用事が済んだので、ようやく“ちゃんとした昼食”を取ることになった。
昼時の通りは活気に満ちていて、焼いた肉の香ばしい匂い、煮込みの湯気、香辛料の甘く刺激的な香りが混じり合い、空腹をこれでもかと刺激してくる。
リルは鼻をひくひくさせながら、さっきまでの不機嫌が嘘のように、目を輝かせていた。
しばらく何処に入るか迷った後、私たちが入ったのは、街の中央広場に面した食堂だった。
石造りの建物で、木の梁が見える天井、長年使い込まれたテーブルと椅子が並び、昼休みの職人や商人で、ほぼ満席になっている。
「ちょっと混んでるけど、ここにしようか」
そう言うと、リルはこくこくと頷いた。
注文したのは、この街の定番料理だ。
香草と塩で下味を付けた獣肉を炭火でじっくり焼いたグリル、根菜をたっぷり使った濃厚なシチュー、そして焼きたての平たいパン。
仕上げに、発酵乳を使った白いソースが添えられている。
運ばれてきた瞬間、リルは思わず声を上げた。
「わあ……!」
肉は表面がこんがりと焼け、中は驚くほど柔らかい。
ナイフを入れると、じゅわりと肉汁が溢れ、香草の香りが立ち上る。
「熱いから、気を付けなさい」
そう言いながら、私も一口切り分けて口に入れる。
……うん、間違いない。
噛むほどに旨味が広がり、添えられたソースがそれを優しくまとめてくれる。
シチューは野菜がとろとろで、長時間煮込まれた深い味わいがした。
パンを浸して食べると、それだけで満足感が増す。
リルは最初こそ黙々と食べていたが、半分もいかないうちに、頬が緩み始めた。
「おいしいねっ」
「この街で焼肉とシチューといったら、まず外れのない料理だからね」
「うん。でも、シルケとお母さんが作るシチューも好き」
その声には、もう拗ねた響きは残っていない。
最後に、蜂蜜をかけた焼きリンゴまで平らげる頃には、リルは完全にご機嫌だった。
椅子に深く腰掛け、満腹そうにお腹をさすっている。
「……歩ける?」
「だいじょうぶ!」
その元気さに苦笑しつつ、席を立つ。
そうして店を出て、いよいよ森に帰ろうとした、その時だった。
「あれ? もしかして――」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこには見知った顔があった。
「ラーシュ?」
「やっぱり、お前さんだったか!」
笑顔で手を振る大柄な男の隣には、明るい雰囲気の女性が立っている。
オンブレッタだ。
その彼女の腕には、小さな子どもが抱かれていた。
「久しぶりだな」
そう声を掛けると、オンブレッタはにこりと笑った。
「ほんとうに。リルちゃんとは良く会うけれど、紫銀の方とは、久々な気がしますね」
軽く挨拶を交わした後、自然と話は近況に及び……。
いくつかの話題を経由して、収穫祭の夜の話に移っていった。
「いやぁ……」
ラーシュは苦笑しながら頭を掻く。
「フラれたのが、あんなに効くとは思わなくてな。気が付いたら、酒樽と話してた」
「それを、私が見てあげてたのよ」
オンブレッタが、思い出したように吹き出す。
「もう、面白くて……! 延々と愚痴るんだもの」
結果、二日酔いで目覚めた翌朝、互いに裸で同じベッド、という醜態を演じる。
責任を取る、取らないの話になり、最終的には結婚――という、あまりにも勢い任せな流れとなった。
いつだったか、オンブレッタ本人から聞いた話でもある。
だが、この話には続きがあって、本当はあの夜、何もなかった――と言うのが、真相だ。
ドッキリのつもりで、どういう反応するか見たかった、と語っていた。
『責任取る、なんて言われるとは思わなかったけど。まぁ……、悪くない相手だったし?』
そう、悪びれる事なく言ったものだ。
ラーシュは、その話を知らないまま、今もオンブレッタが腕の中にいる子を、だらしない笑顔で見つめていた。
「うちの子には、もう何度か会ってるよな? 名前は、覚えてるか?」
