森へリルを連れ立った日を境に、休息期間は静かに幕を閉じた。
あの数日は、嵐の合間に差し込んだ陽だまりのようなもので、あまり長く休むと身体が鈍ってしまう。
翌朝から、私たちはまた、普段通りの日常に戻った。
私は採取した薬草の選定や、水薬を作ったりと仕事をし、リルは学舎へと通う。
今年が、あの学舎で学ぶ最後の年だ。
本人も分かっているのだろう、いつもより少しだけ歩みが遅い。
いつも通りに街の中まで一緒に入り、そして学舎に向かうその途中で、ミーナやモンティと合流した。
これもまた、日常と化した光景だ。
学舎までは大体十五分ほど。それまで他愛ない会話が、三人の中で繰り広げられる。
「リルってさ、けっこー長い間、学舎に来なかったろ? 何してたんだ? 家の手伝いか?」
「んーん、お隣の国とか行ってたの」
わぁ、と感心した声が出る一方、羨み悔しがる声も上がった。
そして、悔しがる声を上げた当のモンティは、リルに身体を寄せて詰問する様に言う。
「なぁ、隣って何処だ? 何処まで行ったんだ?」
「獣人国だよ。そこの何処まで……かは、分からないけど、けっこう遠くまで! お友達も出来たんだ!」
「わぁ~っ。素敵ね、リルちゃん!」
手放しに喜びを分かち合おうとするミーナに、リルは満面の笑みで応える。
「うんっ! フェリカって名前でね、ちゃん付けすると怒るの。戦士らしくないから、イヤーなんだって!」
「本場の獣人だもんなぁ……! きっと毎日、狩りとかして、鍛えてるんだろうな」
モンティが訳知り顔で頷き、リルはそれを否定した。
「毎日はしてなかったよ。それに、子どもは狩りに参加させてくれないんだ。そういうのは、大人の仕事だから」
「そうなんか? 俺はてっきり、子どもの頃から森に入ったりして、自然と鍛えてたりすると思ってた」
「勝手に入れないし、入ったら怒られるんだよ! それにね、フェリカの村は魔物に襲われたばかりで、皆とっても森を怖がってた。だから、尚更!」
「魔物!」
ミーナは悲鳴を上げて、今更ながらリルの肩や背中を撫でて、無事を確かめる。
「大丈夫だった? 怪我してない?」
「ぜ~んぜん! お母さんが、やっつけてくれたもん!」
自慢げに胸を張るリルから、二人は目を離し、今度は私へと視線が集中する。
「すごい、すごい! リルちゃんのママ、すっごく強いんだ!」
「見てみたかったなぁ~! ねぇ、どんなのだった? 怖かった? 強さって、どのくらい?」
「おやおや……」
羨望に近い、純真な眼差しを向けられて、何とも面映ゆくなる。
話してやりたい気もするが、あまり大っぴらに出来る事でもなかった。
だから私は、曖昧な説明と共に、話の矛差しをずらす。
「まぁ、そこそこさ。冒険者になれば、あぁいう手合いとは、何度も戦う事になるんじゃないのかな」
――勿論、これは嘘だ。
あんなのが普通にいたら、ヒトの世界はもっと混沌としてしまう。
だが、そんな事を知る由もないモンティは、間極まった様子で頷いた。
拳を胸元で握っては、遠くを見つめて言う。
「冒険者か……! 俺の夢だ。いつかきっと、大きな世界に飛び出すんだ……!」
「でもね、モンティ……」
熱い視線で暑苦し語るモンティに、リルは水を掛けるような事を言う。
「冒険者って、あんまりかっこ良くないかも……。なんか……、昔のボレホみたいだった」
そう言うリルの視線を向けた先では、そのボレホと手下が、こちらの様子を窺っている。
私とリルの身に何かあったら拙いからと、未だにあぁして見張っているからだが……。
