混沌の魔女と獣人の子   作:鉄鎖亡者

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束の間の安息 その1

 再び、森の日常が戻って来た。

 朝霧が木々の根元を這い、鳥たちが決まった枝で声合わせをする。

 

 風は森の奥から畑へと抜け、湿った土と若葉の匂いを運んでくる。

 旅立つ前と何一つ変わらない――そう言いたいところだが、私とリルの内側だけが、確かに違っていた。

 

 とはいえ、しばらくは何も急がない。

 

「今日はお休みだな。疲れが癒えるまで、ゆっくりしていよう」

 

 そう宣言してから、私は意識的に“仕事”から距離を置いた。

 旅の疲れを癒やすため、そしてリルにとっても、森に帰ってきた実感を取り戻すため……。

 

 もっとも、家事や森の営みが止まる事はない。

 私が居ない間も変わらずやってくれていたシルケ達、まだしばらくお願いするつもりだ。

 

 妖精達は文句を言いつつ従い、小精霊は快諾してくれて、一安心した。

 そうして着手して貰った、最初の仕事が畑だった。

 畑の見回りと水やりは、朝露が消える前に妖精達が担当する。

 

 腰に小さな革袋を下げ、そこから精霊水を少量ずつ撒いていく。

 ただの水ではない。土中の養分を均し、根を傷めずに行き渡らせる、精霊が調整した水だ。

 

「この列は昨日、土が少し硬かったのよね~」

 

 そんな独り言を言いながら、妖精は他にも二、三体呼び寄せる。

 妖精たちは畝の上を飛び回り、土をほぐし、害虫の気配があれば早めに処理した。

 

 家の周りでは、別の役割分担があった。

 屋根の上では妖精たちが苔を取り、雨樋に詰まった落ち葉を片付ける。

 

 壁際では土精霊が基礎のひび割れを塞ぎ、床下の湿気を逃がす通り道を整えていた。

 

 かまどの火の管理は火精霊の仕事だ。

 火力を強弱を見極め、火を起こしやすい状態を保ちつつ、指示があれば火力の調節もしてくれる。

 

 そのおかげで、シルケが台所に立つ時は、いつでもすぐに調理が出来た。

 森の見回りも、今は彼らに任せている。

 

 アロガが家の周囲を巡回し、その気配を風精霊が拾い、異変があれば私に知らせる。

 魔獣は元より、他の何かも我が家の領域に近付こうとしないものだが、やはり迷い込んでしまう事はある。

 

 だから近づく前に、自然と遠ざけてくれるこの連携は、今は非常に有り難かった。

 

「お母さん、ほんとに何もしなくていいの?」

 

 縁側で日向ぼっこをしていると、リルが不思議そうに聞いてくる。

 

「良いんだよ。疲れと言うのはね、案外、自覚できない所で蓄積しているものだから」

 

 そう言うと、リルは少し考えてから、私の隣に座り込んだ。

 ナナはリルの肩の上で、満足そうにくるりと一回転して、背負われる形で抱き着く。

 

 リルは畑の方を見て、感心混じりに呟く。

 

「妖精たち、すごい頑張ってるね」

 

「そうだね。私たちが無理をしないために、働いてくれているんだ」

 

「出来るんなら、いっつも、そうすれば良いのに……っ」

 

 妖精は気紛れなものだ。

 今回、こちらを慮かって動いているのも、また気紛れの一つに過ぎない。

 

 私の疲れが、彼らには分かるのだろうか。

 或いは、この身に巣くう呪いについて、何か察するものがあるのかもしれない。

 

 ここまで献身的な気紛れは、私にしても見た事がなかった。

 だが、何にしろ有難いので、今は任せて休む事にした。

 

 ――そうして数日は、穏やかに過ぎていった。

 

 昼は縁側で風に当たり、夜は早めに灯りを落とす。

 リルはアロガとじゃれ合い、森の縁まで散歩し、ナナとのお喋りに疲れたら昼寝をする。

 

 ――いつも通りの日常。

 私はその日、織物をしながらその光景を見つめ、胸に刻むように過ごした。

 

 

  ※※※

 

 

 森へ入るのは、久しぶりだった。

 畑近くや家の周囲とは違う、もっと深く、もっと静かな森の奥――。

 

 足を踏み入れた瞬間、空気の密度が変わるのが分かった。

 湿り気を帯びた冷気、木肌に残る夜露の匂い、遠くで折れた枝の乾いた音……。

 

 森は相変わらず、こちらを受け入れも拒みもしない、ただ“在るがまま”の姿をしていた。

 

「リル、離れ過ぎてはいけないよ」

 

「はいっ!」

 

 リルは素直に頷いて意気込み、両手を胸の前で握った。

 

 腰には短剣、背には弓を。

 まだ子ども用だが、張りはしっかり調整し、矢羽も自分で整えたものだった。

 

 アロガは私たちの少し前を歩き、時折立ち止まっては鼻先を上げる。

 その仕草は、まるで妹を連れた兄そのもので、危険がないかを確かめ、振り返ってリルを一瞥し……それからまた進む。

 

 その背中に、リルは全幅の信頼を置いているから、その歩みは気楽なものだ。

 ナナはというと、リルの肩口近くを漂っていた。

 

 葉の隙間を縫い、枝の影に溶け、また現れる。

 その動きは遊びのようでいて、実は周囲の気流と異変を確かめているのだが、リルには楽しそうに空中を泳いでいる様に見えたらしい。

 