「リル……、なんて言ったっけ?」
「――フィオちゃんだよ」
リルはもう、学舎では最高学年で、だから私も終わりに合わせて待ち構える事はしなくなった。
ミーナやモンティと言った、気心の知れた友人達と遊び、日が暮れる前に迎えに行く事になっている。
そして大抵の場合、モンティと遊ぶときは強い要望で冒険者ギルドに顔を出す。
そしてリルは、子育てしながら受付嬢をしているオンブレッタに、会いに行くのが通例だと、良く話して聞かせてくれた。
だから、リルはフィオのお姉さん気取りだ。
まだ一歳程の丸い目で、こちらをじっと見つめ、やがてリルの存在に気付いたのか、ぱあっと顔を明るくした。
「あー!」
小さな手を伸ばし、リルの方へ身体を向けようとする。
「めっ、だよ、フィオちゃん。危ないからね」
リルが近付くと、フィオは嬉しそうに声を上げ、今度はリルの尻尾に興味津々で手を伸ばす。
「それ、好きなのよねぇ……。リルちゃんの、とってもふわふわだから」
オンブレッタが笑うと、リルは自ら後ろを向いて差し出す。
その表情は慣れたもの、と如実に語っていた。
「いっつも、お母さんが漉いてくれるからね!」
「そろそろ自分でも、やれるようにならないと……」
「代わりに、アロガの方をやってるから良いの!」
「どういう理屈なんだか……」
私が苦笑している間も、そう言って笑いながら、されるがままになっていた。
その様子を見て、私は小さく息を吐く。
こうして、街で知己と出会い、笑い合う――。
それだけで、旅の疲れも、心のわだかまりも、少しずつ溶けていく気がした。
しかし、そうした楽しい時間も終わりを迎える。
ラーシュも責任ある立場だから、そう長くギルドを離れていられない。
家のこと、子育ては妻がするもの、という風潮は強い一方、だから夫はしっかり働かなければならない、という意識も強かった。
ラーシュはどうやら子煩悩の様で、いつまでも一緒に居たい様だったが、オンブレッタに説得されて、渋々仕事へ戻ることにしたようだ。
「じゃあ、またね」
フィオが満足した事もあり、ラーシュ夫妻と別れて、私たちは再び歩き出した。
リルの尻尾は未だ、機嫌良く左右に揺れている。
それはまだ、少しだけ子どもの温もりを、覚えているからなのかもしれなかった。
※※※
森へは、いつも通りの方法で帰宅した。
ボーダナンとは逆方向――人の往来もなく、獣道すら曖昧になる森の奥。
そこに隠してある転移陣を起動し、私とリルは一瞬の浮遊感と共に、慣れた匂いの中へと戻ってきた。
視界が定まると、そこは森の端で、畑が見渡せる緩やかな斜面に立っている。
季節ごとに土の色が変わり、作物の背が伸びていく、私たちの帰る場所が一望出来る。
「――ついた!」
リルは、ぱっと表情を明るくさせた。
その声には、抑えきれない喜びが詰まっている。
「おうちだぁぁ~!」
畑の向こう、木立の間に見える母屋。
何度も見てきた景色なのに、旅を終えた今は、ひどく胸に染みる。
――実際、長い道のりだった。
危険も、選択も、決断もあり、それを乗り越えて無事に帰ってきた。
――その安堵と達成感は、リルに取ってみれば、一大冒険譚の様にも思えた事だろう。
「ねぇ、お母さん!」
リルが振り返り、屈託のない笑顔を向けてきた。
「わたし、もう一人前だよね?」
試すようでもあり、確信しているようでもある口調だった。
私は少しだけ間を置いてから頷く。
「そうだな、リルは良くやったよ」
リルは更にパッと顔を輝かせ、待ってましたと言わんばかりに意気込んだ。
「じゃあ、じゃあ! 森にも入れるよね?」
期待に満ちた眼差しは、不安よりも好奇心が勝っている。
「……うん、良いよ。ただし、勝手に深入りはしないこと。そして、必ずアロガも一緒なこと」
「ほんと!?」
「それが約束できるならね」
「できる!」
即答して両手を高く上げて、歓声を上げた。