尾行の腕は相変わらずで、最近は周囲を威嚇して、敢えて見つかる前提でいるくらいだった。
モンティはリルの話を聞いて、鼻の頭に皺を寄せたが、すぐに反論が始まる。
「いや、そうは言っても、全員が全員、そうじゃないだろ? 強くて格好いい、英雄みたいなヒトだっているさ! 俺がなりたいのは、そういうヤツなんだよ!」
「それは分かるけど……。でも、お母さんはね、大体の冒険者は、ゴロツキみたいのなんだって言ってた」
「ホント? リルちゃんのママ!」
「まぁ……、そうだね。大体の冒険者は、その程度な者さ。強ければ何しても良いと、勘違いしている者が多すぎる。その上、品性を伴わない者も多いから……。そういう輩はね、犯罪紛いの事をするのに躊躇いがない」
嘆息混じりにそう言うと、ミーナは不愉快そうに眉根を寄せ、それとは反対に、モンティは拳を掲げていきり立つ。
「俺はそんなのにならないぞ! 誰もが認める、親が誇れる英雄になるんだ! 悪いことなんか、するもんか!」
「そうだね、そういう冒険者なら歓迎だろうね」
私が頭を撫で繰り回すと、モンティは身体をクネクネと捩って照れだした。
それを見たミーナは当然、面白くなく、可愛らしく頬を膨らませて、声を張り上げる。
「フゥ~ンだ! それだって、モンティ一人での冒険じゃないって、ちゃんと分かってるんでしょうね!」
「……えっ! あれって、本気だったのか?」
「当たり前でしょ? モンティ一人でなんて、危なっかしくて、待ってるのが怖いだけだもの。――ね、リルちゃんは? どうするの?」
「一緒に行こうぜ! この三人で、冒険者のトップに立ってやるんだ!」
そう意気込むモンティだったが、リルの反応は芳しくない。
私の方を盗み見るようにして一瞥してから、モンティへと顔を戻した。
「お母さんはね、私が冒険者になるの、あんまり嬉しくないみたい」
「そうなの?」
「なんでだよ、リルの母ちゃん! リルは強いから、きっと大丈夫だって!」
「そういう事ではなくてね……」
私は苦笑しながら、どう言うべきか迷う。
「リルは確かに強いし、もしかしたら
冒険者とは、単に危険な魔獣の退治をするだけではない。
薬草の採取であったり、未知の地を切り開き地図に記したり、護衛依頼をこなす訳だが……。
一般的にはその通りでも、しかし、Sランク冒険者は、また話が別だった。
彼らには特殊で、秘匿されている任務が与えられる。
リルならばSランクに到達出来ると思う反面、到達したとき知らされる、隠された真実を知って欲しくない、と思う。
「わたし、お母さんがなって欲しくない、って言うなら、ならないよ」
リルの目には憂う色が浮かんでいて、そんな顔をさせてしまった事に申し訳なく思った。
モンティとミーナは、そう決断したリルを残念そうに見つめていた。
しかし、それ以上は何も言わない。
そうこうしている内に、学舎のすぐ近くまでやって来ていて、私は足を止めて見送った。
リルは門をくぐる前に振り返って手を振り、そうして、今日は何を習うのかを、わざわざ口に出すのもいつもの事だった。
「今日はね、算術なの。わたしだけ、ちょっと難しいヤツ。じゃあ、行ってくるね、お母さん」
「行ってらっしゃい。夕方前には迎えに行くから」
リルにはお小遣いを多めに渡してあるので、そこから好きに昼食を取る。
何に使うかは自由だし、時にミーナやモンティの家でお世話になる事もあった。
子ども達だけにするのは不安もあるが、ボレホ達が見張っているし、リルの服の裏地には特殊な魔方陣を縫い付けてあるので、位置は常に把握できる。
何かあればすぐに駆け付けられるので、そこまで深刻でもなかった。
