まり、リルが勢いよく立ち上がる。
「なんで!? この子、ずっと一緒に――」
「分かってる」
遮るように、しかし穏やかに言葉を重ねる。
「愛着が湧いてるのも、よく分かってる。でもね……、現実的な話をしなきゃならない」
私は、ひとつずつ、指折り数えながら、その根拠を説明した。
「まず、うちには獣舎がない。この子は乳も出さない、完全な騎獣だから、飼えば飼うほど、お金が掛かる」
リルの眉根が寄り、不満の色が増した。
「餌と水の用意をしないといけないし、毎日ちゃんと、運動もさせなきゃならない。でも森の中は危険で、放し飼いなんて出来ないだろう?」
リルは答えられず、不満顔のまま沈黙を続けた。
「それに、決定的なのは――」
私は、少しだけ声を落とした。
「アロガがいる事だ」
その一言で、リルの肩がぴくりと揺れた。
「アロガは肉食だ。この森獣の前で、いつまでも噛みつかない方が、むしろ不自然だ」
リルは唇を噛んで俯いた。
「事故が起きてからじゃ遅い。この子にとっても……、うちにとっても」
しばらく、沈黙が続いた。
森獣は何も知らずに鼻を鳴らし、その大きな身体をリルは何度も撫でていた。
「……やだ」
小さく、しかしはっきりとした声音だった。
「分かってるよ、お母さんの言いたいこと。
アロガには良く言い聞かせるから……。それでも……?」
「アロガは確かに賢いけれど、いつまで我慢が続く事やら……。それにね、狙われていると分かる気配が近くにあり続けると、森獣だって参ってしまうんだよ」
「それは……、分かる気がするけど……」
「こいつに名前を付けたり、積極的に触れ合わなかったのは、愛着を持たない様にする為だった。分かっておくれ……」
だが、リルはむくれて、視線を逸らした。
納得はしていないが、それでも、私の言葉が感情論ではないことも、分かっている。
しばらくして、リルは肩を落として息を吐いた。
「……分かった。お母さんが、決めた事だもん」
リルはそれ以上、何も言わなかった。
――諦めたのだ。
その背中を見て、胸の奥が少し痛む。
だが、現実的な部分も見なくてはならないのだ。
荷車を牽かせる予定もないのに、森獣を飼うメリットはなく、その健脚をただ余らせるだけになる。
維持費は嵩むし、家計の負担が大きくなれば、いずれそれが大きな重しとなるだろう。
――結局。
この旅で、私の呪いは打ち破れなかった。
寿命と言うなら、これが私の寿命なのかもしれない。
残り時間は少なく、遺してやれる物も尚、少ない。
だからと、座して待つつもりは毛頭なかった。
だが、それでも最悪を考えないではいられない。
私が去ることになろうとも、なるべく負担は軽くしてやりたい。
その思いが、森獣を諦める、最も大きな理由だった。
※※※
私たちは、そのあと街の奥へと向かった。
木と石で造られた、上品な清潔感で溢れた店の前で獣車を止めると、リルと一緒に下りる。
この時にはもう、ナナはリルの中に戻っていて姿を消していた。
リルの負担を慮ってものでもあり、親しくない者から姿を隠したいからでもある。
扉を開けると軽やかな鈴が鳴り、店先に居た人物が、すぐに気付いてこちらを向いた。
「おや……?」
丁度、店員と何か遣り取りしていたベントリーから、体格に見合う太い声が発せられる。
「これはこれは……! 随分とまぁ、お久しぶりでございますな」
恰幅の良い店主――ベントリーが、満面の笑みでこちらへ歩み寄って来た。
「お元気そうで何よりです。それにしても……」
ちらり、と森獣を見て、唸り声を上げた。
「これはまた、ご立派なのを連れておいでで……。とうとう、商売の規模を拡大させるおつもりなのですかな?」
その声に、リルが少しだけ、複雑そうな顔で森獣を見た。
私は軽く息を整えてから言う。
「いや、そう言う事じゃないんだ。……今日は――」
だが、詳しく説明するより前に、ベントリーが言葉を遮ってしまった。
「……大事なお話を――いやいや、それ以前に貴女様を、店先で立たせたままには参りませんな。ささ、場所を変えましょう」
森獣を値踏みする視線でいたベントリーは、ふっと笑って、そう言った。
「表で話す内容では御座いますまい。……どうぞ、こちらへ」
流石、場数を踏んで来た商人は、気の利いた事をしてくれる。
促されるまま、私たちは店の奥へ通され、通路を抜けた先、商談用の上品な一室へと案内された。
壁は落ち着いた色合いの木張りで、窓から差し込む光は柔らかく、香草を焚いた微かな匂いが漂っている。
中央には磨き込まれた卓と、ゆったりとした椅子が向かい合って置かれていた。
「どうぞ、お掛け下さい」