 時々、羨ましそうに、その姿を目で追っていた。

 

 今回の目的は、いつもと同じ薬草の採取だ。

 森の西、獣道が幾つも交差する辺りが目的地になる。

 日照は不規則で、湿地と乾いた斜面が混在している場所だ。

 

 薬草の質は良いが、その分、魔獣も好む場所でもあるから、当然家の周囲より危険度は増す。

 

「ここから先は、目と耳を半分ずつ使いなさい」

 

 目的地へ近付くにつれ、私は歩調を落として、そう言った。

 

「目で見えるものだけを信じない。音、匂い、風の流れ……。そうしたものから、感じ取るんだ。特に森では、見えないものの方が多いから」

 

 リルは真剣な顔で頷き、弓を持つ手を少しだけ高く構えた。

 開けた草地を抜けると、視界は一気に悪くなる。

 

 低木が密集し、倒木が道を塞ぎ、苔むした岩があちこちに顔を出している。

 

「こういう場所での弓は、非常に難しい」

 

 私はそう言いながら、一本の倒木の影に身を寄せた。

 

「草原と違って、矢は真っ直ぐ飛ばない。

枝に当たる、葉に触れる、風が乱れる。そうした要因があるからね。だから――」

 

 私は小さく手を振り、リルの位置を指示する。

 

「撃つ前に、通り道を“視”なさい。狙うのは敵じゃない。矢が通る空間の方だ」

 

 リルは木立の向こうを、じっと見つめる。

 ナナがふわりと前に出て、風の流れを示すように一瞬だけ光を強めた。

 

 その時だった。

 アロガの耳が、ぴくりと動き、次の瞬間、低く唸って前脚を踏みしめる。

 

 音は聞こえない。

 だが、確実に“何か”が近付いている。

 

「――リル」

 

 小さく呼ぶと、リルはすぐに弓を構えた。

 膝を軽く曲げ、重心を落とす、私が教えた通りの姿勢だ。

 

「遮蔽物を使いなさい。正面を向いたままじゃなく」

 

 リルは木の幹に半身を隠し、矢を番える。

 狙いは低木の奥、まだ姿は見えない向こう側だが……、その気配は濃い。

 

 ナナが風を整え始めたのを見て、私は敢えてそれを止めた。

 

「今回は、自分でさせてみよう」

 

 リルの喉が、小さく鳴る。

 それでも、弓を引く腕は震えていなかった。

 

 ――がさり、と微かな音が聞こえた。

 

 低木が揺れ、黒い影が一瞬、覗く。

 小型の魔獣だ。

 

 猪ほどではないが牙があり、油断すれば怪我をする。

 

「――今」

 

 私の声と同時に、リルは矢を放った。

 矢は枝をかすめ、軌道がわずかに逸れる。

 

 だが、それでも十分だった。

 獣の肩口を掠め、悲鳴と共に影は森の奥へと逃げていく。

 

 静寂が戻り、リルはゆっくりと息を吐いた。

 

「……当たらなかった」

 

「いいや、的中じゃなかっただけさ。ちゃんと当たってはいたよ」

 

 私はそう言って、頭を撫でる。

 

「遮蔽物の多い場所では、それでいい。追い払うことも、立派な成果さ。魔獣の縄張りに入ったのは、こちらの方だ。敵意を向けられて当然だし、そうして全ての敵を殺してしまうのはね、健全とは言い難い」

 

「んぅ……、ちょっと難しい……。でも、追い払うだけじゃ、また襲ってこない?」

 

「来るかもね。また別の魔獣の場合だってあるだろう。でも、それで良いんだよ」

 

「やっぱり、難しいよ……」

 

 アロガは唸りを収め、周囲を一巡してから戻ってきた。

 問題なし、と言いたげに、リルの手を鼻先で軽く突く。

 

 その後は、慎重に進みながら薬草を探した。

 

 岩陰には、葉脈が紫がかった《夜露草》。

 倒木の根元には、獣除けにもなる《灰葉の茎》。

 

 湿った斜面には、解熱に使える《白鈴苔》。

 一つ採るごとに、リルに見せて確認させるのは、野外学習も兼ねているからだ。

 

「似ているけど、違いは分かる?」

 

「ん~……、匂い。こっちは、ちょっと苦いカンジ」

 

 正解だ。

 

 こうして静かに観察し、必要なものだけを頂くこともまた、生きる術だ。

 戦う術だけが、リルにとって必要なのではない。

 

 そうやって、薬草の採取を続ける事しばし――。

 気が付けば、日差しは西に傾いていた。

 

「今日はここまで」

 

 そう告げると、リルは少し名残惜しそうにしながらも頷いた。

 その帰り道、リルは弓を背負いながら言った。

 

「森って……やっぱり、怖いね」

 

「それが分かる様になっただけでも収穫だな。でも――」

 

 私は微笑んで、リルを撫でる。

 

「ちゃんと学べば、ちゃんと応えてくれる場所でもあるんだよ。しっかり学びなさい」

 

 アロガが先を歩き、ナナが光を揺らす。

 その背中を見ながら、私は思う。

 

 ――この森で、リルは確実に逞しく……そして強くなっている。

 

 それは剣や弓だけの話ではない。

 生きるための“目”を少しずつ手に入れ、己の力にしようとする、そうした強さだ。

 

 そしてそれこそ、今の私がリルに与えたい強さそのものだった。

 

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