「さて……」
このやり取りも、あとどれくらい残っているのだろう。
そう思いながら手を振っていると、何となく、リルの背中が少しだけ大きく見えた。
※※※
家に戻ると、台所にはもうシルケがいた。
どうやら、干していた香草を確認しているらしく、その表情は真剣そのものだ。
リルの居ない時間帯は、私にとっても自由時間で、この間に裁縫など細々とした仕事を終わらせる。
昼食を取って暫くしたら、夕食の準備だ。
「今日は、リルの好きなものにしようか」
話せないシルケは、それでも楽しそうに頷いた。
今日は、森風の軽い煮込みと、焼き平パン、それから根菜の酢和えだ。
重すぎない内容で、栄養バランスに優れる。
成長期のリルには、このバランスの良い食事が何より大事だ。
まずは、下拵えから始める。
獣脂を少量、鍋に落とし、強火にならないよう、火の小精霊に合図を出す。
脂が溶け、透明になり始めたところで、刻んだ葱を入れた。
たちまち甘い香りが立ち、台所に広がる。
「焦がさないように、音を聞いておいてくれるか」
そう言うと、シルケは耳を澄まし、じゅわり、と優しい音が保たれているのを確認してくれた。
次に入れるのは、干しておいた角切りの魔獣肉で、最初から塩は振らない。
肉の表面を焼き固めるだけだ。
「ここで塩を入れると、旨味が逃げてしまう」
シルケは当然、と言わんばかりに頷き、表面が色づいたところで、水をひと掬い入れた。
じゅわぁ、と音を立てたそこへ、朝摘んだ《白鈴苔》の乾燥粉を、ほんの少しだけ投入する。
香りと共に、煮汁にとろみが付くので、あとは弱火に落とし、蓋をして煮込むだけだ。
その間にもう一品、作ってしまおう。
根菜の酢和えは、昨日掘った森蕪と、人参代わりの赤根だ。
シルケが薄く刻み、塩を振って軽く揉む。
水気を絞ったら、果実酢と蜂蜜を少量、最後に刻んだ香草を散らす。
「酸味は控えめに。そうしないと、リルが食べてくれない」
シルケは心得たもので、既に十分酸味を抑えた味付けにしてくれていた。
最後は平パンだ。
粉は小麦粉に、少量の木の実粉を混ぜる。
水と塩だけで捏ね、薄く伸ばせば、熱した鉄板で焼くだけだ。
膨らんだところをひっくり返すと、香ばしい焼き色が付く。
焼き上がりに、バターを薄く塗った。
それだけで、十分なご馳走になるのだ。
頃合いを見て火を止めると、迎えに行くのに丁度良い時間帯だった。
転移で素早くリルの傍に出現すると、丁度背を向けていたミーナとモンティが、ふと振り向いて驚く。
「わっ!? リルの母ちゃん! いつの間に!?」
「ついさっきだよ。……さ、リル。もう夕食の時間だよ。帰ろうか」
「うんっ!」
リルは私の腰に抱き着いて、二人に向かって手を振った。
「またね、ミーナちゃん! モンティもね!」
「また遊ぼうね、リルちゃん!」
「たまには、学習日以外にも来いよな!」
二人との姿が見えなくなるまで、リルは何度となく振り返って手を振った。
これもまた、帰る時のいつもの光景だ。
「今日は何して遊んでた?」
「うんとね、まずモンティとね、木の棒で……!」
リルの語り口は軽快で、今日起こった様々な事を、矢継ぎ早に話す。
楽しかった一日を過ごした時は、大抵こうだ。
夕陽に照らされて伸びた影は、繋いだ手もまた伸ばし、リルが大きく手を振る度に形を変えた。
リルは上機嫌で語り、私は笑顔で相槌を打っては、時折質問を返した。
こうしてまた、今日という一日が過ぎていく。
これが、私たちの“本当の日常”。
当たり前で、静かで、何より――今しかない時間だった。