その無邪気さに、思わず苦笑が漏れる。
――どちらにせよ、リルには森を学ばせよう、と思っていた。
もっと大きくなってから、などと悠長な事を言ってられない。
その時、母屋の方から、土を蹴る音がした。
影が一つ、一直線にこちらへ駆けてくる。
身構えるより早く、その影はリルに飛びつき、覆い被さった。
「きゃっ――!」
大きな体躯は見間違いようもなく、筋肉の塊のような胴は、堂々たる魔獣を体現していた。
「ちょ、ちょっと、アロガ――!」
リルの制止など、まるで耳に入らない様子で、アロガはその顔を舐め回している。
その光景だけを見れば、捕食されているように見えなくもない。
だが、当の本人は……。
「きゃははは! ちょっと、くすぐったいってば!」
リルは笑い転げ、涎まみれになりながらも、両手でアロガの顔を撫で回していた。
「仕方ないなぁ、アロガは! 寂しかったの?」
あやすような声で言って、それから自慢げに胸を張る。
「わたしはゼンゼン、寂しくなんかなかったもんね!」
強がり言っちゃって……。
旅の途中、夜の焚き火の傍や、荷台の上で揺られながら、何度となくアロガの話をしていた。
森を思い出し、家を思い出し、そして――アロガを思い出していたのを知っている身としては、微笑ましく苦笑するかなかった。
そして、それとは対照的に、アロガはこれまでの空白を埋めるかのように、喜びの感情を爆発させていた。
留守の間、森を離れず、母屋の周囲を巡り……そして今日という、この瞬間を待っていたのだろうから、こうなるのはむしろ当然という気がした。
「ほらほら……。もう、そのくらいにしてあげなさい」
そう言うと、アロガは名残惜しそうに鼻を鳴らし、ようやくリルから離れた。
それでもぴったりと側を離れないあたり、相当寂しかったと窺える。
「……さて」
私は小さく息を吐いてから言った。
「旅の汚れを落としてしまおう。お風呂に入ってきなさい」
「えー! お母さんも一緒に入ろうよ!」
その無邪気な誘いに、胸がちくりとする。
それでも出来るだけ、いつも通りの声で言った。
「……一人前になったんだろう? だったら、一人で入れなくちゃ」
一瞬だけ、リルは不満そうに口を尖らせたが、すぐに肩をすくめた。
「別にいいもん」
そう言って、ひらりと振り返る。
「ね、ナナ。一緒に行こ」
「……いいわよ、行きましょうか」
リルの背後から溶けるように現れ、楽しげに応える。
二人――いや、二人と一体が、母屋へ向かって駆けていく背中を、私は黙って見送った。
完全に姿が見えなくなってから、私はそっと、腕の裾を捲る。
白い肌の上に刻まれた呪いの紋様は、もうこんな所まで拡がっていた。
以前よりも格段に拡がった理由は、悪魔の恨みを一層買ったことだろう。
ここまでに使った魔力など、砦の一件くらいしかないのに、それにしては拡がり過ぎていた。
魔力を完全封印されば、この呪いからの影響は最小限、殆ど無力化も可能だろう。
だが、それは私から戦う力を喪失させる事を意味した。
――それも一つの解決策だろうが……。
しかし、抗う
「まぁ、どうするにせよ……」
もう、隠しきれる段階ではない。
一緒に風呂に入れば、気付かれない方が不自然だ。
誤魔化しは、もう利かない。
――残り時間は、そう多くない、と如実に示していた。
森の匂い、家の温もり、娘の笑顔。
それらを胸に刻むように、私は静かに腕を下ろした。
まだ、やるべきことは残っている。
終わらせなければならないこともあり、リルには教えたい事が山程あった。
「……参ったな」
誰にともなく、そう呟いた時、母屋の方から視線を感じて顔を上げる。
そこに鋳たのはシルケで、目が合うとなきわらいの表情で頭を下げた。
「どうやら、
彼女は声を発せない。
しかし、その態度と表情は、憂い顔でありつつも、優しげにお帰りなさい、と告げていた。
「あぁ、ただいま……」