そう言ってから、ベントリーは軽く姿勢を正す。
「改めまして……。いつもながらのご贔屓に、このベントリー、感謝いたします」
知己の間柄であっても、商人は商人だ。
その口調には、礼節と距離がきちんと保たれている。
それに倣って、私も応じた。
「こちらこそ。急な来訪にもかかわらず、時間を割いて貰って感謝するよ」
軽く会釈してリルに目配せすると、リルもまた私に倣って頭を下げた。
「ありがとう、ございますっ!」
ベントリーは目を細め、にこりと笑った。
「随分と大きくなりましたな。……いや、それ以上に、何か大きな出来事があったのですかな。出会いはヒトを成長させる、と申します。そうした何かがあったなら、喜ばしいですな」
一通りの挨拶が済んだところで、私は本題に入った。
「単刀直入に行こうか。あの森獣を、こちらで引き取って貰えないか?」
「――ほう」
ベントリーは意外そう――でも、なかったらしく、眉を上げただけで留めた。
「あれほどの個体、そう滅多に出回るものではありませんが……。何となく、そうではないか、という気はしておりました」
「そうか……。まぁ、こちらにろ事情が色々あるんだ」
それ以上、詳しい説明はしなかったが、
彼もまた、深くは踏み込んで来なかった。
「……分かりました」
短く頷き、卓の端に置かれた鈴を鳴らす。
「表の物の査定を」
すぐに現れた店員にそう告げると、森獣の確認に向かう。
扉が閉まると、室内には私たち三人だけが残った。
私は、少し間を置いてから、もう一つの話題を切り出す。
「それと、実はもう一件あるんだ。森獣とは別の話でな……」
ベントリーの視線が、鋭くなる。
「……それはまた、何やら緊張させられるお話ですな」
「私が持っている、水薬試験紙の利権についてだ」
その言葉に、今度こそ彼は目を見開いた。
「正確には――」
私はリルの肩に、そっと手を置いた。
「それを、この子に譲渡したい」
空気がぴたりと止まり、ベントリーの眉間に皺が寄る。
そして、思いも寄らぬ言葉を聞いた反応そのままに、結ばれた口から声が漏れた。
「……何やら、ただ事ではあるませんな」
「証明書を発行して欲しいんだ。正式な形で」
「お待ちを。――ちょっと、お待ち下さい」
ベントリーにしては珍しく、言葉を荒らげて続ける。
「冗談にしては、質が悪い。あれがどれほどの価値を持つか、貴女さま自身が一番よくご存知のはずだ」
「そうだな……」
ベントリーの動揺とは正反対に、私は冷静な態度で頷いた。
「だからこそだ」
「理由を聞いても?」
「答えられない」
唸るようにして腕を組むベントリーに、私は視線を逸らさずに言った。
「ただ――、万が一を想定してのものさ。もしもの時、この子が困らないように、という……行き過ぎた親心、みたいなものかな」
ベントリーは、しばらく黙り込んだ。
商人としての計算、知己としての情。
その二つが、彼の中でせめぎ合っているのが分かる。
「……本気の様ですな」
「冗談で言えることじゃないだろう」
ベントリーは深い溜め息をつくと、両手を挙げて首を振った。
「貴女様は本当に――いや、昔からそうでしたな」
諦めたようにそう言って、手を元に戻すと
やがて頷きを見せた。
「分かりました。証明書は用意しましょう」
「ありがとう、助かるよ」
「正直なところを申しますと、不安ばかりが募りますが……貴女様には、色々助けられておりますからな。試験紙の商売も順調そのもので、そろそろ規模の拡大を、と考えていたものですから……」
それでは、私の話を聞けば、不安になるのも当然だろう。
だが、突然梯子を外されたり、生産を止めたりする事にはならない。
あくまで、リルに生活の不便をさせたくない、という親心だ。
商売について邪魔する意図はない、と改めて説明する必要があるだろう。
その時、リルが不安そうに私を見上げてきた。
「……お母さん?」
私は、何も答えずにリルを抱き寄せ、頭を撫でる。
「大丈夫、心配なんか要らないよ」
それだけ言って、微笑んだ。
リルは、まだ何か言いたそうだったが、結局黙って私の胸に額を寄せた。
ほどなくして、店員が戻って来ると、慇懃に礼をして報告する。
「査定が終わりました」
ベントリーは頷き、私の方を見るタイミングて、立ち上がって言った。
「森獣の代金と証明書は、後日、まとめて受け取りに来る」
「承知しました」
短く、重い返事があって、商談はこれで終わった。
私たちは席を立ち、部屋を後にする。
後は本当に家に帰るだけだ。
量の肩に乗っていた重しが、ようやく軽くなった心待ちで、私は店の外へと歩き出した。